戦後最大の疑獄と言われたロッキード事件。その捜査に携わった元検事・堀田力弁護士(13期)が11月24日に亡くなった。享年90。
緻密で鋭い追及は「カミソリ」の異名で知られ、同事件ではアメリカ側との交渉の末、捜査資料の入手に成功し、田中角栄元総理の逮捕という一大局面を切り開いた。
30年に及んだ検事生活。だが、1991年、定年を待たずして57歳で退官、弁護士となって福祉事業やボランティアの世界に身を投じた。
筆者が司法記者クラブ詰めになったのは、堀田弁護士が退官した翌年のことだ。
以降、折に触れて取材を重ね、たびたび番組にも出演いただいた。
その堀田弁護士の事件解説は、厳しい論評の中にも、現場への深い理解と熱いエールが込められていた。
感謝と追悼の意を込め、過去の取材やインタビューを紐解き、“カミソリ堀田”の足跡をたどる。
1976年2月、戦後の日本を揺るがせた「ロッキード事件」が幕をあけた。
企業の不正を追及するアメリカ上院外交委員会・多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社が航空機を売り込むために世界各国にワイロをばら撒いていたことが明らかになった。
その中で同社のアーチボルト・コーチャン副会長から爆弾発言が飛び出した。
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「ロッキード社が航空機「トライスター」を日本に売り込むために『30億円』以上を支出し、うち『21億円』が、同社の秘密代理人・児玉誉士夫に渡った」
「日本の代理店・丸紅の伊藤専務に渡ったカネは、政府高官(大物政治家)に支払われた。それを私に勧めたのは、丸紅の檜山会長か、大久保専務のどちらかだった」
丸紅・大久保専務の祖父は、西郷隆盛とともに討幕や明治維新で活躍した政治家・大久保利通、母方の祖父は元総理大臣の高橋是清という華麗な系譜で知られていた。
公聴会で公開された資料には、「ピーナッツ100個」と書かれた「ヒロシ・イトウ」が署名した計「5億円」や“政財界のフィクサー”と呼ばれた大物右翼の児玉誉士夫とロッキード社との「コンサルタント契約書」や児玉の「領収書」40通などが含まれていた。
のちに「ヒロシ・イトウ」は丸紅・伊藤宏専務のサインとわかり、「ピーナッツ1個」は100万円を意味することが判明した。
さらにコーチャン副会長はこう証言した。
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「児玉さんから国際興業グループの小佐野賢治さんを紹介された。小佐野さんに販売戦略などを相談したが、謝礼は、児玉さんに払った一部があてられたと思う」
“政商“と呼ばれた小佐野賢治の名前が登場したことによって、小佐野の“刎頸の友”と言われていた田中角栄元総理大臣の名前が浮上したのである。
小佐野と田中は若い頃から二人三脚で歩んできた親しい間柄。
国際興業グループ創業者の小佐野は田中の最大のスポンサーであり、全日空の大株主だった。
事件の概要はこうだ。ロッキード社が民間航空機「トライスター」や軍用機「P3C」を日本に売り込むために、3つのルートを通じて「政府高官」にカネを渡したという疑惑だ。
「児玉ルート」ロ社の秘密代理人・児玉誉士夫に渡ったとされる「21億円」
「丸紅ルート」ロ社の代理店・丸紅から元総理大臣・田中角栄に渡ったとされる「5億円」
「全日空ルート」ロ社から航空機トライスターを購入した全日空への「2億円」
ロッキード事件は日米のみならず、オランダ、イタリア、西ドイツ、インドネシアなど世界各国で同様の汚職が発覚し、世界規模のスキャンダルに拡大した。
ベトナム戦争が終結した影響で、赤字に転落したロ社は、業績回復の切り札として民間機「トライスター」と軍用機の「P3C」の販売に全力を注いでいた。
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「P3C」は敵の潜水艦を見つけるための「対潜哨戒機」である。当時の日本でも「国産」の「対潜哨戒機」の開発が進められていた。
しかし、田中政権下で突如、国産化計画が白紙撤回となり、「輸入」に戻るという不可解な経緯があった。
米国発の大スキャンダルに日本は騒然となった。
2月5日、外電に気が付いた朝日新聞だけが朝刊で「ロッキード社、丸紅・児玉へ資金」と一報を伝えた。
