韓国人Jリーガーインタビュー
キム・ミンテ(湘南ベルマーレ) 前編
Jリーグ30数年の歴史のなかで、これまで多くの韓国人選手がプレーしてきた。彼らはどのようなきっかけで来日し、日本のサッカー、日本での生活をどう感じているのか。今回は来日10年、今季は湘南ベルマーレでキャプテンも務めた、キム・ミンテに話を聞いた。
後編「キム・ミンテがJリーグで成長する過程を語る」>>
【2015年に来日し10シーズン】
キム・ミンテは"比較的静かに"ずっとここにいる。
2015年に韓国・光云大からベガルタ仙台に加入し、3つのクラブを経て湘南ベルマーレへ。今季で10シーズンを日本で過ごした。
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11月にベルマーレのクラブハウスで話を聞いた。こう口にしていた。
「別に有名になりたいとは思ってません。サッカーがうまくなりたいと思っているだけです」
とはいえ、今年は"主人公"になる機会もあった。2024年11月9日、J1第36節北海道コンサドーレ札幌戦の試合前、ホームスタジアムで彼のセレモニーが開催された。
J1通算200試合出場。
思いを聞くべく、試合後の取材エリアで彼を待った。通訳がいない。日本語で堂々と問いに答える。
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「たくさん失敗してきました。それを許してくれた多くの方々のおかげだと思います」
それどころか、別の質問での答えに驚いた。試合を振り返っての印象を聞かれると、1−1で終わった試合をセンターバック(CB)として見た戦況を語り始めた。そこに出てくる日本語と言ったら......。
「はがす」「裏を取られる」「食いつく」......。
普通じゃない。韓国語で何て言う? ちょっと思いつかないような"日本サッカー用語"が次々と飛び出す。
それだけでも彼の日本で過ごした時間のすごみを感じさせた。2015年に加入した仙台での2シーズンを皮切りに、札幌で4シーズン半、名古屋グランパスで半シーズン、鹿島アントラーズでの1シーズン半を経て、2023年途中から湘南で過ごしている。
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今季はリーグ戦38試合中32試合に先発出場、外国人ながらにキャプテンも任された。
彼はいったい、どんな思いで10年間を過ごしてきたのか。
【選手の名前を覚えまくる】
若き日の「怒り」が後の自らのキャリアを決定づけた。本人の口からはそうは言わなかったが、話を聞くにそんなことを思う。
2014年の夏、20歳だったキム・ミンテは、ベガルタのテストを受けるべく仙台の練習場に足を踏み入れた。
当時所属していた韓国の光云大学の監督に「行け」と言われたからだった。最初は「嫌だった」。別に日本には大した関心はなかった。『ドラゴンボール』や『「SLAM DUNK』を知っていた程度。小学6年生の時、郷里のインチョン市選抜チームの一員として遠征に行ったことがあったが、「日本にはボール扱いがうまい選手が多い」と思った程度だった。
ただ、高卒時にはKリーグから声がかからなかった自分にとっては、数少ないチャンスでもあった。同大学は当時、3年次から中退してのプロ入りが可能だったが、監督はすぐに話をつないでくれた。高卒時に自分を好んでくれた恩師の計らいでもあった。そんなこんなで「テストを受けてこい」という話を断れなかった。
"事"はテストを受け始めた初日、そして2日目に起きた。
当時は「大型(187センチ)だけど、ちょっと足元の技術もあるボランチ」だった練習生キム・ミンテは、練習試合に投入された。しかし、プレーしていてちょっとした怒りを覚えた。
「パスが来ない。自分にボールを回してくれれば、もっとやれるのに」
怒りからその日の練習後に自分のなかでアクションを起こした。
「全選手の顔と名前を全部覚えたんです。試合中に名前を呼んで、パスを要求しようと。何が何でもメンバーの顔と名前を一致させる。意地でも覚えまくりました。ニックネームはわからないから名字だけをとにかく覚えて」
当時は当然、日本語も話せない。「練習が終わってちょっと観光がてら外食」というわけにもいかなかった。10年前の話だ。「空港でスマホのSIMカードを挿し換えて日本でも使う」といったシステムもない。Wi-Fiもなく、通信手段すらなかった。だからホテルにこもって作業を続けた。
