日本人初、ヒクソン・グレイシーと闘った西良典の証言「軽くフワッと仕掛けてきた」

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2025年01月14日 07:10  週プレNEWS

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ハーフガードポジションから西良典を攻めるヒクソン・グレイシー

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第36回 

立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

前回に続き、総合格闘技のパイオニアのひとり、西良典(にし・よしのり)の格闘技人生に迫る(前回記事はこちら)。

【写真】筋肉がスゴい! 全盛期のヒクソン

■「ヒクソンは僕の10倍強いんだ」

「早く救急車を呼べ!」

バックステージではセコンドに就いていた朝日昇の叫び声が耳をつんざいた。目の前では一回戦でKO負けを喫した修斗の川口健次と草柳和弘が片手で顔面を覆いながら大の字になっている。かける言葉が見つからない。心臓の高鳴りを覚えるだけで、筆者はどうしていいかわからなかった。『バーリトゥード'94ジャパン・オープン』(1994年7月29日/千葉・東京ベイNKホール)の「惨劇」は脳裏に焼きついている。

この大会には歴史的に見ても、ふたつの大きなポイントがあった。ひとつは日本で初めてスタンドの顔面パンチのみならず、グラウンドでの顔面パンチや踏みつけを認めたバーリトゥードの大会であったこと。もうひとつはヒクソン・グレイシーが期待に違わぬ、神秘的なまでの強さを見せつけてセンセーショナルな日本デビューを果たしたことだ。

それまで日本にあった総合格闘技は顔面パンチを反則とし、その代わりに掌底を認めていた。グラウンドにおける顔面殴打も厳禁で、認められたとしてもボディのみだった。

前年度の93年11月12日には米国でUFCがスタート。その第1回大会で優勝したホイス・グレイシーは兄ヒクソンの強さを米国で最も権威を持つ格闘技雑誌『BLACK BELT』で次のように評した。

「僕に勝てるのはヒクソンしかいないよ。(中略)もし僕がアルティメット大会(UFC)で負けることがあったら、次は一族の中でヒクソンが出て行くだろう。ヒクソンは僕の10倍強いんだ」

当時のUFCは無差別級のワンデートーナメント形式で争われていたので、それに倣(なら)い『バーリトゥード'94ジャパン・オープン』も8人制のそれで争われることになった。西良典に出場を打診したのは『フルコンタクトKARATE』編集長の山田英司だった。当時、同誌はガチガチのリアルファイト路線を売りにしており、格闘技雑誌の中で唯一、UWFはプロレスの枠を超えないことを理由に扱わない、硬派の専門誌として名が通っていた。

キックボクシングや大道塾のキャリアを通して、西は対戦相手の顔面を殴り慣れている。しかし前者はボクシンググローブ、後者は素手によって相手の顔面防具(スーパーセーフ)を叩くというものだった。『バーリトゥード'94ジャパン・オープン』で使用される、オープンフィンガーグローブのアンコ(拳部分の中綿)の薄さには衝撃を覚えた。当時を振り返り、西は言う。

「こんな薄いグローブで殴っていいのかと思いました」

それはそうだろう。グローブという名称はついていてもボクシンググローブとは全くの別物。5本の指を自在に動かせるものの、アンコの部分が極端に薄いオープンフィンガーグローブに違和感を覚えるのは至極当然だった。

外国人の出場メンバーは二転三転したので、西の初戦の相手もなかなか決まらなかった。ようやくメンバーが固まると主催者から「ヒクソンとやってくれないか」と打診された。もともと求められたらNOとは言えない性格だ。「誰もやる相手がいないならいいですよ」と承諾した。

主催者からすれば、ひじょうに意味のあるマッチメークだった。というのも、西の拓殖大学時代の師である木村政彦はブラジル遠征時の1951年10月23日、ヒクソンの父エリオと闘い、腕がらみ(のちにキムラと呼ばれる)で相手の腕を折っている。しかし、それでもエリオはタップしなかったので、セコンドが試合場に入ってエリオの代わりにタップの意志表示をするという壮絶な一戦だった。

それから43年という歳月を経て実現したエリオの息子ヒクソンと木村の愛弟子・西の一騎討ち。格闘ロマンを紡ぐという意味では最高のマッチメークといえるのではないか。

■ヒクソンのパンチは「全然効いていない」

大会前、ヒクソンは早めに来日。山ごもりをして心身ともに最終調整に励んだ。では、西のほうはどうだったのか。

「いや、特に合宿を張ったとかはなかったですよ。特訓しようにもそういう環境がなかったですからね。ウチ(空手格斗術慧舟会 現・和術慧舟會)の生徒で明大柔道部出身の奴がいたので、そいつとやっていましたね」