その日の夕刊各紙の一面には「ロッキードの対日工作費は30億円」「丸紅、児玉通じロッキードから政府高官へ」「ロッキードがワイロ商法、児玉に21億円」などの見出しが踊った。
2月6日、金脈問題で退陣した田中元総理のあとを受けて、総理大臣に就いていた“バルカン政治家”三木武夫は、すぐに「ロッキード事件の真相究明」を表明した。
クリーンなイメージを売りにする三木は、アメリカ側から捜査資料を取り寄せ、政府高官の名前を公表したいと考えていた。
マスコミの報道が過熱するなかで、東京地検特捜部は水面下で捜査を進めた。
捜査の陣頭指揮を執ったのは、のちに検事総長となる”特捜の鬼”吉永祐介(7期)主任検事だった。
吉永は、国税庁と連絡を取りながら、公開された領収書などをもとに証拠の積み上げをめざした。
2月16日に開かれた国会の「証人喚問」に小佐野賢治が呼ばれた。
小佐野は「記憶にございません」を連発、この年の「流行語」となり、テレビで全国中継された証人喚問は、異例の高視聴率を記録し、国民の関心の高さを如実に示した。
その後、丸紅、全日空の役員らへの「証人喚問」も行われたが、役員らは疑惑を全面的に否定。それらの証言はのちに偽証罪に問われることになる。
2月18日、ロッキード事件の捜査方針を決めるための「検察首脳会議」が初めて開かれた。
当時、堀田力(13期)検事はまだ41歳の法務省刑事局の参事官だったが、法律面から意見を述べる立場で出席していた。
捜査を統括する吉永は、事件への慎重な姿勢を崩さなかった。
「アメリカでさえ公開してない秘密捜査資料など、日本の捜査当局が、入手できるはずがない。そもそも日本に渡す義務もない」(吉永)
これに対して大使館勤務の経験もあった堀田はこう意見を挟んだ。
「アメリカのSECが持っている未公開資料を入手できる可能性もあります。前例はありませんが、交渉してみる価値はあると思います」
さらに堀田は踏み込んだ意見を述べた。
「アメリカの司法省が捜査協力に応じてくれれば、日本の検事が直接、ロッキードの幹部を取り調べることも可能かもしれません」
堀田の発言に対し、吉永の視線が鋭く向けられた。
「この状況で、吉永さんがロッキード社側が任意の事情聴取に応じるはずもなく、義務もないと考えるのは、当然のことでした。
吉永さんの立場で、失敗は許されないというプレッシャーは理解していますが、明らかにその場で睨まれました」(堀田)
堀田力(13期)と上司の吉永祐介(7期)は、司法修習で6期の差があるが、実際の年齢差はわずか2歳。堀田は1934年4月生まれ、吉永は1932年2月生まれである。
実はある出来事がきっかけで、2人には一時「微妙な時期」があったと、堀田はのちに筆者に語っている。
「32歳か33歳くらいだったと思いますが、私が大阪地検特捜部にいたとき、3か月間ニューヨークの検察で汚職捜査の研修を受けることになりました。
ところが、派遣される直前に、東京地検から『やはり大阪より東京から人を出すべきだ』という声が上がり、急遽試験を受けることになったんです。
その試験で、東京地検特捜部から受験したのが吉永さんだったらしいのですが、結果的に吉永さんが落ち、田舎の大阪地検特捜部にいた私が選ばれたことが、それが、あまり面白くなかったと聞きました」(堀田)
一度は東京地検特捜部で働きたいと希望していた堀田だが、まずは大阪で成果を出したかった。NYでの研修を終え、帰りの機内で新聞を読んでいると、ある記事が目に留まった。
「大阪のタクシー業界がLPG(液化石油ガス)課税法案に猛烈に反対している」
堀田はその記事に「事件の匂い」を嗅ぎ取った。
翌日から膨大な伝票や銀行口座を徹底的に調べ上げ、タクシー業者の業務上横領を立件。これが、「大阪タクシー汚職事件」の摘発へとつながった。この捜査の中で、タクシー業界と政治家の癒着が浮かび上がったのだ。
運輸族の関谷勝利議員は、法案を修正するよう別の国会議員に働きかけた見返りに、大阪タクシー協会幹部からワイロを受け取った収賄罪で逮捕・起訴された。
「実は、捜査が進む中で、私は法務省刑事局に異動となりました。そこで、関谷議員らを国会会期中に逮捕するための『逮捕許諾請求』を初めて担当することになったんです」
(堀田)
国会議員には国会会期中に逮捕されない「不逮捕特権」が認められている。
そのため、議員を逮捕するには、国会から許可を得る必要がある。
