【新連載】K-1の熱狂のなかにいた佐竹雅昭 空手家を志したきっかけは「光って見えた」ある一冊の本だった

0

2025年01月09日 17:21  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第1回

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作ったのが、1990年代に誕生したアメリカの「UFC」、そして日本で生まれた「K-1」だろう。

 立ち技系格闘技の最強を決めるトーナメントとして、1993年4月に開催された第1回「K-1 GRAND PRIX '93 〜10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント〜」。その歴史的な大会の実現、その後の成功は、ひとりの空手家の存在を抜きにしては語れない。その名は「佐竹雅昭」。昭和から平成に時代が移った1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏にインタビューを実施。空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載をスタートする。第1回は、生い立ちや空手との出会いについて。

【ヒーローに憧れた幼少期】

 佐竹は、1965年8月17日に大阪府の吹田市で生まれた。幼少期に夢中になったのは、テレビで放送された『ウルトラマン』『ウルトラセブン』など円谷プロダクションが制作した特撮ドラマだった。

「子供の頃は、円谷プロダクションが制作した特撮ドラマの大全盛期でした。当時は、ウルトラマンなどのヒーローはもちろん、怪獣のソフトビニール人形が流行っていました。今の子供たちがスマホで遊ぶような感覚で、僕はソフビで遊んでいましたよ」

 ウルトラマンに夢中になった少年は、ヒーローへの憧れが高まっていく。

「アニメもよく見ていて、特に引き込まれたアニメは『巨人の星』『あしたのジョー』『空手バカ一代』といった梶原一騎先生の作品でした。実写では『柔道一直線』も好きでしたね。強い・弱いがハッキリと描かれていて、僕のなかで"ヒーロー思想"が自然と育まれたんです。

 そんな思想を抱きながら、怪獣のソフビを手にして空想力フル回転で戦わせて遊ぶ毎日。いわゆる"オタク"でした(笑)。ボクシングにしても空手にしても、アニメで見るのは好きでしたが、自分のことを強いなんて思ってなかったですし、ましてや自分が格闘技をやるなんて想像もしていなかったです。ただ、今思えば、ソフビ遊びによって戦いのイメージが養われていったんだと思います」

【大きくなっていった「格闘技をやって、有名になりたい」という思い】

 小学校時代にやっていたスポーツは野球だ。

「ポジションは捕手でした。チームはメンバーが10人しかいなくてコールド負けばかりの弱いチームだったんですけど、一生懸命に練習して、僕が6年生の時に大阪市の軟式野球大会で2位になったんです。まるで、映画『がんばれ!ベアーズ』がそのまま現実になったようなチームでした(笑)」

 ヒーローに憧れ、少年野球で汗を流した佐竹少年。そして中学生になり、格闘家の道へと進むきっかけになった漫画と出会う。

「当時、週刊少年ジャンプで連載が始まった『リングにかけろ』です。車田正美先生のあの漫画が読みたくて、毎週、書店に行きました。主人公の高嶺竜児を含む5人のチーム『日本Jr.』の全員が好きでした。志那虎(一城)のスペシャルローリングサンダーも最高でしたね(笑)。

 それで、パワーリストを着けてパンチ力を強化する高嶺に影響されて、僕もパワーリストを着けて学校に通い始めたんです。同時にボクシングに興味が出てきて、自分でもやりたくなったんですよ。ただ、中学にはボクシング部がなかった。大阪市内でジムを探したんですが、なかなか見つかりませんでした」

 ボクシングへの興味が増していくと同時に、別の欲求も高まっていく。佐竹は書店で、週刊少年ジャンプ以外に購入していた映画雑誌や、オーディション番組に影響された。

「小学生の頃から映画が大好きで、集英社さんの雑誌『ロードショー』を購読していました。『がんばれ!ベアーズ』を観て『女優のテータム・オニールに会いたい!』と思ったのが小学6年の時。その後も雑誌を読みながら、『いつかハリウッドに行きたい』なんて夢を抱いていましたよ。

