毎年約1万人が参加する日本最大級の音楽イベント「サントリー1万人の第九」。初心者から経験豊富な合唱愛好者まで幅広い層が集い、プロの指揮者やオーケストラと共演する特別な体験が国内外から注目を集めている。その公演を舞台裏で支える合唱指導者の姿に迫った。
■初回から携わるベテラン指導者
日本を代表する指揮者の佐渡裕さん(63歳)が総監督・指揮を務める圧巻の舞台。その実現のため、200人規模の小グループで練習が行われている。初心者は、全12回の稽古を経て、大阪城ホールの本番に立てる。
清原浩斗(きよはら・ひろと)先生(76歳)は、大阪市内の淀屋橋クラスでレッスンを担当しているベテラン指導者。83年にスタートした同公演に初回から携わっている。
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「第九は普通200、300人ぐらいの合唱団でやりますので、1万人は多分無理だろうなと思っていたんですよ。83年当時は一番の若造でした。今は上の方ですけれども。面白い人がいるよ、と声をかけてくださったのかな。僕、日本人として初めてウィーンで第九の合唱をした人なんです」
1万人の第九のスポンサーを快諾したという、サントリー2代目社長の故佐治敬三(さじ・けいぞう)さんも当時、合唱団に参加していた。
「佐治さんがソロをいつも歌ってくださったんですよ。バリトンソロをね。すごくお上手で、やはり音楽好きな方でしたので。途中で分からなくなって、“清原先生、分からへんから教えて”なんて言われて飛んでいって。そんな楽しい思い出がありますね」
■初心者も安心のレッスン、清原流の指導
初心者クラスに集まる半数以上が初参加者。中にはドイツ語歌曲だけでなく合唱そのものが初めてという人もいる。そんな初心者たちを叱責(しっせき)することなく、笑いを交えて伸ばしていくのが清原流だ。
「みんな緊張されているので、いかに第九が身近なものというか、声を出す喜びというか、みんなで歌う喜びを知ってほしくて。だから冗談を言いながら落ちこぼれないように楽しくおかしく、いっぱいネタを振りまきながら、笑わせながらやっています。緊張をほぐすための肩たたきも僕が始めたんです」
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練習の順序も工夫している。誰もが知っている歓喜の歌の旋律から入り、徐々に前半の難しい小節へと移っていく。
「順番にやっていくと最初からいきなり難しいところが出てくるのね。そこで落ちこぼれてしまう方も正直おられるのでね。繰り返しが結構多いので、僕は、繰り返しの部分をやって慣れてから、ぼちぼち始めの方をやりましょうって」
初心者に第九を教えるに当たって、細かい指導の壁となっているのがドイツ語の歌詞だ。
「極端に言うと、今どこを歌っているか分からない。今、何ページ! から始まりますからね。初参加じゃなかなか大変です。2回目、3回目ぐらいで、ちょっと分かってくるというかね」
■佐渡裕さんと合唱団の架け橋
佐渡裕さんは、99年に名指揮者の故山本直純(やまもと・なおずみ)さんから総監督の座を引き継いだ。初めて指揮棒を振ったのは第17回公演。37歳の若きエースの登場で、演奏スタイルは一新された。
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「M(歓喜の合唱のメインテーマ)のところを元々はゆっくり歌っていたんですよ。でも佐渡さんはもっと早いテンポでって。だからシャープになりましたね。直純さんは直純さんですごく素晴らしかったんですけれど、やはり佐渡さんになって若くなった。フーガなんかも随分早く振られるので、“それは無理だろう”と正直思いましたけれども、みんなが佐渡さんの熱意というか熱いものを感じて、それでどんどんうまくなりました」
佐渡さんの音楽観を合唱団に伝え、指揮者と団員の思いを一つにするための重要な場が、本番前に行われる佐渡裕レッスン、通称「佐渡練」だ。
「今回はBIG LOVE(ビッグラブ)というテーマを掲げています。そうしたものがこの曲の中にもいっぱい込められているし。一番避けたかったのは1万人のコーラスが冷めてることなんです。どうせ1万人が集まるんだったら、足し算じゃなくて掛け算にして、人の力を1万倍にしたい、というのが僕の思いだったんですよね」。(佐渡裕さん)
