東海大相模・原俊介監督インタビュー(前編)
2024年夏、5年ぶりに甲子園出場を果たした神奈川代表の東海大相模。チームを率いたのは、同校OBでかつて巨人にドラフト1位された原俊介監督だ。39歳で高校教師となり、高校野球の監督となって9年目に悲願の甲子園出場を達成した原監督に、これまでの道のりについて振り返ってもらった。
【教員免許を取得したわけ】
── プロ野球引退後、なぜ教員免許を取得されたのですか。
原 プロ野球生活11年、それまでおもに体を使ってきましたが、ある時「頭には限界がないから、勉強してみたら?」と人に勧められ、大学に進学しようと思いました。
── 当時は厳格な「学生野球資格回復制度」により、教員にならないと高校野球を教えられませんでした。原先生の場合、最初に部活動指導ありきの教員免許取得ではなかったのですね?
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原 大学(早稲田大学人間科学部の通信教育課程)に進学したもうひとつの動機は、トレーニング資格(ストレングスコーチ)を取得するための条件として、"学士"の学位が必要だったのです。当時は、プロ野球経験者がトレーナーという形で活躍する事例はあまりありませんでした。
── 大学での卒論のテーマは、「キャッチボールの実態調査」でしたね。
原 野球の基本であるキャッチボールというものを、人間科学という側面から研究をしたかったのです。それに伴って教員資格も取得しておけば学校で教科を教えられるし、部活動も指導できるということです。
── 教員免許は何をお持ちなのですか?
原 情報と保健体育の免許を取得しました。
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── かつて「元プロの高校野球指導」に必要だった「教員生活10年」が2年まで短縮されましたが、「苦労して教員免許を取得した」のは、1984年から2013年までの約30年間でわずか45人。うちドラフト1位は7人(長崎慶一、大越基、石川賢、杉本友、染田賢作、喜多隆志、原俊介)ですが、タイトル獲得は首位打者の長崎さんと、最高勝率の石川さんだけです。
原 とにかくセカンドキャリアは、プロに代わる「生きがい」や「やりがい」を持ちたかったので、現実的に自分がやってきたことを生かしながらできるのはなんだろうと考えました。野球人であるなかで、高校野球というのは特別なステージです。それが最終的に教員にたどり着いている要因だと思います。
【学校生活が野球のプレーに反映される】
── 2016年から2021年までの東海大静岡翔洋高時代、特に2021年は決勝で静岡高に惜敗。その後、2021年秋に東海大相模高の監督に就任。そして2024年夏に自身9年目の夏に甲子園に出場し、ベスト8に進出しました。
原 29歳までプロ野球の世界に身を置き、その後、10年間は別のことをやって、39歳で教員になりました。静岡翔洋時代は、野球部の監督はもとより、高校生に教えること自体が初めてだったので、試行錯誤の連続でした。
── 39歳にして、教壇という名の"打席"に立ったのですね。
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原 静岡翔洋の校長先生に「野球部が強い、弱いではなく、文武両道の学校生活をしっかり送れるよう、生活面から指導してほしい」と、最初にお話をいただきました。だから3年ぐらいは、野球のことよりも生活面のことを言うほうが多かったですね。
── 原先生は「学校生活を頑張れる生徒は、部活動も頑張れる」と、かねてから言っていました。
原 学業、時間厳守、協調性。たとえばスリッパを脱ぐ時、自分のものだけでなく他人のものも揃える生徒がいます。逆に自分勝手な子は、周りが見えていないというか見ようとしていない。そうしたふだんの生活態度や行ないというのは、野球のプレーにも出てしまうんです。だから野球だけを教えるのではなく、人間教育あってこその指導なんだと思っています。
