自らも被災しながら、地元のために奔走してきた、美容師がいます。彼女と、美容室に集う人々の1年を追いました。
【写真を見る】「普通のことがどれだけ幸せだったか、ずっと考えていた」能登半島地震から1年 自らも被災しながら、故郷のために奔走する美容師【報道特集】
「普通のことがどれだけ幸せだったか」震災後、初めて迎えた正月2025年元日の朝。
輪島市は震災後、初めての正月を迎えた。
参拝客
「あ、大吉」
参拝客
「今年は大吉になってくれないと困るわ」
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参拝客
「ゆっくりでも進んでいると思うので」
午後になり、慰霊祭が始まった。
遺族代表
「いつも優しい笑顔で見守ってくれた父、その突然の出来事に絶望感に打ちひしがれました」
午後4時10分。
能登半島地震で犠牲となった人々に黙とうをささげた。
震災後、義理の母親を亡くした高響子(たか・きょうこ)さん。
この日、家族で手を合わせた。
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高響子さん
「私たちも母を亡くしました。命の尊さを知ったりとか、家族の絆しっかりと感じたり、普通のことがどれだけ幸せだったかということを1年間ずっと考えていました」
2024年、元日、輪島市は甚大な被害に見舞われた。
手つかずの町「見慣れるなんてない」故郷のため奔走する美容師あれから1年、高さんが住む町にはいたるところに仮設住宅が建ち並び、更地も増えた。
高響子さん
「景色が全然変わりました」
焼け野原になった朝市周辺は更地となり、地震で横倒しになった7階建てのビルも上半分は撤去された。それでも町には手付かずの家屋が、いまもあちこちに残っている。
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高響子さん
「見てください、お家とか解体しないんですかね。壊れた家が解体されないまま置いてあるのを見るのは1年。正直苦しいです。見慣れるなんてないですよ」
番組が取材した、被災直後の高さん。自宅のある集落は道路が寸断され、一時孤立状態になった。義理の両親が営んでいた美容室は、2階から崩れ落ち、原型を失った。
自らも被災者でありながら、避難できない近所の高齢者たちを尋ね、物資を配るなど、奔走してきた。
近所の人
「ありがとう。これ(単三電池)が一番助かる」
高さん自身も、輪島市で美容室を営んで20年になる。
震災から1か月経った、2024年2月。何とか店を再開した。
断水のため、近所の山から汲んだ水を沸かして使う。
高響子さん
「軽くでもシャンプーしてあげることが癒しになる」
店には多くのお客さんが訪れ、賑わいを取り戻した。被災した人にとって数少ない憩いの場となった。
お客さん
「ここに来ると話が(はずむ)。家に居ても旦那と息子の話じゃね」
「家におると一人だから、テレビとにらめっこ。イライラしたらここへ来て、髪をバッサリ切ってもらう」
しかし、被災のストレスは、高さんの家族にも降りかかった。
2024年5月、高さんの義理の母、三四子(みよこ)さんが、長引く避難生活の中で体調を崩し、亡くなったのだ。
なぜ、母は死んでしまったのか。
高響子さん
「あの時に助かった命のはずなのに、なんで震災終わってから、あの時助かったのにどうして亡くなるのか、家族としては腑に落ちない」
妻を亡くし、一人仮設住宅で暮らすことになった夫の久男さん。
久男さん
「前向きにおらんと。沈んでいてもダメでしょう、自分ひとりになったしね」
母親の死後、高さんは、輪島市に災害関連死の申請をしたが、まだ認定されていない。
布団にくるまりながら凍えていた母 救出されるも… 亡くなる2日前のメッセージは「ありがとう」この日、高さんの店に一人の女性がやってきた。
高さんとは20年来の付き合いになる大家智子(おいえ・ともこ)さん。
地震で自宅が全壊。
この日は、約100km離れた内灘町の仮設住宅からはるばるやってきた。
智子さんの母・寿美恵さん(88)は、地震の際、輪島市内で一人で暮らしていた。
寿美恵さんは、地震で崩れた家屋の下に閉じ込められてしまったという。
高さん
「お母さんが震えていらっしゃった話を聞いて」
大家さん
「寒いし、痛いし、トイレもいけないし、動けないし。どうすることもできない」
智子さんは、がれきの下にいる母親から携帯電話で救助を求められた。
そばにいた夫の芳春(よしはる)さんが、急いで向かった。
夫・大家芳春さん(68)
「最初は、全然わからなかった。裏から入って、上がったけれども2階が潰れてたんで、ここをあがって覗いて『お母さん』と言ったら、小さい声で『はい』と言ったんで生きてると思って窓を開けて、お隣さんの部屋に入れた」
救出された直後の母・寿美恵さん。
当時気温は氷点下、布団にくるまりながら凍えていた。