合唱団にとっては佐渡さんと初めて対面する機会であり、指導者からすれば佐渡さんに合唱団を引き渡す緊張の瞬間でもある。
「今日ですか? いい感じでしたよ。普段は200、300人ぐらいで練習していますが、今日は1000人いたので5倍のボリュームですからね。佐渡練ではいつも、佐渡さんが何をどう思っておられるかをキャッチしています。彼の音楽に沿うように。すごくメッセージがある方なので。(佐渡さんと指導者陣は)いいチームです、すごく」
清原先生は元高校の音楽教師。シンガーソングライターの嘉門達夫さんや槇原敬之さんは、大阪府立春日丘高校在職時代の教え子だ。合唱部の顧問を務め、多くの高校生を育てた経験が、「サントリー1万人の第九」の指導にも生かされている。
「やはり経験もすごく豊富ですし。合唱っていうのは、声を出す人の体の楽器です。特別な楽器を弾くわけでも吹くわけでもなくて、体を使うトレーニングをしなきゃいけないので、そういう技術や経験などが非常に重要です。そういう意味で、清原先生はそういうものをいっぱい持っていらっしゃる。本当に個性あふれる発声練習だな、と思ったりしますけど(笑)。清原先生はそこら辺もよく分かって全体のことも見てくださっているので、お任せして安心っていう感じです」。(佐渡裕さん)
■声を調和させる、指導者の醍醐味
清原先生の役目は、佐渡練で合唱団を引き渡して終わらない。本番当日、会場で初顔合わせする1万人の声を調和させる重役も担ってきた。
「23年からリモート練習が始まって。ところが、各自が家で歌っておられるから、なかなか発声が統一しない。23年にびっくりしたのが、本当に46都道府県から来られていて、その歌った声の荒っぽかったこと。元気なんですけれど、声のコントロールができていないので、その声をちゃんとするのにすごく疲れました」
しかし、そこに「合唱指揮者の醍醐味(だいごみ)」があるという。ほんの少しの手直しでグッと良くなる。そんな姿を数多く見てきた。
「コンクールの審査もするんですけれど、ちょっと惜しいなっていうのがいっぱいある。でも、ちょっと言ったら変わるんですよ。そこにやりがいがあるというかね」
■ずっと挑戦できる、それが第九の魅力
12月1日朝、大阪城ホール。第42回目の公演当日。快晴の空の下、衣装を身にまとった合唱団が記念撮影を楽しむ中、清原先生が笑顔で現れた。
「おはようございます。いよいよです。もう完璧ですよ。昨日のリハーサルで随分うまくなりましたので。さらに今からまた喝入れますけど。楽しみです。すごくいい声になってましたよ。頑張ってきます!」
初参加の津村七海さんと井上あかりさんは、昨日のリハーサルで1万人が並ぶ光景を初めて見たと話し、「うわ〜1万人もおる!」とその迫力を振り返った。
清原先生の発声練習を経て、いよいよ本番。夕方6時過ぎ、BIG LOVEのハートが舞い散る中、約3時間に及ぶ公演が無事に終了。アリーナ席で演奏を見守っていた清原先生の元へと駆け寄った。
「良かったです。素晴らしかったと思います。興奮しました。みんな本当によく頑張りました。今回は声がすごく良かったと思います。ちょっと調子に乗り過ぎるかなと心配だったんだけど、ちゃんと乗り越えましたね」
初参加の二人は、「本番ならではの緊張感と一体感」に圧倒されていた。「やばい、もう終わっちゃう〜!と思っていた」と興奮気味に語った。
清原先生に、改めて初参加者への思いを尋ねた。
「僕はね、経験者よりも初心者の方が好きなんです。真っ白な方に教えてあげたら、わずか12回ですけれども、どんどんうまくなっていきますので、それが楽しみですね。でも、初心者ばっかりだとまた難しいんですよ。歌えないからね。経験者が歌ってくれるから、一緒に作るというか。理想の形だと思いますよ、今のは」
コロナ以降、元気を失っている合唱界にとっても「サントリー1万人の第九」は希望の光だ。「全国で今、合唱に人が集まらなくてやばいんですよ。サントリー1万人の第九だけどんどん増えていますのでね。だから、そのお手伝いをできているのが非常に楽しいですね」
清原先生は最後、初参加者にエールを送り、会場を後にした。
「これからさらにうまくなりますよ。1回目だけでは正直歌えないところもいっぱいあるので。ずっと挑戦できる、それが“第九”の素晴らしさだから」