日本は自然災害が多い国だ。年々、激甚化する大雨による災害は、地域の暮らしを破壊するだけでなく人命まで奪おうとするほどの猛威を振るっている。そんな水害を軽減しようとする取り組みは日本全国で見られるが、画期的な取り組みがNTT東日本と埼玉県越谷市、そして越谷市で農業を営む生産者によって進められている。同じ地域に暮らす人々のために少しでも役立てばという善意によって成立したある企画を紹介しよう。
○費用対効果の大きな対策として期待される「田んぼダム」
ゲリラ豪雨、線状降水帯、台風等、近年の日本は水害に遭う機会が増加している傾向にあるのは間違いない。厳しい状況の中、日本中で対策が進められている。今回紹介する埼玉県越谷市においてもそれは同様で、2023年6月に、埼玉県下流部でおこった大規模な浸水被害を受け、「中川・綾瀬川緊急流域治水プロジェクト」が発足している。
「国、県、市と行政が一丸となって浸水被害対策に取り組んでいます。排水ポンプを増やす、雨水調整池を作る等の案が出ていますが、その中のアイデアのひとつが『田んぼダム』なのです」と説明するのは越谷市 環境経済部農業振興課調整幹 占部 太一郎氏だ。
今回のプロジェクトは、越谷市の田園地帯を対象に、田んぼダムが浸水被害対策として、どの程度有効なのか実証実験をするため、越谷市とNTT東日本が中心となり、地域の農場従事者に協力を仰ぐような体制でスタートしたものになる。
田んぼダムはすでに流域にある水田に一時的に水を溜めるというシンプルなダムで、その場所に存在しているものを使うため、低予算で効果が望めるという特長がある。一方で、水害はいつ襲ってくるか分からないため、水が入っていない中干し期間であるとは限らず、水を張っている稲作中であっても水害が起こる可能性はある。どのような状況においても、可能な限り水田へ水を誘導することになるため、作物への被害もあり得るので判断が非常に難しいという問題もある。
「そのような条件がある中、田んぼダムに取り組むのであればどの地域が適しているのか検討を続けていました。NTT東日本様からもお話しをいただきながら決めたのが、ここ船渡地区だったのです」と占部氏。ここ船渡地区の下流方向には、中川水系のひとつ、新方川に注ぐ、平新川が流れている。この流域は水害が多いと同時に、この地区から中川へ出ていく水量を減らすことができれば水害対策としては非常に有効だろうという予測もあったのだという。
中央の田園地帯が船渡地区となる。西側に比較的規模の小さい平新川があり、南を流れる新方川へと注いでいる。この流域は昔から水害が多く、船渡地区の田んぼダムの有効性が期待されている。
「ただし、田んぼダムをやるにあたり、もっとも大切なことは、その場所の地権者または作業従事者である農家の方々の了承が必要であることが大前提となります」と占部氏は語る。
○実証実験への参加を決めた農業従事者の思い
今回のプロジェクトが船渡地区に決まったあと、越谷市は地域の農家に事情を説明。その中から2名の人物が参加を決めた。
「昔からこの辺りの水田はもともとそのような機能を持っていたかも知れません。現在は用水路が整備され、人間がコントロールしていますが、もしそれを水害対策として活用できる可能性があるなら実証実験に協力したいと考えました」と、船渡地区で農業を営む有限会社 日伊 代表取締役 渋谷 勇氏は語る。
「越谷市は水害が多く、船渡地区の下流にあたる南側の地域は、大雨が降るとすぐに冠水するほどです。私たちの水田をダム化することで、そういった被害を軽減できるのであれば、良い案だと思いました」と、語るのは同じく農業をされているニイザカファーム 代表取締役 新坂 真之氏だ。
今回のプロジェクトでは、この両者の水田の区画の一部を使い、2024年8月から2025年11月の間、貯水量を計測し、その結果を分析することになる。もちろん、そのためのシステムはNTT東日本が提供する。
