プレミアリーグを彩るマンチェスターのふたつのクラブ ユナイテッドとシティの興亡

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2025年01月21日 10:10  webスポルティーバ

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連載第33回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は、イングランド・マンチェスターのふたつのクラブ、マンチェスター・ユナイテッドとマンチェスター・シティについて。現在のプレミアリーグのメガクラブとなる前の、両クラブの興亡を振り返ります。

【デニス・ロー氏が死去】

 1月17日にデニス・ロー氏が亡くなったというニュースが届いた。

 デニス・ローと言っても若い読者の方々はほとんどご存じではないだろうが、1960年代から70年代前半にかけて、マンチェスター・ユナイテッドで活躍した点取り屋だ。

 僕は、1試合だけだが、ローのプレーをスタジアムで見たことがある。1974年の西ドイツW杯のザイール戦。ローがスコットランンド代表としてW杯に出場した生涯で唯一の試合だった。場所はドルトムントのヴェストファーレン・シュタディオン(ジグナル・イドゥナパルク)である。

 16年ぶりのW杯出場となったスコットランドはザイールから前半のうちに2点を奪うと、後半は力をセーブしながら戦って2対0で完勝した。

 しかし、このグループ2ではスコットランドとブラジル、ユーゴスラビアの間の試合がすべて引き分けに終わり、順位は得失点差で決まることになった。その結果、ザイールから9点を奪ったユーゴスラビアが1位、3得点のブラジルが2位。2点だけに終わったスコットランドは3位となり、無敗のまま大会を去った。

 そして、すでに34歳になっていたローが出場したのは、ザイール戦だけだったのだ。

 このように、代表では大きなタイトルを取れなかったローが輝いたのは、ユナイテッドでだった。

 日本のサッカーファンが海外の試合映像を見ることができるようになったのは、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『三菱ダイヤモンド・サッカー』という番組が始まってからだった。主に当時のイングランドのトップリーグだったフットボールリーグ(FL)の試合が放映されていた。

 テレビの映像をフィルムで記録した映像だったから、画質はよくなかったし、1試合を2回に分けて1週目が前半、翌週に後半という悠長な番組だったが、僕たちはテレビの前に座って食い入るように画面に見入ったものだ。

 番組が始まったのは1968年。ユナイテッドの黄金期で、最も印象深かったのは1968年にロンドン・ウェンブリーで行なわれたチャンピオンズカップ決勝。ユナイテッドは"黒豹"エウゼビオを擁するポルトガルのベンフィカを破って優勝した。

 1対1のまま延長に入り、ジョージ・ベスト、ボビー・チャールトン、ブライアン・キッドという3人のスターが連続ゴールを決めて、ユナイテッドは4対1でベンフィカを破った。

【"アイドル"ジョージ・ベストと"大人の色気"デニス・ロー】

 第2次世界大戦が終わった1945年に監督に就任したサー・マット・バスビーの下で1950年代後半に黄金期を迎えたユナイテッドだったが、1958年2月には「ミュンヘンの悲劇」で主力を失ってしまう。

 ユーゴスラビアのレッドスター・ベオグラードと対戦して帰国するユナイテッドを乗せた飛行機が、給油のために立ち寄ったミュンヘンの空港で雪のために離陸に失敗したのだ。

 命を取り留めたバスビー監督はチームの再建に着手。1964−65シーズンにFLのタイトルを奪回。1966−67シーズンにも優勝したユナイテッドは、とうとう翌年ビッグイヤーを手にしたのだった。キャプテンとしてそれを支えたのも、やはり「ミュンヘンの悲劇」で生き残ったチャールトンだった。

「ミュンヘン後」の若い世代を代表したのが、当時はまだ珍しかった長髪をなびかせ、「サッカー界のビートルズ」と呼ばれた天才ドリブラーのベストだった。ベストは世界中でアイドルとなった。

 こういう言い方はあれだが、当時のイングランドにはルックスのいい選手は少なかった。当時のフットボール、とくにイングランドのそれは屈強な大男たちが激しくぶつかり合ってボールを奪い合う、肉弾戦の連続だった。

