中西大翔(旭化成)インタビュー(前編)
【リスペクトするふたりの先輩キャプテン】
中西大翔(旭化成)が國学院大のキャプテンに就任したのは、2022年の第98回箱根駅伝の終了後だった。
「キャプテンの仕事は自分にこないでほしい思っていました。高校時代は部員が5、6名しかいなくてチームをまとめるという経験がなかったんです。正直、60人の部員の前で話をするのも、チームをまとめることにも苦手意識があったのでビビっていました」
中西は歴代のキャプテンである土方英和(現・旭化成)や木付琳(現・九電工)のようになれるのか不安だったが、前田康弘監督の言葉に救われた。
「自分らしく、大翔らしく自分のやり方で引っ張っていけばいいよと言ってもらえたんです。その言葉ですごく気持ちがラクになりました」
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中西がリスペクトしていたのは、土方と木付のキャプテンシーだ。ふたりとも3、4年の2年間、キャプテンをまかされ、チームをまとめるなど手腕を発揮した。中西は理想のキャプテン像をこのふたりに重ねていた。
「ふたりがチームを引っ張っていく姿は、非常に安心感がありました。この先輩についていけばチームとして勝っていけるんじゃないか、成長できるんじゃないか、この先輩についていこうという気持ちさせてくれました。走りはもちろん、言葉でもチームを引っ張っていくところがふたりにはあって、ミーティングや練習後の反省会での言葉にすごく魂がこもっているので心に響くんです。そういう言葉を持っている先輩方だったので、自分にとっては理想のキャプテンでした」
ふたりのようにはなれないかもしれないが、自分がどのようにチームを牽引していくのか。中西は4年生を集めて話をし、理解を求めた。
「自分は言葉で引っ張っていくのが苦手なので、まずは走りで引っ張っていきたい。各学年隔たりなくコミュニケーションを取って仲良くして、締めるところは締めていく。生活面では1年生がリラックスして寮に入れる環境作りを意識してやっていこうという話をしました」
中西がそう思ったのには理由があった。前年度のチームは4年生に力があるがゆえに結果を求め、チーム内に甘えを許さない張り詰めた空気が漂っていた。
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「自分が3年の時、1年生が伸び伸びやれていないような感じがあったんです。先輩に交わることがなく、1年生だけで固まり、うまく溶け込めていない感じがありました。自分は、上下関係を含めて締めすぎるのはよくないと思っていましたし、寮生活を含めてもっと楽しめる環境があってもいいかなと思ったので、そこは自分の代で変えていきました」
【「部内ではいざこざもあった(苦笑)」】
キャプテンの仕事は多岐に渡る。例えば、性格や競技力、意識の異なる選手が60人もいると部内でよくトラブルが起こる。その仲介役や相談役も求められた。
「部内ではけっこういざこざがありました(苦笑)。正直、僕が間に入る話でもないんだけどなあと思いつつ、お互いの意見を聞いて、ふたりで話し合いをさせたりしていました。そういう小さな綻びからチームは崩れていくし、雰囲気が壊れていくので、そこは副キャプテンの力を借りながらけっこう気を使って解決していきました」
副キャプテンは4年生ではなく、3年の伊地知賢造(現・ヤクルト)と鈴木景仁(現・富士山の銘水)だった。同じ学年であれば愚痴をこぼせることもあるだろうが、3年生だとそうもいかない。だが、実際は3年生の副キャプテンにかなり助けられた。
「ふたりはすごく弁が立つというか、言葉がうまいんです。自分は言葉を発するのが苦手なタイプだったので、そこはすごく助かりました」
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一方で、3年生の副キャプテンから苦言を呈されることもあった。
「自分たちは4年生として考えてチームを引っ張っていたのですが、3年生からすればまだまだ物足りないという意見がありました。でも、それを言ってくれてむしろ良かったです。自分たちだけでは気づかないことがありますし、同じ学年だと甘く考えてしまうところがあるので、そういう意見を聞いて、もっと4年生として頑張る姿を見せていこうと、上級生がまとまることができました」
駅伝シーズンに入ると、上級生と下級生が噛み合い、出雲駅伝は2位、全日本大学駅伝も2位と結果を残した。だが、中西はその結果を素直に喜ぶことができなかった。
