長崎原爆の被爆体験者43人が被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟の控訴審が18日、福岡高裁で始まった。米軍が長崎に原爆を投下してから80年。いまだに「被爆者」と認められない高齢の原告たちは、病身を引きずりながらバスで福岡高裁に向かい、最後の力を振り絞って「私たちは被爆者だ」と訴えた。【尾形有菜、樋口岳大】
長い、長い闘いがまだ続いている。原告たちは被爆者手帳の交付を求めて2007年から順次提訴したが、19年までに最高裁で敗訴が確定。今回の原告は敗訴後に改めて提訴した。
24年9月の長崎地裁判決は爆心地東側の旧矢上村、旧古賀村、旧戸石村(いずれも現長崎市)にのみ原爆投下後に「黒い雨」で放射性微粒子が降ったと判断。3村にいた原告15人だけを被爆者と認め、それ以外の地域にいた29人の訴えを退けた。
提訴時に44人いた原告のうち既に5人が死亡。残る原告も多くが高齢と病気で長距離移動ができず、福岡高裁であった控訴審初弁論に足を運べたのはわずか9人だった。原告団が高裁前で開いた集会では、体調不良を抱えて参加した原告団長の岩永千代子さん(89)=長崎市=が寒さに震えながら「公正な判決を」と訴えた。
岩永さんは車椅子で意見陳述し、07年の提訴時から共に闘った仲間たちの被爆体験とその後の苦しみを語った。原爆投下後、雨にぬれ、紙幣などの燃えかすをざるで拾い集め、灰が積もった葉っぱに指で絵を描いて遊んだ被爆体験者たち。放射性微粒子の危険性を何も知らされず、山や井戸の水を飲み、大気を吸って暮らした。その後、多くの人ががんや白血病などで亡くなった。
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岩永さんは、新谷晋司裁判長たちに「私が『奇病』と思ってきた病気は放射性微粒子のせいだ。人類の生命を脅かす放射能の実態を多くの人に伝えるため、証言台に立たせてもらった。私たちは真実を求め続ける」と語った。
2歳の時、爆心地の北東約11キロの旧伊木力村(現諫早市)で原爆に遭った原告の山内武さん(81)も意見陳述した。1審判決が「黒い雨で放射性微粒子が降ったのは旧矢上村など3村だけだった」と判断したのに対し、山内さんは「旧伊木力村や(東隣の)旧大草村(現諫早市)でも黒い雨は降った。放射能で汚染されたちりやごみが降り注いだ下でカボチャやミカンなどを食べ、内部被ばくしている」と述べた。
そして、「被爆体験者は高齢化している。良識ある判決を早急に出してほしい」と訴えた。
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