この手続きは堀田にとって初めての政界捜査となり、特捜部への大きな一歩となった。
時は移り、昭和から平成へと変わった1994年。筆者と堀田が巡り合ったのは、政治家へのヤミ献金をめぐる大型スキャンダルの「ゼネコン汚職事件」だった。
この事件で、東京地検特捜部は中村喜四郎元建設大臣をあっせん収賄罪で立件。
特捜部は、堀田が27年前に手掛けた関谷勝利議員以来となる、国会会期中の「逮捕許諾請求」に踏み切るという決断を下した。
当時、堀田はTBSの「報道特別番組」に出演し、スタジオ解説を担当していた。
普段はソフトな語り口で知られる堀田だったが、この日は特別だった。
27年前、関谷議員の捜査を熟知している元検事として、そのコメントには、いつにも増して力強さがあった。
一方、筆者は司法記者として東京地検前から特捜部の動きを逐一、スタジオの堀田と杉尾キャスターに、生中継で伝える役割を担っていた。
緊迫する状況下で、特捜部の捜査は刻一刻と進展していた。
堀田は筆者のリポートを受けて、静かに確信をもってこう締めくくった。
「国会会期中に議員を逮捕することは、検察当局としては、できれば避けたいというのが本音です。というのも、国会から逮捕許可を得るには、あらかじめ事件の証拠を国会に開示しないといけないからです。そうなると、国会側が主導権、ボールを握っているため、『これを出せ』『あれを見せろ』と次々に証拠開示を要求してきます。
ですが、詳しい証拠を出しすぎると、証拠隠滅の恐れもあり、捜査に支障をきたす可能性があり、非常に苦しい交渉を迫られます。
「他にどこへ金が流れているのか」など党利党略、私利私欲に基づき、様々な証拠を不当に求めてくる議員もいます。
法務・検察当局としては、国会への説明対応だけで多大な労力を費やし、疲労困憊してしまうのです。そうした中で、中村元建設大臣の逮捕許諾請求に至ったのは、現場の検察官たちが本当に頑張った結果だと思います」
国会議員の摘発が続いた平成の時代、堀田は取材や番組を通じて「政治とカネ」について常にこう訴えていた。
「政治とカネの不正行為を検察がすべて解明するのは不可能です。やはり、政治資金規正法で抜け道をなくし、お金の動きを透明化し、国民に見えるようにすることが大事です。
またアメリカでは個人が大統領選挙に5ドルとか10ドルとかを献金しますが、日本では個人がほとんど献金しません。
個人が支援したい人にお金を出し、政治をやってもらうことが理想だと思います」(堀田)
自民党の裏金問題が続く中、そのコメントは令和の現在でも色褪せていないのが、皮肉なものだ。
ターゲットは“政財界の大物フィクサー”児玉誉士夫ロッキード事件に話を戻す。2月18日に行われた一回目の「検察首脳会議」、重い空気が漂うなか、検察ナンバー2の神谷尚男検事長がこう呼びかけた。
「この捜査が大変なことはよくわかっています。しかし、もしここで検察が立ち上がれなかったら、検察は今後20年間、国民から信頼されないだろう」
それに続き、検察トップのフセケン(布施健検事総長)が「全責任は私が取る。思う存分やってほしい」と強い決意を示し、捜査に「ゴーサイン」が下された。
そして堀田は交渉のために極秘で2月16日、渡米することになった。
「わざわざ沖縄、グアムを経由して、米国に入りました。もたろんスーツネクタイではなく、派手な上着にカメラを下げ、サングラスをかけて観光客を装いました」(堀田)
ロッキード事件捜査の主任検事・吉永祐介が当初、ターゲットに定めたのは政財界に絶大な影響力を持つ黒幕で、裏社会にも深く通じていた大物右翼の“フィクサー”児玉誉士夫であった。
児玉は戦後の多くの疑獄事件で関与が取り沙汰されながら、いつも捜査の網をすり抜け、特捜部にとっては手が届かない存在だった。
そんな児玉に、ロッキード社の秘密交渉人として『21億円』を受け取った疑惑が浮上、ついに特捜部がメスを入れる最後の好機が訪れたのである。
最大の問題は「21億円」についての脱税(所得税法違反)の時効期限が3月に迫っていたことだ。
特捜部はこの脱税をまず立件し、それを突破口としてロッキード社の『トライスター』や『P3C』の疑惑に攻め込む方針を固めた。
事件発覚から20日目の2月24日、正式に「ロッキード事件捜査本部」が立ち上がり、東京地検、東京国税局、警視庁の三者合同による関係個所の一斉家宅捜索が行われた。
総勢約400人が動員された捜索は、東京・世田谷区等々力の児玉邸、丸紅本社など30カ所近くに及び、史上最大規模の強制捜査となった。
