連載第32回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、前回に続き全国高校サッカー選手権大会の歴史について。「御三家」と呼ばれた静岡、埼玉、広島県勢の活躍の歴史と、その背景を紹介します。
【毎年国立競技場を満員にした静岡勢】
全国高校サッカー選手権大会はノックアウト方式のトーナメントで行なわれ、しかも準々決勝までは80分(40分ハーフ)・延長戦なしというレギュレーションのためジャイアントキリングが起こりやすく、必ずしも実力校が勝ち残れるわけではない。それでも、やはり、今年の決勝戦にも優勝経験のある実力校が勝ち残った。
今年の特徴はベスト4に関東勢3校が残ったことだ。
|
|
「やはり、高校サッカーも関東優勢か」と言った人もいたが、結論づけるのは少々気が早そうだ。
関東勢の優勝は4大会前の山梨学院(山梨県はサッカー界では関東協会に所属)、7大会前の前橋育英(群馬県)、13大会前の市立船橋(千葉県)と数年おきのこと。最近の成績を見ると、いわゆる「サッカーどころ」ではない青森県の青森山田が圧倒的な成績を残しているし、やはり「サッカーどころ」ではない北信越からも優勝校が出ている。
地域的な偏りはあまりなさそうである。
むしろ、全国から選手を集めて強化する特定の強豪校が各地に存在し、そうした学校と一般の部活動的な学校の差が大きくなっているようだ。
昔は、地域間格差は現在よりずっと大きかった。もう少し、高校サッカーを巡る昔話にお付き合いいただこう。
|
|
静岡県勢が圧倒的な強さを誇っていた時代は、多くの読者のみなさんも覚えていらっしゃるだろう。1970年代から90年代頃の話だ。
記録を紐解いてみると、1970年度の第49回大会(1971年1月)の決勝は藤枝東対浜名の静岡県勢同士の顔合わせとなり(浜名は高校総体優勝枠で出場)、藤枝東が通算4度目の優勝を決めた。以降、静岡学園が鹿児島実業と引き分けて両校優勝となった1995年度の第74回大会まで、合計26大会のうち静岡県勢は15回も決勝に駒を進めている。
ことに1980年代前半はまさに静岡、いや清水勢の黄金時代。1980年度の第59回大会で清水東が準優勝すると、1981年度には清水市商が3位に入り、1982年度に清水東が優勝。1983年度にも清水東が準優勝している。
この頃は毎年のように旧・国立競技場が満員となり、高校サッカー人気がピークに達した時期だったが、その中心にいたのが清水勢であり、清水東の「三羽烏」、長谷川健太、大榎克己、堀池巧の3人は日本中の注目を集めた。
静岡県のなかでは1970年頃までは藤枝東が圧倒的な強さを誇っていたが、1970年代中盤に静岡学園がドリブルを多用したサッカーで脚光を浴び、その後は市を挙げて強化を進めてきた清水勢が主役となっていた。当時、静岡県大会は「全国大会よりレベルが高い」と言われ、僕も毎年のように静岡県大会の決勝を観戦に行ったものだった。
|
|
「三羽烏」のあとには中山雅史、澤登正朗、藤田俊哉、名波浩、川口能活といった選手が続き、一時は日本代表の半数ほどを静岡県出身の選手が占め、日本代表強化の立役者となった。静岡学園1年の時にブラジルに渡ってプロとなった三浦知良(カズ)も忘れてはいけない。
【静岡勢の前は埼玉勢の時代、戦後に活躍の目立った広島勢】
静岡勢黄金時代の前には、埼玉県(浦和)の時代があった。
浦和高校が全国選手権で初めて優勝したのは1951年度の第30回大会。第2次世界大戦が終わってすぐあと、戦前は旧制中学の大会だったが、戦後の学制改革で新制高校の大会となったばかりのことだ。1954年度、1955年度に浦和高が連覇し、1956年度には浦和西が初優勝して浦和勢が3連覇。以後、浦和勢と静岡勢との競い合いが続くことになる。
そんな浦和の時代の最後を飾ったのが、日本が銅メダルを獲ったメキシコ五輪の翌1969年度に初優勝し、首都圏開催となった1976年度の第55回大会決勝で静岡学園との激闘を制して連覇を飾った浦和南だった。
