中村武志が振り返る闘将・星野仙一との壮絶日々 世紀の大乱闘事件の夜、部屋に呼ばれ「おまえ、野球を辞めろ!」

0

2025年02月17日 19:10  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

中村武志インタビュー(前編)

 厳しくも温かい指導で知られた星野仙一監督。彼のもとで鍛えられた元中日捕手の中村武志氏が、壮絶な指導の日々、忘れられないエピソード、そして恩師への尽きぬ思いを語る。時に厳しく、時にユーモアを交えながらも、深い愛情で選手を育てた星野監督。その指導の軌跡と、今だからこそ語れる思いとは──。

【星野監督からの厳しい指導】

── 星野監督が就任した1987年、プロ3年目で一軍に昇格した中村さんを厳しく指導されたと。コーチが「監督、これ以上やったら死んでしまいます」と、止めに入ったというのは本当ですか?

中村 死ぬまでではないですが......(笑)。少し大げさですけど、指導されなかったのはたまにくらいで、かなりされましたね。当時は野球がうまくなかったですし、怒られて当たり前なんですけど、まだまだ体育会系の時代で、口が出るか、手が出るかという感じでした(苦笑)。

── その指導から身を守るため、ダグアウトの中でマスクをかぶっていたとか?

中村 星野監督に呼ばれて、少しでも早く行かなければいけないと思い、マスクを取らないでそのまま向かっただけです。星野監督は「殴られるからな。考えたな」と冗談っぽく話したのを、横にいた新聞記者に面白おかしく記事にされたのです。

── 指導され続けて、本塁からバックスクリーンまで行ってしまったこともあったとか?

中村 あれは球場ではなく屋内練習場で、端から端まで移動しましたね。50メートルほどで、あの時は口ではなく、手と足でした(苦笑)。

── 星野監督は何に関して怒るのですか?

中村 その時は、打撃練習で集中して打っていなかったからです。星野監督が怒るのは、当たり前のこと、できることを怠った時です。全力疾走しないとか、カバーに入らないとか。リードにしても、「なぜその球を投げさせたのか」という根拠がなく、工夫しないで同じようなミスで打たれた時は怒られましたね。

── その一方で、星野監督は入団まもなく整理対象リストに入っていた中村さんを残すよう、球団フロントに頼んだとも聞きます。以後、中村さんは中日のレギュラー捕手になります。

中村 1988 年の優勝旅行でオーストラリアに行った時のことです。「こいつのおかげで優勝できたんだ。カメラマンさん、一枚頼むよ」と、ツーショットの記念写真を撮りました。星野監督に初めて褒められたんです。うれしかったですねぇ。

── それから11年後、1999年の優勝のエピソードはありますか?

中村 星野監督との話は、すべてがエピソードですからね(笑)。その時、星野監督は52歳、私も32歳。私も星野監督の考えることがわかるようになり、多少は「会話」をできるようになって、大人扱いしてもらっていましたね。

【世紀の大乱闘事件の裏話】

── そういえば1987年6月、熊本の藤崎台球場での中日対巨人戦。宮下昌己投手から背中にデッドボールを受けたウォーレン・クロマティ選手が激怒。宮下に右ストレートを浴びせ、両軍入り乱れての大乱闘に発展しました。

中村 試合に出始めてまもない時期で(プロ3年目)、私にとって初めての乱闘だったんです。結果論から言うと、すべて私が悪いんですよ。

── どういうことですか?

中村 「厳しいコースを攻めていこう」という事前のミーティングがあったんです。いざ当ててしまって、打者が投手に向かって行ったら、それを捕手は止めなくてはならない。しかしパニックに陥った私は、あろうことか転がっていた球を拾いにいったのです。その間にクロマティがマウンドの宮下さんに突進したのです。

── 中日はいつも戦闘態勢でしたが、星野監督は王貞治監督の肩に手をかけるなど激高していました。

中村 星野監督は「クロマティが宮下を拳で殴ったんだ。それはダメでしょう。退場ではないか」と。そういう説明のために拳を握ったのが、「世界の王さん」に対してのファイティングポーズだと周囲に受け取られて、星野監督が非難されてしまったわけです。

── その後、チーム内での顛末はどうなったのですか?

中村 ホテルに帰ってから、私は星野監督に呼ばれて......それは本当に怖かったですね。注意どころでなかったです。「捕手が投手を守らなくてどうするんだ! おまえ、野球を辞めろ!」って。あとは想像にお任せします......。

── 中日投手陣には、「谷繁元信さんは厳しい父のリード」「(中村)武志さんは包み込む母のリード」と表現した投手がいました。「打たれても、一緒に監督に怒られてくれる」と。

中村 私自身、リードに甘いところがあったと自覚しているんです(笑)。でも、クロマティの一件は、あらゆる意味で「捕手として投手を守る」こと、「プロの捕手はどうあるべきか」ということを知った最大の転機となったのは確かです。

【星野監督からの惜別のパンチ】

── 星野監督の死去が発表されたのは2018年1月6日。あまりに突然の訃報に野球界は揺れました。体調が芳しくないことを、中村さんはご存知だったのですか?

中村 体調がすぐれないということは聞いていましたが、そこまで悪いとは思っていませんでした。亡くなる前年の12月に「野球殿堂入りを祝う会」でお会いしたのですが、今にして思えばかなり弱っていました。星野監督は覚悟していたのかもしれませんね。その時、顔に平手打ちされたのですが、力がなく弱々しくて......。いつものパンチというより、頬をさするようでした。

── 星野監督からしたら、きっと、「お別れ」の意味だったのでしょうね。

中村 その時に「星野監督、殿堂入りおめでとうございます。でも今の時代、叩いたらダメなんですよ(笑)」と言うと、「オレとおまえの仲なんだから、いいんだ」と。私は星野監督に最後のパンチをいただいた男なんです。そして最後に、「よく耐えたな。よく頑張ったな」という労いの言葉をいただきました。

── 訃報には驚いたでしょう。

中村 星野監督に対しては、いまだに後悔ばかりなんです。「もっとああしておけばよかった」「もっとこうしておけばよかった」と。私が21年現役を続けましたが、プロ野球の長い歴史のなかで20年以上捕手を務めた選手は歴代14人しかいないみたいです。それもこれも、星野監督が礎を築いてくれたおかげなんです。

── それなのに、後悔ばかりなんですか。

中村 自分に腹立たしかったのは、訃報を知らされた時、どういうわけか涙がひと粒も出なかったこと。あまりに大きな存在で、いつまでも身近にいてくれていると思っていて......。現実逃避したというか、亡くなったという事実をどうしても受け入れられなかったんです。星野監督には感謝しきれないほど感謝しています。ほんとにありがとうございました。

つづく


中村武志(なかむら・たけし)/1967年3月17日、京都府出身。84年のドラフトで中日から1位指名を受け入団。星野仙一監督(当時)の指導のもと、87年に一軍デビューを果たし、翌年から正捕手となりチームを優勝に導いた。以降も中日の司令塔として活躍し、99年のリーグ優勝にも貢献。2001年オフに横浜へ移籍。05年には楽天に移籍し、同年限りで現役を引退。その後は横浜、中日、ロッテ、韓国プロ野球の起亜タイガースでコーチを歴任

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定