未明に起きた未曾有の大地震から30年が過ぎた。1995年(平7)1月17日の阪神・淡路大震災から30年の節目を迎えた。ラグビー神戸製鋼(現リーグワンのコベルコ神戸スティーラーズ)は同年1月15日に大東大を下して日本選手権7連覇を果たした2日後だった。液状化となった練習場を含め、壊滅的な状況から復興を遂げたチームのヘッドコーチ(HC)だった元日本代表監督の萩本光威氏(65=現・関西ラグビー協会会長、コベルコ神戸アドバイザー)に当時を聞いた。【取材・構成=実藤健一】
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30年。正直、もうそんななのか、早いな、が率直な思い。ただ、あの日のことを忘れたことはない。今も鮮明によみがえります。
(神戸市東灘区の)社宅に家族、妻と息子2人と住んでいました。15日に日本選手権7連覇を飾って、その夜は東京で祝勝会。午前中に戻った16日は、まだ余韻があって社宅に住むチームの仲間と祝杯を重ねた。その明け方でした。
横揺れ。家族全員で寝ていた寝室はあまり物を置いていなかったのが幸い。それでもただ、家族を守ることに必死。割れた窓ガラスで膝の付近を切りました。しかし、動けたので揺れが落ち着いて外に出ました。
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活断層によるのでしょうね。同じ敷地内でも別の棟は1階がぺしゃんこになっていたけど、自分たちが住んでいた棟は無事でした。無事を確認した後は救出活動。幸いに死者や大きなけが人はなかったのですが、起きたことの事態を把握するのに時間はいりました。
(神戸製鋼)本社の被害が「高炉が倒れた」など甚大という風評的な情報もありました。「ラグビー部はつぶされるんちゃうか」という声があったのも事実です。ただ早い段階で会社が「ラグビー部の存続」を明言したのは大きかった。
灘浜の(練習)グラウンドは液状化で使えない。大阪、神戸、加古川など4カ所に分かれて練習を行ってきて、全員がようやくそろったのは5月。がれきが積まれた練習場でただ黙々と走るだけでも前を向けた。
プロ野球でオリックスが「がんばろうKOBE」を掲げて優勝した。おかげで自分たちも「頑張れや」の大きな声を受けましたが、V8はならなかった。しかし、その期待に応えたい思いを持ち続け、結果につなげられたのが5年後です。
30年。いろいろな思いはありますが、一番は「年とったな」と。息子2人とも30歳代、孫がいる今は時間の流れを感じずにはいられません。
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ただ、震災で得た教訓を忘れたことはありません。会社であろうと、スポーツ関連であろうと、近くにいる仲間って本当に必要だと思った。人間は結局、1人では何もできない。周りの助けがないと、前には進めないと改めて感じました。
30年。復興に人の力を感じてきました。これからも前だけを見て進んでいく。その力の要因に神戸のラグビーの活躍があることを願いたい。(関西ラグビー協会会長、コベルコ神戸アドバイザー)
◆萩本光威(はぎもと・みつたけ)1959年(昭34)2月10日、神戸市生まれ。小4からラグビーを始めSHとして報徳学園→同大。82年神戸製鋼入社。日本代表キャップは1。98年に神戸製鋼ラグビー部HC就任。02年に女子日本代表HC、04年から日本代表監督。その後、U−19日本代表監督、NTTドコモ関西監督、女子日本代表監督を歴任。20年4月に関西協会会長に就任。
◆阪神・淡路大震災前後の神戸製鋼ラグビー部 SO平尾誠二、ロック大八木淳史、SH堀越正巳、WTB増保輝則、CTB元木由記雄ら日本代表級の「スター選手」をそろえたチームは全盛期にあった。95年1月15日の日本選手権決勝は大東大を102−14。歴史的大勝で釜石に並ぶ同選手権7連覇を飾った。その2日後に震災に見舞われる。同年の社会人選手権は準々決勝でサントリーに20−20の同点も、トライ数で敗退。チームは87年度からの主将制を廃止し、98年度に萩本氏がHCに就任。00年度に日本選手権で優勝した。
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