 あと、オーディション番組の『スター誕生!』も見ていて、『俺と同じような普通の人でもスターになれるんや』と有名になりたい気持ちがどんどん高まっていった。『リングにかけろ』でボクシングをやりたくなり、映画やテレビを見て有名になりたいと思うようになったんです。いろんな衝動が重なってきた時期でした」

 格闘技をやって、有名になりたい。そんな淡い夢が鮮明になったのは、『ロードショー』で実施されていた俳優の人気投票だった。

「1位がアジア人のブルース・リーだったんですよ。『この俳優ってどんなん人だ?』と思って映画を観たら、めちゃくちゃカッコよくて。『俺はブルース・リーになるしかない!』と決意しました(笑)」

【大山倍達の本に「全身に電流が流れました」】

 ブルース・リーに憧れた佐竹は、すぐに行動に移した。

「自宅の裏にある公園にあった木に向かって、ブルース・リーのマネをして『アチョー!トリャー! タァー』と、突き、蹴りをやり始めたんです」

 指導者はいなかった。ひとりで雄たけびを上げながら、公園の木を相手に稽古する日々。練習の参書にと、ボクシングの技術に関する本を探しに書店を訪れた際に、「ある一冊の本が光って見えた」という。

「『なんだ、この光を放っている本は?』と手に取りました。タイトルは『地上最強への道:大山カラテ もし戦わば』。表紙は、大山倍達先生が虎にハイキックする絵で、それを目にした瞬間に『オォォォ!』と全身に電流が流れました。

 子供の頃は特撮ドラマが好きでしたが、『ウルトラマンは現実にはいないだろう』とどこかで思っていたし、『リングにかけろ』でも『高嶺のブーメランフックは衝撃だけど、パワーリストを着けただけじゃ相手が100mも飛んでいくわけない』とも思っていた。そんな時に、空手着を着たオジサンが虎に向かってハイキックを放っている絵を見て、『これは現実だ!』と震えましたよ。

 続けてページをめくると、大山先生が牛の角を持ってカメラ目線でにらんでいた。僕は『オーメン』や『エクソシスト』のオカルト映画が大好きでした。しかも、妖怪、悪魔入門などの本もよく読んでいて。大山先生が牛の角を持ってにらんでいる写真のあまりの迫力に、『これはオカルト、魔法に近いものなんじゃないか』と一気に引き込まれて、『これこそ、まさしく俺が目指している世界だ!』と思って、空手家になろうと決意しました」

 大山倍達は1964年、相手に直接打撃を入れるフルコンタクト空手の「極真会館」を創始。『空手バカ一代』でもその半生が描かれたが、1979年に上梓したその自伝が、佐竹が本格的に空手家を志すきっかけとなった。

「本を読むと、『指一本で腕立て伏せが50回できたら牛を倒せる』『100m走で10秒を切ったら牛を殺せる』といったことが書いてあって、そういう教えをすべて信じました。そのなかで、『武の道においては千日を初心とし、万日の稽古をもって極みとす』という言葉があって。人間は訓練をしないとダメ、物事はコツコツやらないといけないという教えなんですが、僕も自分の志を極めようとして、中学の3年間は毎日、公園の木を蹴り続けました。さらに、通販で買った鉄下駄を履いて登下校しました。それが歩きづらくて大変でしたよ(笑)」

 大山倍達を信奉し、稽古に没頭した中学時代。卒業が近づいた時に、重大な決意を固める。

「道を極めるには、宮本武蔵も大山先生もやったという山籠もりしかない、と思い立って。中学3年時の進路相談の時、担任の先生に『山籠もりをするんで、高校には行きません』と宣言しました。そうしたら、先生が血相を変えて家に来て、母親に『雅昭くんは、進学しないで山に籠る、なんてバカなことを言っているので止めてください』と。そうしたら親も『アンタ、何をバカなこと言っているの。山に籠ってどうするの?』と聞いてきたので、『俺は牛を殺す人間になる』と答えました。そうしたら親には『もっと体を作って高校に行ったら、空手道場に行かせてあげるから』と説得されました」

 両親、先生の必死の説得で山籠もりを断念し、高校へ進学。そして、大阪市内の空手道場の門を叩くことになった。

(つづく)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定