「ふたつの駅伝で2位になり、自分がキャプテンとしてチームを引っ張っていけている安心感はあったんです。でも、チームのみんなに笑顔がなかったですし、自分も素直に喜べなかった。この戦力なら優勝できる、もっと戦えると思っていたので」
全日本が終わってから、箱根までチームは難しい時期に入る。箱根の16名のメンバーが決まるまでは、ボーダーライン上の選手は生き残りをかけた選考レースに臨み、レギュラークラスの選手は記録会に出るなど、自分の記録を追求していく。それぞれのベクトルに分かれて進んでいくことになるからだ。
「全日本後は個人記録を狙ってレースに出る選手と箱根選考に賭ける選手で、それぞれ流れが異なり、足並みが揃わないので、箱根に向けてひとつになるのはちょっと難しかったですね。ただ、寮での生活面がそれでギクシャクするのは違うなと思ったので、そこはキャプテンとして、寮ではみんなリラックスして過ごして、試合では集中してメリハリをつけていこうという話をしました」
【「痛みを隠して走ることもできたけど......」】
12月に入り、箱根のメンバー16名が発表された。そこで漏れた選手の多くは落胆する。とりわけ4年生はその衝撃が大きい。自分の実力やチーム内の状況を鑑み、難しいとわかってはいても、実際に名前を呼ばれない現実に直面するのはつらいものだ。
「落選した4年生のショックは非常に大きいですね。だからといって腐ってしまうとチームに迷惑をかけてしまう。箱根の翌日に引退するまでは練習を引っ張っていき、後輩たちに何かを残していく。それを4年生に確認し、最後までやってもらいました」
箱根を走れない4年生のなかには、中西の双子の兄・唯翔(現・NTTビジネスアソシエ東日本)もいた。
「唯翔は選考レースの上尾ハーフを外した時にかなり落ち込んでいたのですが、すぐに気持ちを切り替えて後輩たちの練習を引っ張ってくれたり、コミュニケーションを取ってくれました。お互いに特に言葉はなかったのですが、言わなくても自分に託されたのは感じましたし、自分がやるしかないと思っていました」
中西は12月上旬の甲佐10マイルで好走。箱根に向けて一番負荷のかかる練習も余裕を持ってこなし、予定の4区での区間賞も見えてきた。だが、そのポイント練習の翌日に足に異変を感じた。
「この練習の翌日の朝、アキレス腱がすごく痛くて......。その後、治療を続けたのですが、前田さんが自転車についてきてくれてふたりで練習をした時も痛くて途中で止まってしまったんです。注射を打ったけど、痛みが引かなくて、31日の朝に監督室に『走るのは無理です』と言いに行きました」
この時はさすがに涙がこぼれた。「なんでこんな時に」と思い、ひとり悔しさを噛みしめた。その姿を見ていた後輩の平林清澄(現・4年)たちは「大翔さんのために」という合言葉を胸に秘め、箱根を駆けようと誓った。
中西は、悔しさはあったが、チームのことを考えると後悔はなかった。
「故障してからは4区ではなく、アンカー(10区)で走るというのが決まっていました。痛みを隠して走ることもできたと思うんですが、アンカーの途中で走れなくなり、棄権になると、翌年のチームに予選会からのスタートという爆弾を残して卒業することになってしまう。そのことを考えると、自分の思いだけで走ることはできませんでした」
4年生でキャプテンの中西の欠場はチームに大きな衝撃を与えた。だが、翌日の区間発表のミーティングでは、「チームのサポートを全力でする」と全員に伝えた。
「僕は箱根で(三大)駅伝の皆勤賞がかかっていましたし、キャプテンとして、しかも最後の箱根ということで気持ちが入っていました。ピーキングも合っていましたし、自信もあったので、走れないというのは考えられなかった。本当に悔しかったです」
キャプテンとして、自分の走りでチームに貢献することができなかった。中西はその責任をずっと抱えていた。そこまで責任を背負う必要はないのだが、そういう意味では中西はキャプテンらしいキャプテンだったと言えよう。
◆インタビュー後編>>2年前の主将・中西大翔が語る國学院大「三冠」の可能性「平林はもちろん、部屋っ子にも期待」
■Profile
中西大翔/なかにしたいが
2000年5月27日生まれ、石川県出身。金沢龍谷高校ではインターハイ5000ⅿで決勝進出、世界クロスカントリー選手権(U20)に出場するなど活躍。國学院大学に進学すると。いきなり出雲駅伝初優勝のメンバーとなった(2区3位)。箱根駅伝は1年時に4区で区間3位、2年時に2区15位、3年時に4区4位、主将を務めた4年時は直前の故障で不出場。旭化成所属。