 たとえば、ユナイテッドのMF、"潰し屋"ノビー・スタイルズがそんなタイプだった。今のサッカーだったら一発レッド間違いなしの荒っぽいタックルで、相手のエースを潰すのが彼の仕事だった。当時は、そんなタックルも許容されていたのだ。

 ベストはそんなフットボーラーのイメージを覆した。

 まだスペースも時間も与えられている時代だったから、ベストはパスを受けるとゆっくりと向き直ってから、エレガントに相手のフルバック(現代でいうサイドバック)に1対1の勝負を仕掛けたのだ。

 ローは、ベンフィカ戦には負傷のため出場していないが、彼も武骨なフットボーラーたちのなかで異彩を放っていた。金髪で長身(当時は175cmでも長身の部類に入った)。苦み走った風貌で、まるで映画俳優のような雰囲気があった。ベストが新世代の若者だとすれば、ローは大人の男の色気を発散させていた。

【マンチェスターは憧れの対象】

 ユナイテッドがチャンピオンズカップで優勝した1968年にFLを制覇したのはライバルのマンチェスター・シティだった。その後は10位前後のシーズンが続いたが、シティは1971−72年シーズンにも4位に入っている。

 MFのフランシス・リーとFWのコリン・ベルが当時のスターだった。ともに1970年のメキシコW杯でイングランド代表として戦った選手だ。しかし、ユナイテッドのスターたちとは違って、どちらも典型的なイングランドスタイルのフットボーラーだった。

 そんなわけで、『ダイヤモンド・サッカー』ではマンチェスターのふたつのチームが再三取り上げられたので、僕たちの世代のサッカーファンにとって「マンチェスター」という都市は大きな憧れの対象となった。

 また、このコラムでも以前に書いたことがあるが、僕は1972年秋にロンドンでアーセナルの試合を観戦する機会があったが、その時の対戦相手が前シーズンに4位に入ったばかりのシティだった。だから、僕にとってマンチェスターというのはさらに親近感のある都市になった。

 しかし、その後、マンチェスターのふたつのクラブは低迷期に入る。

 ユナイテッドは、シティが優勝した1967−68シーズンにはFLで準優勝した(つまり、マンチェスター勢がワンツーフィニッシュ)。だが、その後は次第に成績を下げていく。そして、1973−74シーズンには21位に終わり、FL2部へ降格してしまった。

 翌シーズンに2部で優勝してすぐに1部に復帰したものの、1部優勝は1992−93シーズンを待たなくてはいけなかったのだ。再び、ユナイテッドを輝かせたのは、あのマット・バスビーと同じスコットランド人のサー・アレックス・ファーガソンだった。

 一方、シティの方も浮き沈みが激しい時期が続き、1982−83シーズンにはついに2部降格を味わうことになる。そして、1部と2部を行ったり来たりしながらも、1992年にはなんとかプレミアリーグの創設メンバーに選ばれた。しかし、1996年にはプレミアから降格。さらに、1998年には3部に当たるFLディビジョン2にまで降格してしまった。

【不振の時代】

 1970年代から80年代にかけて両チームとも不振の時代が続いた。さらに、イングランド自体も不遇の時代を迎えた。1974年と78年のW杯ではイングランドは欧州予選で敗退。さらに、当時のイングランドのスタジアムは老朽化が激しく、さらにフーリガンが暴れまわっており、多くの人たちが犠牲になるスタジアム事故が相次いだ。

 サッカー場は家族連れなどが近寄れない、汚くて、危険な場所となってしまったのだ。

 こうして、日本のファンの間でもイングランドへの憧れは薄れていった。しかも両クラブが不振続きだったので、僕たち日本人ファンの間から「マンチェスター」という都市名が意識されることは少なくなってしまったのだ。

 デニス・ローの思い出話を始めたら、脱線してマンチェスター勢の興亡の話になってしまった。1990年代以降は次回に回すことにしよう。

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