第172回芥川賞候補5作品を徹底解説 安堂ホセは3度目、乗代雄介は5度目のノミネート どの作品が受賞なるか

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2025年01月14日 18:00  リアルサウンド

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 2025年1月15日(水)に第172回芥川賞が発表される。候補作に選ばれたのは、以下の5作品(50音順)。


参考:『じい散歩』『団地のふたり』で注目の芥川賞作家・藤野千夜、漫画編集者時代を綴った自伝的小説が重版出来


・安堂ホセ「DTOPIA」(『文藝』秋季号)
・鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(『小説トリッパー』秋季号)
・竹中優子「ダンス」(『新潮』11月号)
・永方佑樹「字滑り」(『文學界』10月号)
・乗代雄介「二十四五」(『群像』12月号)


 安堂氏は3度目、乗代氏は5度目のノミネートとなる(ちなみに芥川賞の歴史上、最高ノミネート回数は、島田雅彦などの6回)。以下、候補作を順番に紹介する(最後に予想もする)。


■安堂ホセ「DTOPIA」(『文藝』秋季号)


〈だから私には、今でも信じていることがある。おまえは最初から怪物だった訳ではないということだ。〉


 第1作「ジャクソンひとり」(2022年)、第2作「迷彩色の男」(2023年)に続き、第3作にあたる今作がまたもやノミネート。デビュー作以来、発表した全作品が芥川賞の候補になっているという圧倒的打率には単純に驚く。


 物語の導入となるのは、フランス領ポリネシアのポラ・ポラ島というリゾートを舞台に繰り広げられる恋愛リアリティーショー。ミスユニバースと呼ばれる女性と、世界各国の都市名で呼ばれる10人の男性のみならず、視聴者もまじえて交錯してゆく欲望の狂宴で日本代表となるのが、語り手により「おまえ」と呼ばれる「Mr.東京」だ。語り手の「私」と「おまえ」の間には、常識の一線を超えた過去があった。ふたりがまだ中学生だった遠い昔のあの日、「おまえ」は、学校のプール棟の更衣室で、幼馴染の「私」の睾丸を摘出したのである。


 皮肉たっぷりの社会批評的な分析と、物語的なドライブ感を巧みに両立させる著者のデビュー作以来の手腕は、本作でさらに磨き上げられている。過去作がブラックミックスやゲイというアイデンティティと密に関係する、ある意味で個人的な作品だったのに対し、本作はむしろ、その外側に広がる荒廃した世界の現実をこそ描こうとする野心作だと言える。


 「私」の父の教育の倫理、各国の都市の名を冠する恋愛リアリティーショーの参加者らのキャラクター、植民地主義のもとに島で繰り返し行なわれた核実験、そして現在進行形の虐殺。本作の仮想敵のひとつは、それらの背後に存在する、「国」というわれわれの閉ざされた「関心領域」である。だれかにとってのユートピアを、だれかにとってのディストピアを、崩壊させるための強力な呪文のような小説だ。


■鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(『小説トリッパー』秋季号)


〈「ドイツ人はね」とヨハンは言った。「名言を引用するとき、それが誰の言った言葉か分からなかったり、実は自分が思いついたと分かっている時でも、とりあえず『ゲーテ曰く』と付け加えておくんだ。何故なら、『ゲーテはすべてを言った』から」〉


 第10回林芙美子文学賞で佳作を受け、「人にはどれほどの本がいるか」(2024年)でデビューしたばかりの著者の受賞後第1作が、早くも候補作入り。ちなみに林芙美子文学賞は、まだ10回しか開催されていないにもかかわらず、前回の芥川賞受賞者の朝比奈秋や、2020年受賞者の高山羽根子を輩出しており、確かな実力を持った作家を着実に世に送り出す賞として、再注目されてよいと思う(ここだけの話、投稿応募作数もほかの文芸誌より少なめなので、小説家デビューを目指すなら、意外と穴場かもしれない)。


