創部3年でセンバツ甲子園へ! 沖縄の新鋭校・エナジックスポーツ高等学院ってどんな学校?

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2025年01月24日 19:21  webスポルティーバ

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群雄割拠〜沖縄高校野球の現在地
話題の新鋭校・エナジックスポーツ高等学院(前編)

 2024年夏、沖縄の高校野球は全国から関心を集めた。ベスト4にエナジックスポーツ、KBC、日本ウェルネス沖縄というカタカナ、アルファベット表記の高校が3つも入ったからだ。大会を制したのは、古豪・興南だったが、沖縄の高校野球界に新たな風が吹いているのは間違いない。はたして今、沖縄の高校野球界に何が起きているのだろうか。

【廃校になった小学校の跡地に開校】

 沖縄の那覇から路線バスで普天間や嘉手納の飛行場、キャンプ・ハンセンやキャンプ・シュワブという米軍基地を通り過ぎること2時間強、さらにタクシーに乗り換えて約15分すると、ようやく目的の場所に到着した。

 エナジックスポーツ高等学院。創部3年目の2024年秋の九州大会で準優勝し、今年のセンバツ初出場を決めた新鋭校だ。

「就任した時、『3年以内に甲子園に行く』と自分に発破をかけました」

 69歳の神谷嘉宗監督は、自身の偉業に笑みをこぼした。全国の舞台にあと一歩届かなかった頃には"悲運の闘将"と呼ばれ、その後、浦添商や美里工という沖縄の公立校を甲子園へと導いた。

 昨年秋のドラフト会議では捕手の龍山暖が西武から6位で指名され、同校初のプロ野球選手が誕生。直後の九州大会で準優勝し、初のセンバツ出場を果たした。

 エナジックスポーツとは、どんな高校なのか。通信制として開校、創部3年での躍進、そして沖縄の名将が率いることもあり、ネット上には各種記事があふれた。

「1年目は大変でした。廃校になって10年以上も経っていたボロボロの学校で、グラウンドも荒れ放題でボコボコだから真っすぐ歩けない。地元の子はひとりしか入らなかったんです」

 じつは開校1年目の2021年、エナジックスポーツは予定どおりにスタートできなかった。生徒が集まらなかったからだ。神谷監督が続ける。

「地元の子は、見に来ればわかりますからね。本当に廃屋みたいな感じだったから、『ここに学校、本当にできるの?』っていう感じでした」

 還元水で財を成したエナジックグループの大城博成会長は、生家の隣で廃校となっていた旧久志(くし)小学校の跡地にエナジックスポーツを開校させた。故郷を活性化させることが目的だった。

 沖縄県は北部、中部、南部に分かれ、北部にある名護市は人口6万4727人(2024年11月30日時点)。過疎化に加え、10代以下は7611人と高齢化が進んでいる。

「来てみてわかったでしょ? 中部はずっと住宅がない。石川(現・うるま市)を過ぎた頃から、ほとんど山だったでしょ? 高校はみんな、定員割れしている」

【1期生16人中15人が野球部員】

 そう語る神谷監督は、中部最北の読谷出身だ。美里工業での再任期間が翌月に控えた2021年2月、地元紙でエナジックスポーツの開校を知った。

 だが、春になっても動き出した様子が見られず、エナジック社の硬式野球チームのコーチに問い合わせた。高校野球部の状況は把握していなかったが、自身の名が監督候補に挙がっていると知らされた。

「だったら紹介してくれんか」

 面接を受けると、話はとんとん拍子で進んだ。美里工業の外部指導者として2021年夏の大会を終えたあとの8月、「監督人生の集大成」としてエナジックスポーツに赴任した。

「僕の同級生なんてほとんどご隠居様です。もう69歳だからね。65歳で再任用も終わったら、あとはほとんど仕事ないでしょ? またこうして子どもたちと夢を追えるのは幸せです」

 入学した1期生16人のうち、15人は野球部員だ。残り1人は女子ゴルフ部員で、エナジック社に務める社員の娘が入学した。

「野球部員はもっと集めようと思えば、集められました。僕は美里工、浦添商、中部商でずっと100人以上のチームを見てきて、公立高校の狭くて共用のグラウンドで練習させるのはけっこう大変だったんです。智弁和歌山みたいに少数精鋭が一番いいかなと思って、15人に絞りました」

 その名が示すとおり、スポーツに特化した高校だ。開発途中で手放された瀬嵩(せだけ)カントリークラブをエナジック社が買い取り、ゴルフ部は極めて恵まれた環境で日々練習している。

 対して、野球部が本拠地とするグラウンドは小学校の校庭程度の広さしかなく、週3回県内の球場を借りている。だが翌春のプロ野球キャンプに備え、冬は芝生の養生のために使えない。高校からすぐそばにある瀬嵩の浜を訪れると、ビーチには投手陣の走った跡が残されていた。

 大自然に囲まれた環境から、よくぞ創部3年で甲子園にたどり着いたものだ。2024年末に彼の地を訪れると、そう思わせられると同時に躍進の背景が浮かび上がってきた。

つづく>>

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