祝・殿堂入り 愛弟子が語る「天覧試合」「王貞治の世界記録」をジャッジしたレジェンド審判員・冨澤宏哉の功績

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2025年01月25日 07:20  webスポルティーバ

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 1月16日に今年の野球殿堂入りが発表され、プレーヤー表彰でイチロー氏、岩瀬仁紀氏、エキスパート表彰で掛布雅之氏が選出。そして特別表彰では、元セ・リーグ審判部長の富澤宏哉氏が選出された。同氏は天覧試合や王貞治氏の世界記録となる756号をジャッジした、まさに日本プロ野球史の"生き証人"である。そんな富澤氏の愛弟子である元NPB初代審判長である井野修氏がレジェンド審判員について語ってくれた。

【プロ経験のない審判員の草分け的存在】

── 井野さんと富澤宏哉氏の出会いは?

井野 1976年2月、後楽園球場で行なわれたセ・リーグ審判員採用試験です。当時の私は大学3年生でした。高校は野球部でしたが、審判の「シ」の字も知らず、『週刊ベースボール』に掲載されていた「セ・リーグ審判員8年ぶり公募」の記事を見つけて受験したのです。当時、富澤さんは、週刊ベースボール誌上で『ジャッジここが難しい』というコラムを連載していました。

── 採用試験はどんな感じでしたか?

井野 ルール、小論文、実技、面接でした。興味本位で受験した私は、冬だったのでとっくりセーターの上にロングコート、ジーパン、ブーツという、とんでもない格好で実技試験に臨みました。寒いなか、ブーツを脱いで素足で走り、"審判の命"でもあるマスクも持っていなかったので、誰かのマスクを勝手に拝借して文句を言われました。

── よく受かりましたね(笑)。

井野 自分でもそう思いました。関東地区80人受験で合格者は私ただひとり。不思議だったので、その後、富澤さんに合格の理由を尋ねたのです。返ってきた答えは「若くて、(大きな選手に見劣りしない)体のデカさ、俊敏なヤツ。この3要素を求めていた」と。ルールや実技はあとで覚えられます。私は身長180センチでした。ただシーズン前、全審判打ち合わせを兼ねた初めての食事会のあと、「やはりプロの審判員は考え直したほうがいい」と言われ、ドキッとしました。

── それはなぜでしょう?

井野 プロ野球の審判員は1年契約の厳しい世界でもあります。覚悟を試されたのかもしれませんね。思えば、富澤さん自身は「野球のプレーが下手だったから審判員を目指した」と言っていました。プロ野球選手経験のない審判員の草分け的存在ですね。球審でボールを交換する際、みずから投手に投げるのではなく、捕手に手渡していました。

【日本審判歴代2位の3775試合】

── 富澤氏で思い出される試合は何ですか?

井野 私がプロ野球審判員の世界に足を踏み入れた76年春、富澤さんはすでにプロ経験20年でベテラン審判員の域にさしかかっていました。何と言っても59年の巨人対阪神(後楽園球場)の天覧試合の左翼線審として、長嶋茂雄さんのサヨナラ本塁打に右手をグルグルと回した試合です。もっとも当時私は5歳で、リアルタイムで見ていませんし、うろ覚えですが......。その時の天皇陛下からの「恩賜の煙草」を富澤さんは大事に保管していて、見せていただいたことがあります。

── ほかにはいかがですか?

井野 77年、王貞治さんがハンク・アーロンを抜く通算756号本塁打を放った時は球審を務めていました。私はセ・リーグ審判員2年目でした。御本人も審判通算35年、3775試合のなかで最も印象に残る試合に挙げています。その王さんが、今回、殿堂入りしたイチローさんの06年WBCの思い出などを語った"ゲストスピーカー"として列席されていたのも何かの縁かもしれませんね。表彰式では、「こんな日を迎えられるとは夢のようだ。長生きしていてよかった」と、とびきりの笑顔でした。

── 表彰式ではそう言って左手を上げましたが、杖をついていなかったら、本当は球審のように右手を上げようとしていたのかもしれませんね。

井野 そうですね。それにしても、ほんと「プロ野球史の生き証人」です。93歳は、健在時で選出された人としては史上最高齢らしいです。そして、池田豊さん、二出川延明さん、中野武二さん、横沢三郎さん、島秀之助さん、筒井修さん、郷司裕さん、谷村友一さんに続く審判9人目の殿堂入り。審判通算3775試合出場は、岡田功さんの通算3902試合に次ぐ日本審判歴代2位の大記録です。

── かつて『週刊ベースボール』の連載では、「富士山の3776メートルに並ぶ出場試合」と書いていましたが......?