 本作は「私」による、日本のゲーテ研究の第一人者である義父・博把統一からの「聞き書き」という体裁の作品になっている。家族での会食時、統一がイタリアン料理店で出された紅茶のティー・バッグのタグには、こんな格言が書かれていた。「愛はすべてを混乱させることなく混ぜ合わせる」。タグにはゲーテの箴言だと書かれていたが、あろうことか統一にはその典拠が思い当たらない。こうして、この典拠不明の名言の出所を探すという悪魔の証明チックな作業に統一が時間を奪われていく、というのが本書の大筋となる。


 ここで大筋だというのはむしろ、本作で玩味すべきは、作家の圧倒的な教養量と情報量をこだわり抜いて詰め込んだ細部のほうであるように思われるからだ。そこに若干やりすぎ感もがあるのも否めない。が、作家はそのことを知悉している。統一が自身の出演する「眠れぬ夜のために」という(NHK「100分de名著」的な?)番組の台本を推敲する場面に、こんな一文がある。「全体を俯瞰すれば、読み物としてそこまで悪くないようにも思えたが、余りに欲張りが過ぎて、必要以上に多くのことを盛り込んでしまった感もまた否めなかった」。本書に読者が抱く感想を先回りする、予防線的な自己言及とも取れるが、一文はこう続く。「これでは書き手ばかり満足して、読者は胸焼けするのではないか、と今更ながら不安に感じるとともに、結局、俺はいつもゲーテに託けてすべてを言い切りたかったのだ」。賞レースへの適応度を基準とすれば、やや不恰好な作品に見えるかもしれないが、この作家の根底に存在する「すべてを言い切りた」いという欲望は、長い目で見て期待すべき美点だと思う。


■竹中優子「ダンス」(『新潮』11月号)


〈下村さんは、惨めだった。〔……〕下村さんはやせ衰えていくことが生命の輝きであるかのように、苦しんでいるんだか楽しんでいるんだかよく分からないダンスを踊っているようにも見えた。〉


 第56回新潮新人賞受賞作で初ノミネート。プロフィールによれば、著者は歌人であり、詩人でもあるそうで、第一歌集『輪をつくる』(2021年)や第一詩集『冬が終わるとき』(2022年)などの著作がすでにあるという。


 そんな著者の初小説である本作は「今日こそ三人まとめて往復ビンタをしてやろうと堅く心に決めて会社に行った」という物騒な書き出しから始まる。そう決心するのは、入社2年目20代の「私」。職場で浮いている「私」がほとんど唯一頼れる、一回り歳の離れた先輩の「下村さん」は、職場内の三角関係から会社を休みがちになり、婚活パーティーに参加している。音大出身の「下村さん」は、自分が結婚したら、子どもに音楽を教えるのが夢だという。


 その後、ひととおり「職場小説」的なすったもんだが描かれてから最終盤、いささか大胆に物語の時制が飛ばされる。40歳を過ぎ、病院で腫瘍の検査を受けることになった「私」が、十数年ぶりに下村さんと再会する場面が描かれるのだ。そこで「私」は、職場の三角関係に振り回された20代が終わり、激動ながらもライフイベントを含むさまざまな経験をした「いい三十代」を経たことで、価値観が好転したのだと「下村さん」に告げる。だが、そう言うならむしろ、その「いい三十代」の話をこそ、ちゃんと読んでみたかったと思うのは、ないものねだりだろうか。不器用に生きる主人公たちの姿は好ましく思うものの、他の候補作と並ぶと、長さ的にどうしても小ぶりに見えてしまうのは否めなかった。


■永方佑樹「字滑り」(『文學界』10月号)


〈「そうそう、例の字滑り。字とか声とかが滑っていったり、欠けていったり、まあそれは日本語の場合で、聞いたところによると別の言語では言葉が膨れたり、溢れちゃうようなパターンも色々、それぞれらしいよ。とにかく日本語の場合は表記が揺れて、一つの表記に自分の声や文字が挟まっちゃうっていう、例のやつ。」〉


 いま取り上げた竹中と同様、詩人として活動してきた著者が、初小説で、初候補入り。これもプロフィールによれば、詩集『不在都市』(2018年)で、第30回歴程新鋭賞を受賞したほか、詩を発展させたパフォーマンスを国内外で行なっているそう。


