江川卓の圧倒的ピッチングの秘密を鹿取義隆が明かす「打者を見極める感覚が研ぎ澄まされていた」

0

2025年01月03日 17:30  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

連載 怪物・江川卓伝〜大学時代から知る鹿取義隆の回想(後編)

前編:江川卓の大学時代を鹿取義隆が回想はこちら>>

 1978年、巨人は「空白の一日」によりドラフト会議をボイコットした。指名権を放棄した代わりに、ドラフト外で9人もの選手を獲った。そのうちのひとりが鹿取義隆だ。

 当時を知る巨人の選手に取材をした際、反射的に江川卓の入団時の様子を尋ねてしまう。それほど日本中を騒がした「空白の一日」の余波は大きく、江川が巨人入団後、どのように過ごしていたのか気になるのだ。鹿取にも聞くと、こんな答えが返っていた。

【江川ってどんなヤツなんだ?】

「とにかく、ほかの先輩たちから『あいつはどういうヤツなんだ? どんな性格をしているのか?』といろいろ聞かれましたが、『ほんといい人ですよ』とすぐに返していました。江川さんが一軍に上がってきた時にマネージャーから『鹿取、おまえがちゃんと教えてやれよ』と、教育係的なことをやるように言われました。チーム内にはいろいろなルールがあるので、しばらくの間は細かく教えていました。ただ、そんな難しいことじゃないので、見ればわかりますし、すぐに慣れます」

 大学時代から対戦している鹿取は、チーム内で江川のことをよく知るひとりだった。

 鹿取は大学2年の時、江川らとともに日本代表メンバーとしてアメリカに渡った。練習では江川のキャッチボールの相手をし、ホテルも同部屋だった。休みの日になるとドジャースタジアムに行き、そこでジャンパーを買ってもらうなど公私ともに世話になったこともあり、先輩たちから江川の人間性について聞かれると、鹿取はいいことしか言わなかった。

「あんなことがあって巨人に入ってきたから、『江川って、どんなヤツなんだ?』ってみんな探りを入れてきますよね。それはしょうがないことだと思います。それは王(貞治)さんも同じで、決して江川さんのことを毛嫌いしていたわけじゃない。1カ月もすれば江川さんの人柄もわかってくるし、結果を出していくことで、もう誰も何も言わなくなりましたから」

 鹿取は「空白の一日」云々よりも、江川が高校時代から大学、そしてプロ入りするまで、ずっとマスコミの注目を浴び続けたことの大変さを感じていた。それが江川の宿命と言えばそれまでだが、どこに行ってもマスコミに追われ、自由時間など皆無に等しかった。だからこそ、マイペースにならざるを得なかったのだろうと、鹿取は思っていた。

【江川流のペース配分】

 それでいてピッチャーにおけるペース配分は、"江川流"としか思えない独特なものがある。

「江川さんはペース配分して投げるってよく言われますけど、ほかのピッチャーはそんなことできないですから。唯一セーブして投げられるのは、投手が打席に立った時くらい。でも、ピッチャーを抑えないと次が1番打者ですから、完全に抜くことはできない。バットを持っている限り、何が起こるかわからないですから。そう考えると、1番から9番まで力を抜いて投げるなんでできないですよ。

 たとえば、それぞれバッターにはそこに投げておけば抑える確率が高く、打たれたとしても長打になりにくいセーフティーゾーンというのがあるんです。そういうデータというのは試合前からあって、そこに対戦していくなかで感じるものを擦り合わせて投げるのですが、江川さんは打者を見極める感覚が研ぎ澄まされていたんだと思います。どんなにすごいピッチャーでも、プロの世界で力を抜いてストライクを取るなんてできないですから」

 現役時代、鹿取はこう江川に聞いたことがあった。

「江川さんはインハイを狙って投げないんですか?」

 すると江川は、淡々とした表情でこう返してきた。

「インハイを狙わなくても、いい高さに投げることができれば抑えられるから」

 鹿取は「そ、そうですよね」としか言葉が出てこなかった。とにかくほかの投手とは、発想がまったく違っていた。

 ピッチャーが打者と対戦する時、インハイとアウトローの対角線を攻めるのが基本だ。インハイに投げて打者の体を起こし、次にそこから最も遠いアウトローに投げて打ち取る。だが江川はインハイを狙わなくても、高めに投げておけば空振りが取れるという考えを持っていた。ストレートに相当な自信がないとできないが、規格外のピッチングスタイルであることは明白だ。

【瞬く間に巨人のエースへ】

「僕が入団した頃は"NHK"と呼ばれていた新浦壽夫さん、堀内恒夫さん、加藤初さんがいて、そこに西本聖が入ってくるんだけど、彼らと比べると僕なんて明らかに力が落ちるわけですよ。だから先発なんて最初から無理だと思っていたし、そういう考えすらなかった。とにかく登板した試合で結果を残すしかない。負けている試合のワンポイントから、同点でのワンポイントになって、次に勝ちゲームのワンポイントというように、結果を残して徐々に序列が上がっていくわけです。

 でも江川さんは、そんな強力な投手陣のなかにポンと入って、いとも簡単に先発の枠を勝ち取るんですから......やっぱり能力が違いますよね。初めは『どんなピッチャーだよ?』と思っていた先輩たちも、『やっぱりすげえな』と認めるしかない。そこが江川さんのすごいところです」

 一軍に上がるとすぐにローテーションに入り、瞬く間に巨人のエースに上り詰めた江川のすごさを、鹿取は忖度なしに絶賛する。

「江川さんって、あれだけ投げても壊れない。引退した年でも13勝しているんですから。とてつもない体の強さですよ。江川さんはケガをして全力で投げていないと言うけど、本当にケガをしていたのかなと思います。晩年は"100球肩"と揶揄されていましたが、どのピッチャーでも100球前後になると威力は落ちてきますし、打たれる確率も高くなる。肩を痛める前の江川さんは、100球を超えてもスピードが落ちることはなかった。それが加齢や肩の勤続疲労などでできなくなっただけで、僕らからすれば江川さんの球は最後まで速かったですよ」

 当時は、先発完投が当たり前の時代。だからこそ、江川の晩年のピッチングはマスコミの格好の的となり、叩かれまくった。

 江川のプロ生活は、最初からバッシングを受け、最後も物議を醸し出す形となりメディアの餌食となった。しかし真の実力の部分においては、野球人の誰もが認め称えていた。大学時代から近くで見ていた鹿取の江川への印象は、一度も変わることがなかった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定