井野 公式記録の集計見直しで、1試合減ったようですね。とはいえ、そんなことが関係ないぐらい、立派な記録です。

【アマ審判技術向上にも尽力】

── あらためて、富澤氏の功績をどう考えますか?

井野 富澤さんは、72年にアメリカのアル・ソマーズ審判学校に自費留学し、米国のアンパイアリング(審判技術)を輸入しています。80年にセ・リーグ審判部長に就任してからは、プロの審判が公費で米国留学できるシステムを構築、確立しました。現在はNPB審判員のほとんどが留学を経験しています。みずからもシーズンオフにたびたび渡米してメジャーの審判員と交流し、「ルールの解釈の日米の微妙な違い」(現在で言えばピッチクロックなど)を埋めようと尽力していました。

── それ以外はいかがでしょうか?

井野 94年から全日本軟式野球連盟の顧問になり、審判技術を担当しました。プロ野球審判員の採用とアマチュア野球の審判の技術向上を目的として、2013年に始まった「NPBアンパイア・スクール」の基礎になりました。審判技術を通して、日本野球の普及発展に寄与したのです。

── 井野さんご自身が、富澤氏から教わったことは何でしょう?

井野 近所に住んでいた時は球場入りするクルマに乗せてもらい、審判員のハウツーを伝授されました。"いい審判の条件"として、「忘れること」「立つこと」「せっかちではないこと」の3つを言っていました。

── 具体的に、どういうことでしょうか?

井野 まず、1つのプレーのジャッジにいつまでも固執しないこと。わかりやすく簡単に言えば、「あれ、さっきのはボールだったかな」と振り返らないこと。プレーと試合は続いているのです。だから、審判員は試合でどんな記録が生まれたかなど、意外と覚えていないものです。次に、当然のことですが、長い試合であっても審判は立ち続けてジャッジをくださなければなりません。最後に、ストライク・ボール、アウト・セーフをしっかり確かめてからコールするということです。

── ほかにはいかがですか?

井野 「試合のたびにテーマを持って臨みなさい」とのアドバイスを受けました。これは野球の試合だけでなく、何事においても大切なことだと私は肝に銘じました。ルールや審判技術の習得に関しては厳しかったです。富澤さんは89年まで現役ですが、当時の「6人制審判」で、同じクルーになったのは、そんなに多くなかったですね。ただ、引退してからもテレビのプロ野球中継を見ていて、私の帰宅後、真夜中になっても「きょうのジャッジはよかったぞ」なんて、よく電話をかけてきて叱咤激励してくれました。後輩思いの方でした。

── ふだんの富澤氏はどんな方だったのですか? 穏やかな風貌ですが......。

井野 私より2回り年上ですから、やはり威厳があって怖かったですよ。周囲にキザだと思われるのが嫌で公言しませんでしたが、サパークラブなどでシャンソンの『枯葉』を聴くのが好きだったようです。私は富澤さんを尊敬していたので、「一流になると、さすが洒脱だなぁ」と思ったものです。今回の殿堂入り、私も心よりうれしく思います。

富澤宏哉(とみざわ・ひろや)/1931年、東京都生まれ。小金井高を卒業し、社会人野球審判を経て、55年にセントラル・リーグ審判部に入局。72年米国アル・ソマーズ審判学校に留学。78年の日本シリーズ第7戦の左翼線審で、足立光宏から大杉勝男(ヤクルト)が放った左翼ポール際の飛球を本塁打とジャッジし、上田利治監督(阪急)の抗議を受けて1時間19分の中断をしたこともあった。80年からセ・リーグ審判部長。90年から野球規則委員。97年から全日本野球会議審判技術委員会委員。通算審判員歴35年、ペナントレース3775試合出場、日本シリーズとオールスターに各9度出場。

井野修(いの・おさむ)/1954年、群馬県生まれ。76年、神奈川大学在籍中にセントラル・リーグ審判部へ入局し、2009年まで所属。03年からセ・リーグ審判部長、両リーグ審判部が統合された2011年からNPB初代審判長を務めた。14年〜22年、NPB審判技術委員長兼日本野球規則委員。23年には四国アイランドリーグPlus、ルートインBCリーグの審判部アドバイザーに就任した。通算審判員歴34年、ペナントレース2902試合出場、日本シリーズにも12度出場している。

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