NBAレジェンズ連載33:レイ・アレン
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第33回は、稀代のシューターとしての活躍、プレーオフ史に刻まれたプレーによって、記録と記憶の両方に名を残したレイ・アレンを紹介する。
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【一流スコアラーとして地位を築いたキャリア前半】
2024年の12月末。NBAは直近25年間におけるトップ100プレー集をソーシャルメディアにてカウントダウン方式で公開し、大晦日(日本時間の元旦)に栄えある1位を発表した。
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数々のスーパープレー集のトップに立ったのは、レイ・アレンが2013年NBAファイナル第6戦の第4クォーター終盤に延長へ持ち込んだ同点弾。マイアミ・ヒートの運命を大きく変えた"歴史的なショット"だった。
アレンは、カリフォルニア州マーセド近くにあるキャッスル空軍基地で1975年7月20日に生まれた。父ウォルターの仕事の都合上、頻繁に引っ越しを繰り返し、アメリカだけでなくイギリス、ドイツで暮らしたこともある男は、父親の影響をこう話す。
「毎日、軍隊で働いていた父は、朝起きられずに仕事へ行かないなんて言うことはなかった。きちんと起きて自分の仕事をしなきゃいけない。そんな父を見て、私は自分の行動に責任を持たなければいけないんだと実感していた。自分がそうしたくない時であっても、立ち上がって仕事をしなきゃいけないとね」
野球にサッカー、アメリカンフットボールもプレーしてきたアレンは、マイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に憧れてバスケットボールにフォーカスするようになる。サウスカロライナ州のヒルクレスト高校を経てコネチカット大学へ進学すると、2、3年次には主力として1試合平均20.0得点、6.0リバウンド以上、3ポイント成功率では3年間すべてで40.0%超えを記録し、NBAでも即戦力スコアラーとして高い評価を得た。
1996年のドラフト1巡目5位でミネソタ・ティンバーウルブズから指名されたアレンは、当日のトレードでミルウォーキー・バックスへ移籍。1年目の1996-97シーズンから先発入りし、平均13.4得点、4.0リバウンドに3ポイント成功率39.3%をマーク。アウトサイドショットだけでなく、鋭いドライブや正確無比なミッドレンジジャンパーで点を取り、時には豪快なダンクをたたき込んで会場を沸かせていた。
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バックス時代のアレンは、3年目の1999年から3年連続でプレーオフに出場。2001年にはドラフト同期のアレン・アイバーソン率いるフィラデルフィア・セブンティシクサーズとカンファレンス決勝で最終第7戦までもつれる激戦を演じ、あと1勝でファイナル進出を逃した。
その後、2003年2月のトレードでシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)へ移籍。約5シーズンの在籍で、アレンはほかのどのチームよりも高い平均24.6得点を奪い、2006-07シーズンには自己ベストの平均26.4得点、2007年1月12日にはキャリアハイの54得点をマークした。だが、プレーオフへ駒を進めたのは2005年のみで、覇権争いへ参戦するには程遠いチーム状況のなかでの奮闘ぶりだった。
【王者としての実績と歴史に残る同点ショット】
そんなアレンに転機が訪れる。2007年6月末の大型トレードでボストン・セルティックスへ移籍。生え抜きのポール・ピアース、ウルブズから移籍してきたケビン・ガーネットと"ビッグスリー"を形成し、主力の一角となって2008年のプレーオフを制して、初優勝を遂げた。
この年を皮切りに、プレーオフでは印象的な活躍を見せていく。翌2009年は、シカゴ・ブルズとの1回戦第6戦では3度の延長にもつれた大激戦でプレーオフ自己最多の51得点を奪って見せ場を作り、2010年のファイナル第2戦ではロサンゼルス・レイカーズ相手に前半だけで7本の3ポイントをヒット。ハーフ(前半または後半)では今もなおNBAファイナル歴代最多記録となっている。