後にチームメイトとなり、親しくもなったCBの上本大海は「タイカイ」と呼ばれていたし、加入後は自分もそう呼んだ。でも当時はそんなことはわからないから「ウエモト」と覚えた。
そして翌日、練習試合から周囲の選手の名字を呼びまくって、パスを要求し続けた。
結果、テストに合格。それが理由だったかどうかわからない。しかし後にコーチから言われた。
「そんな練習生、見たことがなかった」
やる時はやる、そしてやりきる。後に「それは韓国人らしいメンタリティかもしれないですけどね」とも思うようになったが、とにかく当時はそんなことは知らない。日本人のメンタリティのなんたるかも知らなかったからだ。
【ケガで日本語を猛勉強】
翌年、2015年の1月にプロ選手としてベガルタ仙台での日々が始まった。しかし日本到着の3日後、すぐに左ヒザを負傷してしまう。キャンプはすべて別メニューでこなさなくてはならなくなった。
「ここから、っていう時に......感情をどうぶつけたらいいのかわかりませんでしたね」
思うようにプレーできない時間。これを日本語の猛勉強に充てた。
「テレビやアニメを見て覚える。あとは、紙にとにかく単語を書き出しまくって、壁に貼ってひたすらに覚えましたね。"行く、来る""カバン"とか。いざ、その状況で思い出せるように、と......」
当時の日本のメディアには「安室奈美恵の歌やドラマ『ごくせん』を教材に」とも紹介された。
負傷は3月には癒え、2015年5月10日にはリーグデビューも果たした。その日にゴールを決める順調な滑り出し。結局シーズン合計16試合に出場、4ゴールを記録した。一方で戸惑いもあった。試合のテンポが速い。またシーズン終盤では、守備での弱点を突かれるシーンも散見された。
さらに、日本と韓国の文化ギャップを感じることもあった。
「チームメイトの試合に負けた後の雰囲気が少し緩い、と感じるところはありましたね。自分自身は外国人としてここでプレーしている。ましてや韓国で実績があったわけではなく、大学生の身分から始まっている。だからこそ、1試合でも負けたり、試合に出られないことは経験したくないという気持ちを強く持っていました」
しかし、日本でもがく時間はある結果をもたらしていた。
リオ五輪に向かうU−22韓国代表に招集されはじめたのだ。韓国では「一定水準以上の外国のリーグにおいて外国人枠でプレーしている」という点は「高い競争に打ち勝っている」と評価される向きもあるからだ。
初招集で、キム・ミンテはあることを感じた。
「俺、やれてる」
大学時代までの自分は、「高卒でKリーグに行けなかった存在」だった。だから年代別代表との練習試合などでは「何もやれない自分」を感じたりもした。「やっぱりあいつらうまいな」と。
しかしJリーグでの時間を経て母国の五輪代表に招集された際には、違うことを感じた。
「Jリーグのテンポってすごく速いんですよ。ボールが動くテンポが。韓国はどっちかというと"人が速く走る"感じで。日本は展開が変わったり、攻守を切り替えたりというのがすごく速いので、代表では自分のプレーが通用する実感がありました。初めて行った時も"次も行けるな"と感じたものです」
【リオ五輪に出場】
初招集後、一時は主力組の扱いを受けた時期もあったが、今度は腰の負傷が襲いかかった。予選で選手がシャッフルされる過程では合宿に参加できず。伝説的な決勝戦での日韓戦(手倉森ジャパンが3−2で大逆転勝利)があった、2016年1月のリオ五輪最終予選兼AFC U−23選手権にも選出されなかった。
ただし、五輪本大会では直前にCBの選手が負傷、バックアップメンバーだった自分自身が最終エントリーに選出された。「CBもボランチもできるからだったと思います」。グループリーグ初戦のフィジー戦(〇8−0)、3戦目のメキシコ戦(○1−0)で出場機会を得たが、チーム最終戦となった準々決勝のホンジュラス戦では出番がなかった。
今のところ、キム・ミンテの代表チームのキャリアは、そこに留まっている。
一方その後、Jリーグでは濃厚な時間を送ることになった。それは「はっきりと自分をどう成長させたいか、決心してチームを移る」という時間だ。
後編「キム・ミンテがJリーグで成長する過程を語る」へつづく>>
キム・ミンテ
金眠泰/1993年11月26日生まれ。韓国仁川広域市出身。MF/DF。光云大学から2015年にベガルタ仙台に加入。2017年から北海道コンサドーレ札幌、2021年途中から名古屋グランパス、2022年から鹿島アントラーズ、2023年途中から湘南ベルマーレでプレー。今季J1通算200試合出場を果たした。U−23韓国代表としてリオ五輪を経験している。