岩瀬仁紀はプロ人生唯一の先発マウンドに上がり、10勝目を挙げた「先発させてもらえないですか」とコーチに直訴

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2025年01月30日 10:01  webスポルティーバ

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セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
岩瀬仁紀が日本一のクローザーになるまで(前編)

 小林雅英がロッテから1位指名(逆指名)された1998年のドラフト。のちに絶対の抑えとなる同世代の投手がもうひとり、中日から2位で指名(逆指名)された。通算407セーブの日本記録を持つ左腕、岩瀬仁紀である。奇しくも小林と同じく、日本プロ野球にセーブ制度が導入された74年生まれ。大学・社会人を経てのプロ入りだったことも共通している。

 ただ、プロ2年目から抑えとなった小林と違い、岩瀬は1年目から中継ぎで活躍。それも、落合博満が監督に就任するまでの5年間と長い。ならば、その実績が、史上最高の抑え投手をつくり上げたのか。先発への未練、願望はなかったのか。通算1002登板も日本記録の岩瀬に、じつは打力が光っていたという大学時代の話から聞く。

【大学時代は投打二刀流】

「もともと大学にはピッチャーで入ったつもりではいたんですけど、監督のほうから『野手なら1年生から使ってやる』って言われて。じゃあ......と思って。試合に出たいんで(笑)。『外野やります』というところから始まったんですね」

 愛知・西尾東高ではエースだった岩瀬だが、卒業後、愛知大学リーグの愛知大に進学すると、1年春から外野手としてレギュラーで出場。左の強打者として活躍し、ベストナインに4度も選出されるまでになる。それでも3年生の秋、自ら登板を志願したという。

「ちょうどチームに主力ピッチャーがいなくなった時だったので、じゃあ自分がやってもいいんじゃないかな、っていうぐらいの気持ちで監督に言ったんです。そしたら『やってみろ』って言われて。で、日曜日だけでしたね、第2戦がある日曜日に投げるようになりました」

 ただ、転向ではなく投打二刀流。4年時にプロを意識したのも、外野手としてのこと。実際、神野純一(愛工大→中日)が持つ愛知大学リーグの通算安打記録=125安打に迫るほど打力は高かった。だが最終的に124安打に終わったことで"打"をあきらめた岩瀬は、投手として社会人入りを目指し、97年、NTT東海に入社する。

「社会人では1年目、ケガだらけでほとんどゲームで投げられなかったんです。肩を痛めたり、腰をやったり。ただ運よく、というかね、投げられないなかで走ってばっかりで、練習量も違ったので体力がついて......2年目に一気に開花しました」

「開花」の背景に、チームのコーチから伝授された高速スライダーの習得があった。そして98年春、 岩瀬は地方大会で好投を続け、特に強打のチーム相手の完封、完投が光り、一躍、その名が全国区になる。夏の都市対抗には新日鉄名古屋の補強選手として出場。1回戦の東芝府中戦に先発し、5回3失点で敗戦投手となったものの、プロからの高い評価に変わりはなかった。

「春の大会で一気にスカウト陣が集まってきて、『ドラフト間違いない』みたいになって、そこからですよ、実際にプロを意識したのは。ただ、都市対抗の時はちょっと背中を痛めて、まともなピッチングができないまま終わったので、『プロ行って大丈夫かな......』って不安になりましたけどね」

【ほろ苦いプロ初登板】

 愛知の高校、大学、社会人を経て、99年、愛知のプロ野球チームに入団。当時の監督は「闘将」と呼ばれ、選手に対する厳しさでも知られる星野仙一だった。投手出身の指揮官から、どのような指導を受けたのか。

「指導というよりも、常に怒られてたので(笑)。何でというか、何やっても怒られましたね。面と向かっては、現役の時に褒められたことがなかったです。ただ、あの人がすごいのは、マスコミに対して、たとえば『岩瀬がどうだった』ってしゃべる時に、絶対そういうところではけなさなかったこと。だからそのあたり、うまく操られていたのかなとは思います」