 突如世界各国で発生した謎の現象「字滑り」。感染すると一時的に、ひらがな・カタカナ・漢字のいずれかのみしか使えなくなるらしい。登場人物は、節電した薄暗いオフィスで昼食をとるモネ、「字滑り」を考察するブログを運営する大学生の骨火、「人と関わらない仕事」への転職を考えて求職サイトを眺めるアザミ。ばらばらに生きてきた三人は、「地滑り」が頻繁に起こるのを売りに、新たに開業した福島県・安達ヶ原の宿泊施設に集められた。三人はやがてその地に、「字滑り」現象とよく似た「山神さま」なる存在の伝承が存在することを知る。


 読めば明らかだが「字滑り」は、新型コロナウィルス流行と東日本大震災における放射能汚染をいやおうなく連想させる。他方、言語が主題という点ではたとえば、九段理江『東京都同情塔』(2024年)が作り出した潮流に連なる作品とも言える。そうした言語SF的な設定をベースにしつつ、館ミステリになり、集落ホラーになり、民間伝承幻想文学になり、タイトルさながらにジャンル的な読み味が横滑りしてゆくのがエキサイティングだった。作品の畳み方も好み。「字滑り」という冒頭の設定こそ突飛だが、「言葉が滑る」というイメージのもと、日常に潜在するコミュニケーションの齟齬や、言語なるもののスムーズな運用不可能性に思い至らせる描写が、じつは緻密に書き込まれており、著者の言葉への確かな観察眼が窺えた。


■乗代雄介「二十四五」(『群像』12月号)


〈書くことがあたかも生きるに値するかのような刷り込みは、こうして巧妙に仕遂げられたのであった。〔……〕その甲斐あって家を出て過ごした二十四五の私は、この世界がどんなに魅力いっぱいで、もしくはすっからかんだとしても、腰を据え背を向ける位置を落ち着きなく変えながら一人書くことを覚えた。〉


 過去に「最高の任務」(2019年)、「旅する練習」(2020年)、「皆のあらばしり」(2021年)、「それは誠」(2023年)と4作の新作が満を持してノミネート。


 幼馴染と結婚する弟の式に出席するために「私」・阿佐美景子は、仙台を訪れる。だがそれは、5年前に死んだ「私の知りたいことなら何でも知っていた叔母」の「ゆき江ちゃん」との約束を果たすための旅でもあった。そして、ある偶然の出会いが「私」の心を解きほぐしてゆく。


 もちろん、独立した作品として読むことも出来るが、デビュー作「十七八より」(2015年)以来、「未熟な同感者」(2017年)、「最高の任務」、「フィリフヨンカのべっぴんさん」(2021年)と、作家が書き連ねてきた女性主人公・阿佐美景子の物語につらなる、連作でもある(古川真人『背高泡立草』(2020年)の例があるので、続きものには芥川賞を受賞させない、ということではなさそう)。ともあれ、阿佐美景子のシリーズを追ってきた読者にとり、デビュー作「一七八より」でまだ中学生になったばかりだった彼女の弟が結婚する本作は、単純に感慨深い。


 『抒情歌謡集』や『クレーヴの奥方』などのブッキッシュな話題が挿入されるのも乗代らしいが、なかでもわかりやすく意味を持つのはやはり、景子が生前叔母に最後に貸したマンガであるという、ヤマシタトモコ『違国日記』だろう(ちなみに、貸しっぱなしだった同作「第1巻」を回収しに行く場面は「フィリフヨンカべっぴんさん」で、すでに描かれている)。本作で景子は『違国日記』という叔母と姪の物語の「最終巻」を、ある人物に受け渡す。著者が描き続けた阿佐美景子という存在が、かつての自身にとっての叔母のようなメンター的存在に変容しつつある瞬間を捉えた、作家の大きな節目となる作品なのではないか。



 個人的には、あいかわらず乗代氏に受賞してほしい。次点は、安堂氏。ただそれだと(ノミネート回数的に)無難すぎるので、初候補の鈴木氏が食い込んでくると嬉しい。



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