日本で初めてのバーリトゥードに挑むという部分で多少ナーバスになったかと問うと、西は意外にも「いや、あんまり気にしなかったですね」と答えた。「子供のケンカみたいな発想しかなかった。だって子供のケンカは馬乗りになるじゃないですか。それと一緒だと思ったんですよ。まあ、深くは考えていなかった。いまそういう考えの奴がいたら怒りますけどね(笑)」

西は道衣を着て登場した。試合になると、上衣だけを脱ぎ、下衣に黒帯を締めた出で立ちでヒクソンと対峙した。

「帯は大道塾のだったと思います。この一戦には武道家として挑みたかった」

セコンドには専門誌で対談して以来、意気投合した"関節技の鬼"藤原喜明が就いた。お膳立ては整っていたが、勝負は呆気なかった。西が試合開始時のエチケットとしてグローブタッチをしようとすると、ヒクソンはそのまま突進し、西の両脇を差しロープへと詰める。

試合をスポーツとして捉えていた西と、あくまで勝負と見なしていたヒクソンの意識の違いがあったのか?

「向こうもタッチにきたらそうしようかな、という感覚でした」

柔道で培った粘り腰でなんとか耐えようとした西だったが、小外掛けでテイクダウンを奪われてしまった。言い訳になってしまうけど、と前置きした上で、西は回想する。

「あの程度の小外だったら絶対俺を投げることはできないと思いました。でも、耐えるだけだったら面白くないじゃないですか。だったらお客さんを盛り上げるためにと倒れた部分もあるんですよ」

実は、西はヒクソン戦の数年前、新興プロレス団体SWSに入団寸前までいったことがある。実兄がプロレス好きということもあり、西自身もプロレスは嫌いではない。しかし、真剣勝負の舞台では相手の技を受ける行為は、ときとして取り返しのつかない結末を招くこともある。この一戦はまさにそうだった。すぐにヒクソンの右足に両足を絡ませガードをとる西に対して、ヒクソンはゆっくりと仕留めるにかかる。まずは右の拳でボディへのパンチをコツコツと当てていく。

あのパンチは効いた?

「いや、全然効いていないです」

1分経過の合図とともに、ヒクソンは下からしがみつく西をひきずったまま、ロープ際からリング中央へ移動し、再びボディにパンチを打ち込んでいく。ヒクソンが右足を抜き、マウントポジションを取った刹那、ブリッジして逃れようとした西に対して瞬時にバックマウントに移行した。

「(今あんな動きを弟子がしたら)怒りますけど、当時は(正解が)わからない。客を意識しすぎたことがよくなかったかもしれない」

負け惜しみに聞こえるかもしれないが、それだけヒクソンの攻撃は「剛」ではなく「柔」、力で組み伏せるよりも、相手からすればいつの間に有利なポジションを奪われている、というものだったのだろう。

そのあとヒクソンはボディと顔面に右の強いパンチを打ち分け、両足を股に差し入れ西の身体を伸ばす。そしてスキを見て右腕を差し込むようにしてチョークを決めた。

「チョークの仕掛け方はうまかったですね。昔、牛島(辰熊)先生が寝技を教えるときに『寝技は綿で包み込むように柔らかくやるんだよ』と教えていたけど、ヒクソンの寝技はまさにそうでした。必要以上に力を入れるのではなく、軽くフワッと仕掛けてきた」

牛島とは木村政彦の師匠で、現役時代は"鬼の牛島"と称されるほどの柔道の強豪だった人物だ。この一戦は一回戦の最終試合として行なわれたが、ヒクソンの動きがあまりにも芸術的だったので、いずれも壮絶なKO決着となった他の一回戦とは趣を異にしていた。試合後、西は「(セコンドに就いてくれた)藤原さんに申し訳ない」と男泣きした。

「子供のケンカ」は理に適っていたわけだが、こんなことで西はへこたれない。やられたらやり返すだけだ。同年9月9日、米国ノースカロライナ州シャーロットで『UFC3』が開催されたが、会場には出場メンバーには名前のない西の姿もあった。欠場者が出たら、飛び入りで出場しようとしていたのだ。

ホイス・グレイシーを含め、トーナメント初戦で勝ち上がった4名のうち3名が準決勝を棄権するという負傷者続出の大会となったが、あらかじめリザーバーが用意されていたので、残念ながら西の出番はなかった。しかし、西の旺盛なバイタリティに、会場に足を運んだ日本のマスコミは感心するしかなかった。

キックボクシングだけではなく、総合格闘技の頂きにも「勝たせていただきます」と口にしながら率先して挑戦する心意気。西良典は日本格闘技界の礎だったのだ。

(西良典編・おわり)

文/布施鋼治 写真/長尾 迪

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