51番を追いかけて〜記者が綴るイチロー取材の日々(中編)
たったひとりの選手について毎日、毎試合いったい何を書くというのか。
イチローのマリナーズ入団以降、米メディアから何度もそう聞かれた。日本人野手のMLB挑戦は初。アメリカの記者たちが好奇の目で日本からの同業者を見ていたが、自分たちもひとりの野手にフォーカスし続けるのは初めてで、どう答えればいいのかわからなかった。
経験から先に結論を書くと、「ひとりの選手について書くべき事象は毎日、毎試合のペースでは発生しない。だがそんな"何も書くことがない日"でも、どうにか何かをひねり出すしかない」だった。
【イチローの取材は移動も大変】
苦労したのは、イチローが活躍したがチームは負けた、というケースだ。敗戦後のロッカールームの雰囲気は暗く、選手とのやり取りは弾まないものになる。だがそんな時でも、東京のMLB担当デスクからは容赦なく記事の発注があった。オリックス時代からイチローはステレオタイプな質問には答えてくれず、その姿勢は渡米後も一貫していた。ヒットを3本打ってもコメントがほとんどない、ということが珍しくなく、そのたびに四苦八苦して記事を仕上げた。
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移動も大変だった。MLB各チームは専用のチャーター機で移動し、われわれメディアは在来便で彼らを追いかけなければならない。目的地によっては乗り継ぎが必要だったり、便数が少なくて思うような時間に着けない。
さらには、2001年9月11日の大規模同時テロ事件以後に各航空会社のセキュリティ対策が一気に強化され、出発の2時間以上前には空港に着いていないといけないハンディも加わった。
マリナーズ本拠地シアトルからニューヨーク、ボストンなど東海岸の主要都市まで往路で5時間弱。復路は偏西風に逆らって飛ぶので6時間近くかかる。だが時差が3時間以上の東海岸へ西から向かうスケジュールでは、必ず移動日が設けられているからまだマシだ。特にキツかったのは、時差2時間の敵地へ当日移動するケースだった。
たとえばテキサス・レンジャーズはマリナーズと同じア・リーグ西地区に属するが、その本拠地アーリントンとは時差2時間で、最寄り空港のダラスまで片道約4時間かかる。ただ直行便が1日で4、5本あるダラスはまだいいほうで、同様の時差2時間都市であるカンザスシティやセントルイス、ミルウォーキーには朝6時くらいの始発便でまずデンバーやシカゴなどに飛び、そこから乗り換えて午後3時頃に着く、といった具合だ。
各空港からはレンタカーで球場に向かい、日付が変わるくらいまでプレスボックスでの仕事がある。今ではUberやLyftといったライドシェア・サービスもあるし、スマホのアプリが球場や宿泊先まで道案内をしてくれる。だが2001年から2010年過ぎまではそれらの便利なものはなく、紙の地図が頼みだった。
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駆け出しの頃、先輩から「この仕事の基本はまず現場に着くこと。その時点でもう仕事の半分は終わっている」と教わった。数えきれない出張でそのうち移動が特技のようになり、イチロー取材では一度も遅刻したことがない。
【取材者との真剣勝負】
球場外で会うような関係になっても、イチローは難しい取材対象だった。オリックス時代からの経験がアドバンテージと感じたことも少ない。むしろ、その分だけハードルを上げられていると思うことさえあったし、アメリカでも時々キツい言葉をもらった。その一番の思い出では2005年6月、ワシントンDCでのナショナルズ戦後だろう。
「それだけ長く(担当記者を)やってきて、よくそんなこと聞きますね」
質問内容はともかく、あの時の静かなトーンはグサっと刺さった。移動続きで疲れていたはずが、あの夜はなかなか寝つけなかった。同シーズンが終わってから、その時、彼が何を求めていたかを間接的に知ったが、それは打撃での始動タイミングを意図的に早めようとしていたのを察してほしかった、ということだった。
イチローがスランプに陥る原因で最も多いのは、ボールをよく見ようとしすぎて始動が遅れるケースだ。しかしあの時の自分は始動前のカタチ、すなわち打撃フォームの違いばかりに気をとられていた。視野の狭さを反省したと同時に、オリックス担当1年目の、あの気まずい初夏の夜を思い返した。
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それなりに長い時間をともにし、ある程度お互いをわかるようになったとしても、彼は取材者との間の生温い空気を許してくれない。しかし見方を変えれば、取材対象がそれだけ本気でこちらの相手をしてくれている、ということでもある。そもそも、あの独特の緊張感があったからこそ、ここまで長く続けられているのだと思う。
(文中敬称略)
つづく>>