【連載・岡山のリアル・ロッキー 倉敷守安ボクシングジム会長・守安竜也(りゅうや)のボクシング人生】(5回連載/第1回)
1年前の2024年1月23日――。岡山県倉敷市にある倉敷守安ボクシングジム所属のユーリ阿久井政悟が、無敗の王者アルテム・ダラキアン(ウクライナ)を判定で下してWBA世界フライ級王座に就いた。岡山にあるジムから初の世界王者誕生で、阿久井の偉業は地方ジムから世界を目指すボクサーにも大きな希望を与えた。
阿久井はリング上の勝利インタビューで、
「(世界王者誕生は)『守安ジム3度目の正直』ということで、守安会長につけてもらいたいと思います」
と語り、自分自身よりも先に、隣で見守る守安竜也(りゅうや)会長の腰に、獲得したばかりの世界チャンピオンのベルトを巻いた。守安ジム所属ボクサーとしては、かつてウルフ時光(ときみつ)が1999年(平成11)と2001年(平成13)に世界挑戦するも獲得ならず。阿久井は、20年以上の時を経た3度目の挑戦で悲願達成した。
現在71歳の守安は、プロ選手相手にミットを構える機会は少なくなったが、いまも試合では必ずセコンドに付いて鼓舞している。阿久井の世界戦もすべてチーフセコンドとしてともに花道を歩き、リングインの際にはロープを担いだ。
|
|
現役時代は、日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王座を3度防衛し、世界ランキングも最高3位になった守安。しかし通算戦績は28戦12勝(6KO)16敗――。大きく負け越した戦績の裏には、地方の弱小ジム所属ゆえの辛酸を舐めた歴史があり、それでも夢を叶えた「リアル・ロッキー」と呼べるような物語があった。
■夢中になれる何かを求めて
「1月23日は、ほんと夢がかなった日じゃった。ボクシングを始めたのは51年前で20歳の時。30歳で現役引退してジム経営を始めたのは33歳。ウルフ(時光)が2度目の世界挑戦で負けた時は、岡山で世界チャンピオンを育てる挑戦は『これが最後かもしれん』と思いました。それが今年、あの子(政悟)が叶えてくれました」
昨年11月中旬、倉敷にある守安ジムを訪ねて取材した。県道沿いに面したジムは倉敷駅からは車で10分ほどの場所にあり、1階がジムで2、3階は自宅だった。現在会員は60名で、うち13名がプロライセンスを持っている。守安は40歳以上も年齢の離れた愛弟子の快挙、そして自身のボクシング人生を振り返った。
守安は岡山県山手村(現・総社市)の農家の生まれ。地元の農業高校卒業後はやはり地元の農協に就職。20歳の時、生活のためだけに働く日々に疑問を持ち、夢中になれる何かを求めてボクシングを始めた。
|
|
「格闘技は好きでしたが、元々は運動が苦手で、通信簿も体育はいつも5段階で1か2。中学高校時代は部活もしていませんでした。当時はキックボクシングが人気で、テレビで観たりはしていました。ただボクシングには特別、興味はありませんでした。よう遊びよった友人が『近所にボクシングを教えてくれる場所がある』と言うて、『ほんなら試しにやったろ』と思い訪ねてみました」
門を叩いたのは平沼ボクシングジム。平沼ジムは当時、岡山県内にある唯一のボクシングジムだった。ただし「ボクシングジム」とは名ばかりで、専用施設ではなく、岡山大学ボクシング部の施設を間借りして、週一度だけ開かれていた。
「平沼(誠明/のぶあき)会長から『毎週日曜日の午後3時半から岡大でやりよる』と言われて訪ねてみました。でも誰もおりゃあせん。一応、プロ選手は4回戦がふたりおったですけど、ふたりとも試合で勝ったことはない。平日は、仕事が終わってから家で自主練でした。うちは農家で倉庫がありましたので、サンドバック1本吊るして砂時計で3分測って叩いたり、縄跳びをしたり。全部自分ひとりでしよったです」
平沼会長の指導は毎週日曜日のみ。それでも生真面目な性分の守安は1日も休むことなく、平日も自宅で練習し続けた。1年後プロテストに合格し、デビュー戦も早々に決まった。
■「いまの選手がこんな状態で初めて試合に出されたら、すぐ辞めていますわ」