「実証実験に使う水田の脇に水位を測るためのセンサーを刺しています。そこで得られた数値を近くに設置されている基地局へ送信し、データを集積してゆきます。水位データは自動的にインターネット経由でクラウド上にアップロードさせる仕組みになっており、私たちNTT東日本の関係者だけでなく、渋谷様、新坂様もスマートフォンのアプリで現在の状況を10分間隔で確認することができます」と語るのはNTT東日本 埼玉南支店 ビジネスイノベーション部 まちづくりコーディネート担当 担当課長 井塚 研次氏だ。
まずは、NTT東日本が提供するICT装置であるセンサーと基地局を設置。これらを活用することで、クラウドで水位の管理を自動化するところまでが今回のプロジェクトの目的となる。
今後、田んぼダムの有効性が確認できれば、水路の開閉や流量をコントロールする仕組みを作り、運用が始まるというステージへ移行するというわけだ。「田んぼダムは、私たちとしても初めての取り組みになります。まずは通常時はどれぐらいの水位なのか、どこまで水を溜めることができるのかといった、実態を把握することが目的になります」と井塚氏は語る。遠隔でデータを把握することができるため渋谷氏、新坂氏も「水田に来なくても現在の水位が把握できるのは非常に便利」と声を揃える。
○水田管理の自動化がJ-クレジットの創出にも貢献
実はこのセンサーによる水位管理により、農業家にはもうひとつのメリットがある。それは「J-クレジット」というシステムへの参加が容易になるということだ。J-クレジットとは、温室効果ガス排出削減量などをクレジットとして国が認証する制度で、創出されたクレジットを購入希望者に販売することで資金の循環を目指すという取り組みになる。このJクレジット制度を活用したカーボンファーミング市場は、2030年には92億円規模に達すると予測されている。
例えば、水田の場合、水を完全に抜くことによりメタンガスの発生量を抑えることができる。今回のプロジェクトにより、対象区域の水田にはセンサーが設置されているので、水が張っていない状態の日数をデータとして証跡管理ができるのだ。「水田にはもともと中干しという期間があります。その期間を延長したという証明をデータとして提出できるので、それがクレジットとしての価値を持つことになります」と井塚氏は語る。
その期間については、水田に植える稲の品種や気候によって一概にはいえないが、条件さえ揃えば、すぐにでもJ-クレジットを創出し、それを資金に変換することは可能だということになる。「その年に植える稲の品種によって、中干期間はある程度決まっているので、あくまでも無理のない範囲でのテストになります。その結果、J-クレジットにより、利益が出るのであれば、それはうれしいことですね」と語る渋谷氏。いずれにしても、J-クレジットの創出を含め、田んぼダムの実証実験プロジェクトは始まったばかりなので、まずはトライすることが大切といったところだろう。
「昨年度の災害で大変な思いをされた方もたくさんおられました。先ほども触れましたが、現在越谷市は国と県も一緒になって災害対策に取り組んでいます。今回の田んぼダム実証実験もその中のひとつの項目として、私たちとしても注目しています。船渡地区においては、渋谷さん、新坂さんにご協力をいただき、大変感謝しております。今回のプロジェクトが、災害対策と水田の付加価値を上げるような成果に結び付けられれば良いと考えています」と最後に井塚氏は語ってくれた。
田んぼダムやJ-クレジットの導入により、水田が持つポテンシャルを引き上げることが可能であれば、それだけ生産される米の付加価値も高くなる。今回の取り組みを通じて、越谷市の米の評価が上がることにも期待したい。
身近な場所で起こりえる災害対策に、自らの耕作地を使うことを承諾してくれた渋谷氏、新坂氏の協力のもと実現した、越谷市の田んぼダム実証実験プロジェクト。関係者各位および地域住民にとって、よりよい未来へつながる取り組みになると信じて、続報を待ちたいと思う。
中山一弘(エースラッシュ) この著者の記事一覧はこちら(中山一弘(エースラッシュ))