シスラーの記録まであと1安打に迫ったイチローは「あと1本が打てないかもしれない...」と人知れず追い詰められていた

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2025年01月23日 07:10  webスポルティーバ

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2004年のイチロー〜シーズン262安打に隠された真実(前編)

 日本中が、イチローに視線を注いだ日。

 2004年10月1日、シアトル。

 イチローは言い知れぬ不安に包まれていた。残り3試合でヒット1本──2004年のシーズン、9月を終えて3試合連続ノーヒットは一度もなく、158試合で256本のヒットを放ってきたイチローをもってすれば、"3試合で1本"は届かないはずのない、簡単すぎる数字に思えた。

 しかし、その直前に味わった3打席の凡退がイチローのトラウマになっていた。

【シアトルでの1打席目がすべてを決める】

 9月30日、オークランドでのアスレチックス戦。イチローは第2打席で左腕のマーク・レッドマンからライト前へ256本目のヒットを放って、ジョージ・シスラーの持つ257本というシーズン最多安打の記録まで、ついにあと1本というところまで迫った。

 リーチをかけたイチローはその後の第3打席から、タイ記録のかかった打席に3度立っている。第3打席は外の緩いカーブに空振り三振、第4打席はいい当たりのレフトライナー、第5打席はアウトハイのまっすぐに空振り三振。この日、イチローはシスラーの記録に並ぶことはできなかった。

 じつはこの3打席の凡退を、イチローは引きずってしまっていた。こんな打席が続いたら、シーズンが終わるまでにあと1本が打てないかもしれない......そんなイチローの心の内を知る由もないファンやメディアは、地元に戻れば必ず打つ、記録はシアトルまでとっておいたんだと、軽口を叩いていた。

 そして迎えた10月1日、シアトルでの第1打席。イチローが振り返る。

「あの日、1打席目に入る前、すごく緊張していて自分で普通じゃないというのがわかったんです。オークランドであと1本になってからの3つの打席でヒットが出なかった、そのことがプレッシャーを与えるであろうことは明らかでした。ですからシアトルでの1打席目がすべてを決めると思っていたんです。そこで、もし1本が出なければどんどん苦しくなる。ひょっとしたら3試合で1本出るかどうかもわからない......そこまで追い詰められていましたから、1打席目というのは普通ではいられませんでした」

 打席に入る前、いつものイチローならば相手の守備位置や風の向き、スタンドの観客の姿など、いろんな情報を入れている。しかしこの日のイチローの目には相手ピッチャー、レンジャーズのライアン・ドリースの姿以外、何も映らなかったのだという。

【257本目のほうが重かった】

 そして、初球──。

 86マイルの、さして厳しくもない真っすぐ系のボールをイチローは見逃した。

「1打席目の初球はどうしても打ちたかったんですけど、タイミングがちょっとズレて打ちにいけませんでした。あの時は打ちにいくタイミングがズレたのではなく、その前の段階でズレてしまった。僕は打席でバットを目の前に掲げますよね。そこからタイミングを合わせにいくんですけど、あの時はピッチャーのモーションに入るタイミングがいつもよりも少し早くて、バットを掲げにいく途中でズレてしまったんです。だから1球、どうしても待たざるを得なかった。あれも僕にとってはプレッシャーを与えましたね。しかもストライクが来ちゃいましたから......」

 バットを掲げにいく途中で、すでにこのボールに対しては振りにいけないと判断できていることも驚異なら、たった1球の見逃しにそこまでの心理的背景があったことには、もっと驚いた。

 そのプレッシャーを跳ねのけようと、イチローは2球目、3球目を振っていく。いずれもファウル。そして4球目──イチローが叩きつけた打球は大きくバウンドしてサードの頭を越え、レフト前に達した。このシーズン257本目のヒットで、イチローはシスラーの記録に並んだ。

「ファウルの間もずっとイヤな感じが続いていて、追い込まれた状態でした。4球目は外からのカットボールだったかな。ものすごく慎重に打ちにいった記憶があります。打った瞬間はサードの頭を越えろとは思いましたけど、あんな打球は狙って打つことはできませんからね。やっぱり258本目よりも257本目のほうが重かった......僕にとっては抜くことよりも並ぶことのほうが重たかったんでしょうね」

 第1打席で257本目。

 そして、第2打席で258本目。

 イチローはあっという間に歴史を塗り替えた。その瞬間、セーフコ・フィールドのボリュームはマックスまで跳ね上がり、花火が打ち上げられた。一塁ベースに立ったイチローのところへダッグアウトにいたマリナーズのナインが集まり、ポンポンと頭を叩く。上背の低いイチローはすぐに見えなくなってしまった。

 仲間がつくってくれた祝福の山からようやく抜け出したイチローは、スタンドで観戦していたシスラーの家族のもとへ駆け寄る。秋のひんやりした空気と花火の煙がフィールドを包み、幻想的な光景を演出していた。

「翌日のセレモニーで、クーパーズタウンのホール・オブ・フェイムの方からシスラーのバットのレプリカをいただいたんですけど、あれはバットじゃない。木です。あんな重い、中身のつまったバットなんて、今じゃあり得ないでしょう。シスラーは大きくない選手だと聞いていましたが、あんなバットを振れるというのは、どんなに短く持ったとしても考えられない。どうやってスイングしていたのか、想像もつきませんね」

 錆びついた扉をイチローがこじ開けたら、84年前のベースボールが見えた。シスラーがヒットを量産していた時代、ホームランを量産するベーブ・ルースの登場によって、野球は大きく変わろうとしていた。

 その時と似たような状況が、じつは84年後、野球界に暗雲を漂わせていたのである。そんな時にイチローがシスラーの存在を呼び起こした。しかも、それはシスラーが望んでいたのではないかと思いたくなるような、不思議な出来事が起こっていた。シスラーとイチローは、時を超えた縁で結ばれていたのである。

つづく>>

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