1974(昭和49)年11月26日。守安はデビュー戦でいきなり、西日本ライト級新人王決勝の6回戦に挑むことになった。当時同階級で西日本地区の参加者がいなかったためだが、それにしてもデビュー戦の舞台としてはかなり強引なマッチメークだった。セコンドは平沼会長とマネージャー役の奥さんのふたり。以降、それは守安が引退するまで、ほとんどの試合で変わらなかった。
|
|
「場所は大阪の桜ノ宮のスケート場でした。普段のウェイトは62kgなのにライト級(61.23kg)で出場しました。試合は全然駄目やった。なにせその時に初めて、生でボクシングの試合を見たんですから。前の試合で選手がぶっ倒される様子を見て、元々は小心もんじゃけん、足がブルブルと震えてきてしもうてね。どうにか判定まで持ち込みましたが、3度倒されました。いまの選手がこんな状態で初めて試合に出されたら、すぐ辞めていますわ」
平沼会長は戦後まもなくの頃、関西にあるジム所属のプロボクサーとしてリングに上がっていたが、5年間のプロ生活でさしたる成績を残せないまま引退。守安によれば、その後、縁あって移り住んだ岡山市楢津でクリーニング店を営み、合間を見てボクシングを教え始めたそうだ。酒やタバコはもちろん禁止。カフェインの摂取は良くないとコーヒーも禁止。練習中に水を飲むことも許されなかった。
「指導といってもただ怒るばっかしです。『家に寄れ』と言われて顔を出せば、毎度のように酒の肴にされて説教でした。練習は厳しくても何とも思いませんが、それは辛かったですね」
ちなみに大学施設を間借りしての練習は入門してから4年半ほど続いた。のちに守安が日本ランキング入りした頃、自宅兼クリーニング店の横にある、両隣を倉庫に挟まれた簡素な車庫を借り、そこが新しい練習拠点になった。ようやくボクシングジムらしくなったものの、リングは荒縄剥き出しのロープに、キャンバスの下敷きは使い古しの畳。サンドバックは1本のみ。元々中古で購入したため傷みは早く、破れた箇所はテーピングを貼って補修されていた。新しく開いたジムなのに、始めからかなり年季の入った雰囲気だったそうだ。
■「諦める事はいつでも出来る」と自分を奮い立たせた
2戦目は、デビュー戦からおよそ半年後の1975(昭和50)年6月12日。ふたたび大阪に遠征して4回戦に挑んだ。守安は、ダウンこそしなかったもののフルマークでポイントを奪われて連敗。ただし緊張で足が震えたデビュー戦とは違い、落ち着いて戦う事が出来た。さらに4ヶ月後の3戦目は、ライトから2階級下げてフェザー級で出場した西日本新人王の1回戦。守安は判定でプロ初勝利を飾り、そこから3連勝して西日本新人王のタイトルを獲得した。
「決勝の相手は大阪帝拳の有望選手でした。最初は押されていましたが、最終6回に右アッパー一発で逆転しました。立ち上がって来た所に連打を浴びせて、最後も右アッパーで倒しました。センスやテクニックはないと自覚しておりましたので、ものすごい量の練習を自らに求めました。しんどいばかりで何遍もやめようかなと考えました。じゃけど『諦める事はいつでも出来る』と自分を奮い立たせて続けました」
連敗で始まったキャリアも、3勝2敗と勝ち越して西日本新人王にもなれた。リングの上には農協職員として働く時とは違う、輝くもうひとりの自分がいた。
センスはなくても、人一倍努力を重ねれば強くなれるーー。
自分にそう言い聞かせ、「どうせボクシングをやるなら日本チャンピオンになりたい」とおぼろげながらも夢を描き始めた。しかし、待ち構えていた現実は厳しかった。努力を重ねて強くなればなるほど守安は、地方の弱小ジムゆえの辛酸を舐めた。
●守安竜也(もりやす・りゅうや)
倉敷守安ボクシングジム会長。1953(昭和28)年6月26日、岡山県都窪(つくぼ)郡山手村(現在の総社市)生まれ。1974(昭和49)年11月プロデビュー。1981年8月、日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王座を獲得して3度防衛。WBA世界ジュニアウェルター級ランキングは最高3位。通算戦績12勝(6KO)16敗。30歳で引退した後、1987(昭和62)年4月、33歳の時にジム開設。現在プロボクサーはWBA世界フライ級王者のユーリ阿久井政悟、元日本スーパーフライ級ユース王者の神崎靖浩などが所属。過去の主な所属ボクサーは、元東洋太平洋ミニマム級王者ウルフ時光、同スーパーフェザー級暫定王者藤田和典など。
取材・文・撮影/会津泰成