だが、時間が経つにつれてガーネットやラジョン・ロンドとの関係が悪化し、2012年夏にヒートへ移籍。レブロン・ジェームズ(現レイカーズ)、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュの"スリーキングス"を補佐するシックスマンに回った。
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ヒートは2011年から2014年にかけて4年連続でファイナルへ進出。そのうち2012、13年は2連覇を達成した。そして、アレンが"起死回生の同点弾"を決めたのは、ヒートでの最初のシーズンとなった2013年だった。
サンアントニオ・スパーズとのファイナル第6戦。2勝3敗で追い込まれていたヒートは試合時間残り約20秒で3点を追う展開で、レブロンの3ポイントが外れて万事休すかと思われた。
だが、ボッシュがオフェンシブ・リバウンドをもぎ取り、右コーナーへバックステップで戻るアレンへパスを通すと、当時37歳のベテランが延長へ持ち込む値千金の3ポイントをリングへ突き刺した。
これがシリーズの流れを大きく変え、ヒートはその試合を延長の末に制し、続く第7戦を勝ちきって球団史上初の2連覇を達成した。翌2014年はスパーズのリベンジに遭い、アレンはこのシーズンを最後にコートから去ることに。
アレンはプレーオフのシリーズで相手チームに王手をかけられて戦い抜いたことが何度もあったのだが、2013年ファイナル第6戦は2001年のカンファレンス決勝第7戦で敗れた苦い記憶が原動力になっていた、とのちに語っていた。
「フィラデルフィアに負けた2001年を思い出した。あの時、イースタン・カンファレンス優勝を早々に彼らは祝っていたんだ。(セレモニー用の)ロープ、それにトロフィーも見えていて、それが僕のなかを駆け巡った。まだゲームは終わっていないんだと、すごく腹が立っていた。2001年と同じ気持ちだった。だから絶対にあきらめず、最後まで戦うんだと誓ったんだ」
【殿堂入りは才能ではなく、一生懸命にやった結果】
NBAキャリア18シーズンで、アレンはオールスターに10度、オールNBAチームに2度選ばれ、キャリア平均18.9得点、4.1リバウンド、3.4アシストに3ポイント成功率40.0%(平均2.3本成功)をマーク。
通算3ポイント成功2973本はNBA歴代トップ(引退時/現在は3位)で、勝負どころでも美しいフォームから放たれるジャンパーや3ポイントを何度も沈めてきた。
コート外での活躍もあり、1998年に公開された映画『He Got Game』(邦題:ラストゲーム)では、名優デンゼル・ワシントンとともにバスケットボール選手のジーザス・シャトルワース役で主演し、一時は本名よりも有名になるほど注目を浴びた。
日本にも度々訪れている。大学2年次を終えた1995年夏にユニバーシアード福岡大会でアメリカ代表として出場して金メダルを獲得。2018年10月にも来日し、昨年6月にはパリ五輪男子日本代表の合宿を訪問したり、渋谷で開催された「NBAフェスin Japan 2024」に登場してファンと交流し、5歳から18歳を対象にしたバスケットボール・クリニックにも参加した。
2018年に殿堂入りした男は、翌2019年に34番がコネチカット大学の永久欠番となり、2021年10月に発表されたNBAの75周年記念チームにも名を連ねた。
殿堂入り式典で、アレンは「私は才能を信じていません。ここにいられるのは、人生を通して一生懸命やってきたからです」とスピーチ。父のストイックな姿勢を見習い、恵まれた才能に溺れることなく日々黙々とゲームライクな練習を続けてきたからこそ、アレンは2013年ファイナルで歴史を作り、歴代有数のバスケットボール選手になったのである。
【Profile】レイ・アレン(Ray Allen)/1975年7月20日生まれ、アメリア・カリフォルニア州出身。1996年NBAドラフト1巡目5位(ミネソタ・ティンバーウルブズ)。
●NBA所属歴:ミルウォーキー・バックス(1996-97〜2002-03途)―シアトル・スーパーソニックス(2002-03途〜2006-07)―ボストン・セルティックス(2007-08〜2011-12) ―マイアミ・ヒート(2012-13〜2013-14)
●NBA王座2回(2008、13)/オールスター・3ポイントコンテスト優勝1回(2001)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
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