【伝統校を率いるプレッシャー】
── 今夏の神奈川大会決勝の横浜高戦、木村海達主将に「ジャンケンに勝って、後攻をとってくれ」と言ったのは、投手の立ち上がりを含めた守りに自信あったという理解でよろしいでしょうか。
原 野球というスポーツは「先手必勝」で、先攻で得点できれば優位に試合を進めることができますが、無得点に抑えられると厳しくなる。それに同点や1点差、2点差リードくらいだと、9回裏の守りがかなりきつくなる。特に高校野球のような一発勝負は、投手がメンタル的に崩れることも多くなってくるので、監督としては後攻のほうが好きなんです。
── 今夏の横浜との決勝戦ですが、0対2から2対2になって、2対4と再び勝ち越されましたが、8回裏に三浦誠登選手の同点打と、中村龍之介選手の勝ち越し2点タイムリーで6対4とリードしました。直後の9回表、二死一、二塁と本塁打が出れば逆転の場面。壮絶な決勝戦、どのような心境でしたか。
原 2024年春季大会以降、プレーボールからゲームセットまで「集中力」をテーマにやってきました。とにかく、「感情の起伏をあまり激しくしないように」と指示しました。メンタルの世界では、"ピークパフォーマンス"と呼ばれるベストな状態は、興奮と抑制のちょうど真ん中にあります。
── 野球はメンタルスポーツでもありますね。
原 この夏、準決勝の向上戦(8回裏に逆転)と決勝の横浜戦で、終盤の集中力で逆転することができました。高校野球は負ける寸前に焦りの空気感が流れて、「行け!」と叫び出す。そうではなく、「(集中しながら落ち着いて)逆転しないといけないんだぞ」と。だからウチは、そういったハイパフォーマンスはなかったと思います。
── 9回表のピンチの場面では、すでに降板していたエースの藤田琉生投手(日ハム2位指名)が伝令でマウンドに行きました。
原 「落ち着いていけ」と言ってもちょっと無理だと思ったので、「まずアウトを取るぞ!」と。じつはあの時、藤田が「僕が伝令に行ってきていいですか」と言ってきたんです。自分の思いを伝えたかったのでしょうね。
── 最後はショートゴロに打ちとり、5年ぶり夏の甲子園出場を決めました。「男泣き」の優勝監督インタビューは感動的でした。原先生は「強い相模をつくらなきゃいけないと。やっと、生徒の頑張りによって達成できました」と、"生徒"を連呼していました。
原 学校生活、人間教育の一環として野球部を捉えている部分もあるので、そういう言葉が自然と出たのでしょう。相模高に来た時、「原監督と呼ぶのではなく、先生と呼びなさい」と伝えました。私は教員なので、先生と生徒という立場でいるつもりです。
── いまさらながらですが、東海大相模という伝統の重み、そして"元プロ"というプレッシャーはあったと思います。
原 もちろんありますが、それを公言したところでどうにもなりません。結果がすべてなので、勝たないと。「自分がコントロールできないことを気にしてもしょうがないよ」と、野呂雅之先生(桐光学園監督)の助言に救われたこともありました。
── 原先生のインタビューの間、ダグアウトで選手同士が涙の抱擁。そして胴上げは8度でした。どんな気持ちでしたか。
原 宙に舞っている瞬間は、ふわふわした気持ちでしたね。ただ、甲子園に行かせてあげられなかった生徒たちも、静岡翔洋時代から合わせて8世代いるわけで......その子たちがいてくれたからこそ、毎年ブラッシュアップすることができ、この夏の甲子園があったと思っています。これまで関わった生徒すべてに感謝しています。
つづく>>
原俊介(はら・しゅんすけ)/1977年8月30日、神奈川県生まれ。東海大相模高の3年春にセンバツ大会出場。95年ドラフトで巨人から1位指名され入団。巨人で11年プレーし、引退後に教員免許を取得。2016年から東海大静岡翔洋高の監督に就任。21年夏は静岡大会決勝まで進んだ。同年秋に母校・東海大相模高の監督に就任。24年夏、神奈川大会を制し、監督として初の甲子園出場を果たす。甲子園でもベスト8進出を果たした。