 プロ初のマウンドは4月2日、広島との開幕戦だった。中日1点リードの6回二死二塁から、岩瀬は二番手で登板。すると前田智徳、江藤智、金本知憲の中軸に3連打されて逆転を許し、一死も取れずに降板。味方打線が再逆転してゲームには勝ったが、試合後、監督の星野は「オレの采配ミスや」と言った。けなさなかったが、岩瀬投入を「ミス」と言ったのは明らかだった。

「監督に『ミス』と言わせてしまった自分にいら立ちを覚えましたし、プロのバッターの怖さも感じましたね。オープン戦では抑えていたのに、開幕したらアウトをひとつも取れずに降りたっていうことで、それだけシーズンに入ると集中力がすごく変わるんだなと。

 自分も、開幕したばっかりでまさか勝ちゲーム、2対1のロースコアで投げると思ってなかったので、緊張に負けて、プレッシャーに負けたところもあるので、そこから開き直ることを覚えました。というのも、打たれて下(二軍)に落ちなかったので。上(一軍)にいさせてくれたので、逆に失うものはないと思ったら開き直れたんです」

 当時、中継ぎといっても、1イニングのセットアッパーではない。ワンポイントもあれば、ロングリリーフもあり、場面、状況を問わず起用されたなか、岩瀬は結果を残し続ける。

「どこでも行きましたね。途中でも行きますし、回の頭とは限らないですから。どちらかと言うと、自分はランナーを置いて出て行くことが多かったですけど、1年目はわけもわからず、もうとにかく、その日暮らしみたいな(笑)。まあ今日、とりあえず結果を出せればいいや、というくらいの感じでやっていました」

 終わってみれば、リーグ最多の65試合に登板。10勝2敗1セーブ、防御率1.57で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。新人王は20勝で最多勝の巨人・上原浩治が受賞したが、岩瀬は11年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。1年目から日本シリーズに出場し、貴重な経験を積んだ。

【プロ野球人生唯一の先発登板】

 2年目の2000年も58登板で10勝5敗1セーブ、防御率1.90で2年連続、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。ただ、1年目と違うのは、10勝目を先発で挙げていることだ。

「先発したいな、というのはずっと思っていました。2年目の最後、中継ぎでしたけど9勝を挙げていたので、ピッチングコーチの山田(久志)さんに『先発させてもらえないですか?』って言いにいったら、『じゃあ、やってみろ』という形で。だから1試合だけ、先発があるんです」

 1002試合のうち唯一の先発登板は、00年10月8日の広島戦。7回7安打1失点(自責ゼロ)で勝利投手になった。シーズン終わり間際の"消化試合"とはいえ、9月30日のヤクルト戦まで57試合、リリーフで投げてきて中7日。ものの見事にアピールに成功した。

「結局、次の年、3年目もね、先発じゃなかったわけですけど(笑)。かといって、リリーフで生きていくとは決めてなかったんです」

 先発願望を残しつつ、01年も61登板で8勝3敗、防御率3.30と十分な成績を残した。スリークォーター気味のフォームから投げる真っすぐはクセがあり、変化球はスライダーを筆頭に球種豊富でキレがある。なおかつ、コントロールよく、ほとんどの球が低めに散らされる。当時、そこまでレベルの高い中継ぎ左腕はほかにいなかった。

「でも、本当にコントロールがよくなっていたのは、谷繁(元信)さんが来てからです。何かアドバイスがあったわけじゃなくて、存在感ですよね、谷繁さんの。ピッチャーとしてはね......、あれは苦しいですよ」

(文中敬称略)

つづく>>


岩瀬仁紀(いわせ・ひとき)/1974年11月10日、愛知県生まれ。西尾東高から愛知大、NTT東海に進み、98年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団。入団1年目の99年シーズン途中から勝ちパターンの一角を担い、最優秀中継ぎ投手賞を受賞。その後も中継ぎで起用され、2004年からは抑えとして5年ぶりの優勝に貢献。07年の日本ハムとの日本シリーズの第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えてNPB史上初の継投による完全試合を達成。12年にはセ・リーグ史上最多の5度目、また最年長記録となる最多セーブのタイトルを獲得。18年9月28日の阪神戦でNPB初の1000試合登板を達成し、同年現役を引退。19年からは野球解説者として活動。25年に野球殿堂入りを果たした

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