児玉邸では10時間以上にわたって家宅捜索が続けられた。児玉がいる病床では、特捜部の松田昇(15期)検事と医師の立ち合いのもとで、慎重に捜索が行われた。
「三者合同の強制捜査は異例だった。事前に警視庁から児玉を一緒にやらせてくれと相談があったが、国税庁との関係もあり断った。
警視庁には丸紅を手伝ってもらうことになったが、案の定、事前にマスコミに情報が漏れたため、抗議した」(当時の検察幹部)
合同捜査のデメリットは、「秘密保持」が難しいことである。
国会議員の中には警察OBもいるため、検察は「警察から政治家に情報が漏れる」ことに常に神経を尖らせていた。これは時代を問わずついて回る。
また特捜部にとって悩ましい存在となっていたのが、現職の総理大臣である三木武夫だった。強制捜査と同じ日、三木は米フォード大統領に直接、「政府高官」の名前が記された未公開の捜査資料を引き渡すよう要請した。
三木は「クリーンな政治」を掲げ、金権批判で退陣した田中に代わって総理大臣に就いたが、三木派は国会議員の数も田中派の約半分で、弱小派閥。政権の基盤も安定していなかった。
そんなときに突如、降ってわいたロッキード事件の真相究明は、三木にとって国民からの支持を集める絶好のチャンスでもあった。
真相究明を求める世論を追い風に、三木総理は、一刻も早く米側の未公開資料を手に入れ、ロ社からカネを受け取った「政府高官」の名前を公表するつもりだった。
カネが動いたのは田中総理の時代であり、三木総理は真相究明に前のめりだった。
しかし、検察としては、捜査が行われる前に三木総理が「政府高官」の名前を公表すれば、政府高官に「証拠隠滅」をされる恐れがあり、事件がつぶされてしまう。
そのため、米司法省との間で、資料は公表せず「捜査のために使う」という条件で取り決める必要があった。
堀田は、資料を「捜査目的のみに限定し、政府高官の名前は公表はしない」という司法取り決め案を水面下で、米司法省側に伝えた。
「未公開資料は捜査のために使う。なので検察だけに渡してほしい」
「政府高官の名前は公表しない」堀田は3月10日にいったん帰国し、3月12日に開かれた2回目の「検察首脳会議」で政府高官についての資料や、コーチャンらの取り調べについての見通しを報告した。
「SECの未公開資料の件ですが、この資料にはカネを受け取っていた政府高官(大物政治家)の名前が記載されている可能性は大です。
米司法省は、渡してもいいと言ってますが、『政府高官の名前は公表しない』という取り決めを日米間で交わさなければなりません」(堀田)
アメリカが条件として提示した「政府高官の名前は公表しないこと」について、検察幹部は三木総理が納得しないのではという懸念を抱いた。
そこで、堀田と上司である法務省の安原刑事局長が総理官邸を訪れ、難色を示す三木を説得し、最終的に、アメリカ側の条件を受け入れる形で「日米司法取り決め」を結ぶことに同意を得たのである。(このときの様子については後述する)
堀田は取り調べについても報告した。
「コーチャンらの取り調べですが、こちらの尋問内容を米司法省の検事に依頼する、いわゆる『嘱託尋問』ができるのではないかと思います。条件次第では、十分可能だと考えます」
しかし、日本の検事に代わって海外の検察に取り調べを委託する「嘱託尋問」は、当然ながら、日本では前例がなかった。
加えて、ロッキード社側がコーチャン副会長やクラッター日本支社長を『嘱託尋問』に応じさせるのかどうか、それとも何らかの妨害をしてくるのか、その対応も全く予測できなかった。
前例がない「嘱託尋問」という手法を実現するためには、多くの課題を乗り越える必要があった。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
参考文献
堀田 力「壁を破って進め 私記ロッキード事件(上下)講談社、1999年
奥山俊宏「秘密解除 ロッキード事件」岩波書店、2016年
坂上 遼「ロッキード秘録 吉永祐介と四十七人の特捜検事たち」講談社、2007年
山本祐司 「特捜検察物語」(上下)講談社、1998年
NHK「未解決事件」取材班「消えた21億円を追え」朝日新聞出版、2018年
- TBS NEWS DIG
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