胸部など3か所を骨折し、動ける状態ではなかった。
夫・大家芳春さん
「救急車も来てくれないし『自分で運んで下さい』と病院に言われたので、親戚の者に電話をかけて来てくれたんで、担架を作って、そこまで運んで」
輪島市は被害の規模が大きく、出動できる救急車は限られていた。
智子さんは、寒い部屋で母と一夜を過ごした。
翌日、幸いにして市内の病院に入院することができたが2か月後、息を引き取った。
亡くなる2日前、寿美恵さんはこんなメッセージを残していた。
「ケイタイで ケイタイで云って。ありがとう云うて、みんなに」
大家智子さん
「紙とマジックを持たせたら書いたんです、死ぬ2日前に。ありがとうって。最後に自分が苦しいのに『ありがとう』って」
智子さん夫婦が暮らす内灘町の仮設住宅。
母親が亡くなって20日後、悲しみの中、輪島市に災害関連死を申請し、その3か月後、認定された。
だが、先祖代々の墓も被災し、いまだに納骨すらできていない。
夫・大家芳春さん
「頭骨の一部と喉仏をこの中に入れて、他のものは菩提寺に預けて。亡くなった顔は辛そうで、私もショックでした」
芳春さんはもともと、仮設住宅から100km離れた輪島市内で漆器店を経営していた。だが地震で店が全壊し、輪島塗の器や工芸品はほとんどが売り物にならなくなった。
大家芳春さん
「こんなの700、800万とか、こんなのは1000万円以上しますね」
今は輪島塗の伝統を絶やさぬよう、客から依頼を受け、被災した倉庫などから工芸品を回収し、保存に努めている。
仮設住宅からの移動にガソリン代がかかるため、週5日、輪島市内で車中泊をせざるを得ない。
Q.一晩中(エンジンを)かけておくんですか?
大家芳春さん
「寝るときに止める。こうやって寝るわけ。これが簡易トイレ。寒いので、この中で。今までみんなが営んで紡いできた物もそう、人間もそうやけど、そういうものが一瞬にしてダメになる」
2024年12月はじめ、高さんの美容室に一人の若い女性が現れた。
田谷綾香さん(20)。1年前、輪島市で行われる成人式に出席する予定だった。だが、地震で式は中止に。それが今年、改めて開催されることになったのだ。当日は高さんがヘアメイクを担当することになっている。
高さん
「今回、どういうふうにしたい?」
田谷さん
「(震災)前は髪の毛もっと伸ばしてたから、成人式用に。震災で成人式ないと思って切っちゃった」
高さん
「(前撮りの写真を見て)素敵。飾りは一緒に考えたやつだよね。良かった、使ってもらって」
田谷さん
「久しぶり友達に会えることと、みんなの成人式の衣装を見られることで嬉しい」
田谷さんは震災前、両親と妹、家族4人で輪島市の市営住宅に暮らしていた。だが、地震で建物は傾むき、道路も寸断。
家族で中学校に避難し、半年間そこで暮らした。
田谷さん
「1か月近く(髪の毛を)洗えなかったので」
高さん
「雨水で洗ったりしたもんね」
田谷さん
「井戸水で洗った」
父の田谷滋さんは…
父・滋さん
「ダンボールハウスのダンボールベッドに寝る生活で、人もいっぱいおるから厳しい生活でした」
子どものころから仲良くしていた友達のほとんどは、震災以降、輪島を離れてしまった。
田谷さん
「友達がみんな出ていく中で、一人だけだったので苦しかった。町がどんどんなくなっていくのと、することがないので、気晴らしができない」
11日、輪島市で去年中止になった成人式が開催された。
会場の近くにある中学校には多くの若者たちが集まり、式を前に準備をしていた。
輪島市の美容師、高響子さん。
ヘアメイクをしてもらっているのは、去年、式に参加できなかった田谷綾香さん。
田谷さん
「つけまつげを付けたの初めてです」
高さん
「いいと思います。受付の人に聞いたら、130人の申し込みはあったみたいで。でも参加とていうだけで、来るかわからないでしょう?」
田谷さん
「急に参加できない子もいたらしいので」
Q.今日を迎えてどんな気持ちですか?
田谷さん
「この1年間、大変なことも多かったので、待ち望んだ成人式できるのですごく嬉しい」
着付けを終え、久しぶりに仲間たちと再会した。
友達
「綾香!会いたかったよ」
田谷さん
「私も会いたかったよ」
友達
「ずっと会えなかったから。お祭りのときもおらんかったから」
午後2時半すぎ、成人式が始まった。
坂口茂 輪島市長
「自分を信じて様々な困難を乗り越えてほしいと切に願います」
震災以降、故郷を離れてしまった若者は少なくない。
それでもこの日、成人式に参加するために多くの若者たちが集まった。
成人代表に選ばれていた田谷さんは、壇上でスピーチを行った。
田谷さん
「私たちは社会的責任を自覚するとともに、良識のある交通行動の実践に努力することを誓い、宣言といたします」
田谷さん
「今は震災のことを忘れて、友達と楽しく過ごしたいなと思っています。きょうみたいに、賑やかしい日々が続く輪島になっていってくれたら嬉しいです」