浦和南の活躍は梶原一騎原作の『赤き血のイレブン』として劇画化もされ、浦和南からは永井良和、田嶋幸三、水沼貴史などが日本代表として活躍した。
また、全国大会での優勝経験はないものの、浦和西の西野朗はそのルックスのよさから女性ファンから絶大な人気を集め、のちに日本サッカーリーグや日本代表で活躍。五輪代表監督としてアトランタ五輪で「マイアミの奇跡」を起こし、日本代表監督では2018年のロシアW杯でラウンド16進出を果たすことになった。
静岡勢、浦和勢と並んで「御三家」と称されたのが広島勢だった。
現在の全国高校サッカー選手権大会は1918年に行なわれた日本フートボール大会が始まりだ。当初は関西だけの大会だったが、初めて全国に門戸が開かれた第9回大会(1925年度)で決勝に進出したのが広島一中だった(兵庫の御影師範に敗れる)。
その後、広島一中は戦前に2度優勝し、戦後、新制高校の大会となって初めての1948年度大会では「鯉城高校」と校名を変えて優勝している(のちに「国泰寺高校」となる)。そのほか、戦前の広島高等師範附属中学も、戦後は広島大附として1958年度大会で準優勝。1952年度に初優勝した修道は、1961年度にも京都の山城を破って優勝した。
広島高等師範附属中学(のちの広島大附)のエースだった長沼健はのちに日本代表監督や日本サッカー協会専務理事、会長として日本サッカー界をリードする存在となり、長沼が監督時代の日本代表には広島出身選手が多く、「広島弁がチーム内の公用語」とさえ言われていた。
【御三家が生まれた理由】
広島、埼玉、静岡が「御三家」と言われるようになったのは、偶然ではない。
日本で初めて本場英国の指導書を参考に本格的にサッカーに取り組み、在日外国人チームに挑戦しながら強化と普及に務めたのが東京高等師範学校(東京高師、筑波大学の前身)だった。その東京高師の卒業生たちは、各地の中学校や師範学校に赴任してサッカーを指導した。
師範学校と言うのは小学校の先生を育てる学校で、高等師範学校というのは中学校(現在の高校に当たる)や師範学校の先生を養成するための学校だった。
たとえば、埼玉県浦和にあった埼玉師範には1908年に東京高師出身の細木志朗が着任。浦和でサッカーが盛んになったのは細木の指導によるものだ。現在、浦和レッズのエンブレムに描かれている古い建物が埼玉師範の校舎だった鳳翔閣であることはご存じの方も多いだろう。
同じように、1911年には広島県立中学に東京高師出身の松本寛次が赴任して、同校だけでなく広島市内の学校でサッカーの指導に当たった。広島中学がのちの広島一中、現在の国泰寺高校だ。
静岡県でサッカー強化が始まったのは、もう少しあとのこと。藤枝町に志太中学校が開校したのは1924年のことだったが、初代校長として赴任したのがやはり東京高師出身の錦織兵三郎で、当時、静岡県では野球が非常に盛んだったのだが、錦織校長はサッカーを新しくできた学校の校技に指定したのだ。
つまり、20世紀の初めに東京高師出身の若い教師たちによって撒かれた種が花開いて、「御三家」となったというわけだ。
現在では、サッカーは全国各地で発展し、高校サッカーも「御三家」の時代ではなくなった。しかし、埼玉県にはJリーグ最多の観客動員数を誇る浦和レッズがあり、広島には2024年のJリーグで準優勝したサンフレッチェ広島がある。広島には昨年、新しいサッカースタジアムも完成した。ちなみに、サンフレッチェ広島のクラブカラーは紫だが、1911年に松本寛次が着任した広島中学(広島一中、国泰寺高校)のカラーも紫だった。
こうして現在の日本サッカーは、100年以上前からの長い歴史的なつながりの上に成り立っているのだ。今、各地のクラブや高校チームで行なわれている取り組みは、きっと100年後の日本サッカーにつながっていくことだろう。
連載一覧>>