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篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(7)
吉村禎章 前編
(連載6:松本匡史との決まりごと 長嶋茂雄監督の強い意向に「大変そうだった」>>)
長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。
以前に選んだ「1980年代の巨人ベストナイン」のなかで6人目に語るのは、柔と剛を兼ね備えたバッティングで、巨人の主力として長く活躍した吉村禎章氏。「ケガがなければ球史に残る大打者になっていた」という声も多く聞かれる吉村氏のバッティング、ケガをした時の状況などを聞いた。
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【入団当初から「いいものを持っている」】
――吉村さんの最初の印象はいかがでしたか?
篠塚和典(以下:篠塚) 当時は駒田徳広(背番号50)、槙原寛己(同54)、吉村禎章(同55)の3人が、成長著しい若手として"50番トリオ"と呼ばれていたのですが、ヨシ(吉村氏の愛称)は3人のなかでも大人しいというか、しっかりしている感じがしました。駒田と槙原(マキ)は体が大きいな、という感じですかね(笑)。
――吉村さんには「ポチ」というニックネームもあったそうですね。
篠塚 いつの間にか、そう呼ばれていた感じです。誰が呼び始めたのか、なぜポチなのかはわかりませんが、自分も最初の頃はポチと呼ぶこともありましたし、ヨシとも呼んでいました。
――吉村さんは高卒2年目で84試合に出場。規定打席未到達ながら打率.326とポテンシャルの高さを示しました。その頃のバッティングをどう見ていましたか?
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篠塚 いいものを持っているな、という印象でした。「一緒に戦えそうな選手が来てくれたな」と思いましたし、切磋琢磨して成長したいと思わせる存在でしたね。そんなにマン振りすることもなく、ボールに対してのコンタクトがうまかったんです。
――吉村さんのスタイルは、プロ入り間もない頃から完成されていたのでしょうか。例えば、広角にヒットを打ち分けるようなバッティングは当初からできていた?
篠塚 逆方向に打つようになったのはしばらく経ってからです。最初の頃は引っ張る印象がありました。引っ張るイメージを持ちながら、ボールがバットに当たる箇所によって逆方向に飛んでいくこともある、といった感じでしたね。長距離バッターというよりも中距離バッターで、ホームランを打つタイプには見えませんでした。
高卒でありながらプロ入り2年目に84試合に出場(104打席)していますし、首脳陣にも「これから巨人の主力として育てていかなければいけない」という思いがあったと思います。
――吉村さんが入団した前年には、原辰徳さんがドラフト1位で入団していますし、チーム内の競争が激しくなったり、ある程度メンバーが固まってきた時期でしたね。
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篠塚 ヨシは外野手でしたから、競争相手としては(1983年に加入して4番を務めた)レッドソックスやドジャースなどで活躍した主砲レジー・スミス、松本匡史さん、淡口憲治さん、(1984年には)ウォーレン・クロマティも入ってきましたからね。そういったなかでも期待されていたと思いますよ。
【その後の野球人生に関わる大ケガの瞬間】
――1985年から「最高出塁率」が表彰の対象になりましたが、同年は阪神のランディ・バース選手と最後の試合まで同タイトルを争いました(バース.428、吉村.427)。
篠塚 私が出塁率をあまり意識したことがないので、ほかの選手の出塁率も意識はしていませんでした。ただ、確かに打席で粘る印象はありましたし、選球眼はよかった印象があります。今では出塁率が重視されていますし、そういう観点からも優秀な選手だったと言えますね。
――吉村さんの外野の守備はいかがでしたか?
篠塚 肩はそれほど強くなく、守備範囲は普通でしたが、彼の場合はやはりバッティングがよかったですから。プロ初ヒットを打った2年目から順調にキャリアアップして高卒5、6年目には素晴らしい成績(6年目の1987年は打率.322、30本塁打、86打点)を残していただけに、あのケガがなければ......クリーンナップはもちろん、おそらく4番をまかされていたでしょう。
――札幌円山球場での中日戦(1988年7月6日)の守備中に起きたケガですね(中尾孝義のレフトフライを捕球した際、センターの栄村忠広と激突し、左膝の4本の靭帯のうち3本が断裂)。篠塚さんもセカンドで試合に出ていましたね。
篠塚 内野手のわれわれは遠目から見ているので、左中間のフライを捕ろうとしたヨシと栄村がどのようにぶつかったかはわからなかった。近くまで行くと、膝を痛がっているのはわかりましたが......打撲などの痛がり方ではなかったです。後日、映像でぶつかった瞬間を見た時に、「これは復帰するまで時間がかかりそうだな」と思いました。
栄村がものすごいスピードで打球を追いかけていて、ヨシの膝にもろに突っ込むような形になってしまった。ただ、これはどちらに責任があるという話ではないですし、お互いにボールを追った結果ですから。ヨシにとっては不運でしたけどね。
――吉村さんはアメリカに渡り、フランク・ジョーブ博士のもとで手術を受けたあと、1年以上の長いリハビリをしました。リハビリを担当された方は吉村さんのことを知らなかったようなのですが、リハビリに臨む吉村さんの目を見た時に、「一流の選手だとわかった。この選手は必ず復活できる」と思った、という話もありますね。
篠塚 プロ入り当初から、自分の考えをしっかり持っている選手だと思っていました。野球以外のことはわかりませんが、野球に対する頭の使い方というか、そういうものは若いのにしっかりしているなと。そういったヨシの内面にあるもの、熱い気持ちなどを感じたんじゃないですか。
ただ、順調にステップアップしてきて、ここから脂が乗って全盛期へ入っていくだろうという時のケガでしたから、悔しかったでしょうね。打撃のタイトルを獲るとか、いろいろな目標もあったと思いますから。
(中編:吉村禎章の印象的な2本のホームラン 最速リーグ優勝を決めた劇的弾と、審判の勘違いが生んだ一発>>)
【プロフィール】
■篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。