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篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(7)
吉村禎章 中編
(前編:「あのケガがなければ......」と惜しむ吉村禎章 高卒2年目にして光っていたバッティングセンス>>)
篠塚和典が「1980年代の巨人ベストナイン」で7番・ライトに選んだ吉村禎章氏。そのエピソードを振り返る中編では、大ケガから復帰したあとの打席、1990年にリーグ優勝を決めた際の劇的なサヨナラホームラン、球審の勘違いが発端となった珍事などを振り返ってもらった。
【緊張感があった復帰打席】
――1989年9月2日のヤクルト戦、長いリハビリ期間を経て代打で復帰した際は、東京ドームが大歓声に包まれました。結果はセカンドゴロでしたが、一塁まで走った姿に多くのファンが胸を打たれたと思います。
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篠塚和典(以下:篠塚) あれだけ大きなケガでしたからね(※)。多くのファンがヨシ(吉村氏の愛称)の復帰を心待ちにしていたでしょうし、長いリハビリを乗り越えてグラウンドに立っていることをみんなが知っていましたからね。ヨシも「もう1回グラウンドに立ちたい」という気持ちが強かったと思います。
(※)1988年7月6日、札幌円山球場での中日戦で吉村氏がレフトフライを捕球した際、センターの栄村忠広と激突し、左膝の4本の靭帯のうち3本を断裂。
自分はこの試合にスタメンで出ていた、ようなのですが......ヨシが代打で出ていったのをベンチで見ていた記憶がなくて(笑)。テレビカメラがヨシのご両親を映したあと、ヨシが出てくるという映像の印象しかないんですよね。ちょうど腰を痛めていた時期だったので、「自分はこのときにベンチにいたかな?」と。
――確認しましたが、この試合、篠塚さんはスタメンで出場しているようです。ちなみに、吉村さんの打席はどういう気持ちで見ていましたか?
篠塚 バッターボックスのなかにいる時はいいのですが、「走り出した時にどうなのかな」と心配しながら見守っていましたよ。僕らは練習の時にヨシが走っている姿を見ていたわけですが、本番の打席はまた違うものです。余分な力がグッと入ったりもしますし。なので、打ったあとの一歩目は緊張感がありましたし、「無事に走ってくれよ」と祈るような気持ちでした。結果的に、バットを振れて走れたというのは、本当によかったなと。
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――練習と試合では、力の入り方が全然違うものなのでしょうね。
篠塚 まして、本当に久しぶりの打席だったわけですし。藤田元司監督をはじめ、首脳陣は「よく戻ってきてくれた」と思う一方で、「走った時にまたやってしまうんじゃないか」という不安もあったでしょう。多くの人たちがいろいろな思いで見守っていた打席だったと思います。
【最速リーグ優勝を決めた劇的な一発】
――篠塚さんから見た吉村さんは、プロ入り当初から「自分の考えをしっかり持っている選手だった」とのことですが、ケガをする前後で何か変化はありましたか?
篠塚 あれだけ大きなケガをして、それを乗り越えたあとはケガをする前ほどの成績を残せませんでしたが、それでもある程度の活躍は見せてくれました。いろいろな経験をしたでしょうから、コーチとして選手を指導する際に生きたんじゃないですかね。選手がケガをしてしまった時やケガから復帰した時に、ヨシがかける言葉には重みがあると思いますし、選手の心にも響いていたと思いますよ。
――1990年シーズンは、巨人がセ・リーグの首位を独走してリーグ優勝を決めました。そのリーグ優勝を決めたヤクルト戦でサヨナラホームランを打ったのが吉村さんでしたね。奇跡のカムバックを果たしてから約1年後の、劇的なシーンでした。
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篠塚 何かやってくれそうな雰囲気は感じていましたし、ベンチにいるみんなもそう思っていたんじゃないですか。
この年は、リーグ優勝を決めたのがすごく早かったんです(9月8日にNPB史上最速のリーグ優勝を達成)。2位との差がかなり開いていて優勝も近づいていましたし、選手たちにはプレッシャーがそれほどかかっていなかった。ヨシもそうだったでしょう。なので、ああいった劇的な優勝の決め方を思い描いていた選手もいただろうし、ヨシもそういう気持ちで打席に入っていたのかもしれません。
――吉村さんらしい強い打球でした。
篠塚 川崎憲次郎から打ったと記憶していますが、ライナーでライトスタンドの最前列に入りましたよね。ホームランを打ったヨシをみんなで迎えたあと、ホームベースの近くで、藤田監督をはじめコーチの方々を胴上げできたのがうれしかったです。ただ、僕が一番印象に残っているのは、広島戦(1987年10月18日、後楽園球場)でのホームランなんです。
【審判の勘違いから生まれた後楽園球場での最後のホームラン】
――審判の勘違いがあった打席ですね。
篠塚 そうですね。"4ボール"2ストライクからレフトに打ったホームランです。本当はフォアボールだったのですが、優勝が決まったあとの消化試合ということもあってか、球審がカウントを勘違いしてしまって。僕らはベンチで見ていて「あれ、フォアボールじゃないの?」と言ったりしていたのですが......。ただ、結果的にはホームラン、それもそのシーズンのヨシの30本目のホームランにもなったので、余計なことは言いませんでした(笑)。
――スコアボードのボールを表示する青いランプが、不調でなかなか点灯しなかったんですよね。「2ボール2ストライク」になった時のスコアボードの表示が「1ボール2ストライク」になっていて、球審がキャッチャーの達川光男さんや吉村さんに確認したら、達川さんは2ボールだとわかっていながら「1ボールだ」とアピールしたと。
篠塚 球審の勘違いから始まったわけですが、(翌年から東京ドームが本拠地になったため)後楽園球場での最後の試合でもありましたし、いろいろな意味で印象に残っています(笑)。
――それと、吉村さんはライナー性の打球が多かった印象です。
篠塚 打球が強かったですね。バッティングでは利き手のほうが力が強くなりますが、ヨシは左投げ(左打ち)で利き手が左手なので、バットを振る時に強く押し込めるんです。「左で打つ」っていう感覚ですね。原(辰徳)は右投げ右打ちだから「右で打つ」っていう感覚でしたし。
――「あのケガさえなければ」と言われる選手は多いですが、吉村さんはその最たる選手だと思います。仮の話にはなりますが、どれくらいの成績を残せたと思いますか?
篠塚 その予想は難しいですね。ただ、ホームランが打てる上に打率も残せて、勝負強くて打点も稼げて、出塁率もよかった。何かしらの打撃タイトルは狙えたし、獲れる力はあったと思います。どれかひとつのタイトルに照準を定めて専念すれば確率も上がったでしょうし、ひょっとしたら三冠王を狙えていたかもしれません。
(後編:引退後の吉村禎章は「ひと回りもふた回りも大きくなった」 巨人のリーグ優勝に貢献した手腕も称賛>>)
【プロフィール】
■篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。