サッカー日本代表の優勝はたった1度 今年で42回目のU−20アジアカップの歴史

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2025年02月25日 07:10  webスポルティーバ

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連載第38回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は、現在中国の深圳で行なわれているU−20アジアカップについて。スタートは1959年で今年42回目の開催となる。日本の若手選手を鍛えてきた、その長い歴史を綴ります。

【1959年スタート。今回が第42回大会】

 現在、中国の深圳でU−20アジアカップが開催されているが、アジアサッカー連盟(AFC)主催のこの大会は今年でなんと第42回を迎えるという非常に伝統ある大会だ。

 たとえば、同じAFC主催のU−17アジアカップは4月にサウジアラビアで開かれる大会が、まだ20回目。

 U−20アジアカップの第1回大会(当時は「アジアユース選手権」)が開かれたのは1959年というからもう66年も前のこと(現在は2年に一度だが、かつては毎年開かれていた)。FIFA主催のU−20ワールドカップ(ワールドユース選手権)が始まったのが1977年だから、アジアの大会はそれよりずっと前から開かれていたのだ。

 大会が始まったのはトゥンク・アブドゥル・ラーマン氏の提言によるものだった。1957年に英国から独立したマラヤ連邦(現マレーシア)の初代首相だったが、大のサッカー好きとして知られ、1958年にAFCの第5代会長に就任すると1976年までその職にあり続けた。

 AFCは1954年に創設され、当時は英国植民地ですでにプロサッカーも存在していた香港に本部が置かれていたが、ラーマン氏が会長になってからマラヤの首都クアラルンプールに移転し、現在もAFC本部は同市近郊にある。

 マラヤ独立を記念して、かつて毎年ムルデカ大会という大会も開催されていた(「ムルデカ」はマレー語で「独立」)。アジアの強豪国の代表による大規模な招待大会で、日本も毎年のように参加し、代表強化につながった。この大会もラーマン氏の提唱によるものだ。

 ラーマン氏は、若手育成を目的に20歳以下の選手によるアジアユース選手権の開催を実現し、その第1回大会が1959年4月にクアラルンプールで開催されて韓国が優勝。杉山隆一などがいた日本は第1回大会では3位に入っている。

 第2次世界大戦直後、アジアで孤立していた日本にとっては、ムルデカ大会も、アジアユース選手権も各国と交流できる貴重な場だった。当時の日本蹴球協会(現日本サッカー協会)は財政が苦しかったから、もしこの大会がなかったらユース代表を結成することもなかったかもしれない。

 ラーマン首相は親日的な政治家だったが、日本のサッカー界にとっても恩人のひとりと言える。

【日本の優勝は1度しかない】

 さて、そのアジアユース選手権(現U−20アジアカップ)。日本は全42大会中38大会に参加していながら、なんと優勝はたった1度(2016年大会)しかない。

 フル代表によるアジアカップでは日本は最多の4回優勝を飾っているし、U−23アジアカップでも日本は全6大会のうち2度優勝している(この大会で複数回優勝したのは日本だけ)。さらに、U−17アジアカップでも日本は最多の4度優勝を記録している。

 女子の大会を含めて、日本は他のあらゆるカテゴリーのアジアカップで何度も優勝しているのに、U−20アジアカップではたった1回しか優勝したことがないのだ(ちなみに、最多優勝は韓国で、なんと12回!)。

 初期の頃は、日本が優勝できなくても仕方がなかった。

 大会が始まった1950年代には第2次世界大戦による育成の中断によって日本サッカーは弱体化しており、1958年に東京で開かれたアジア大会では、ホーム開催だというのにフィリピンにまで敗れてグループリーグで敗退した。

 そして、1960年代に東京、メキシコの両五輪で活躍したが、その後は再び低迷する。

 だから、当時の日本にはアジアの大会で優勝する実力はなかった。

 また、当時の日本蹴球協会は継続的にU−20代表を結成することができず、アジアユース選手権の年齢制限は20歳以下だったのに、日本はほとんどの大会に高校選抜を派遣していた。つまり、他国とは2歳ほど年齢差があったのだ。

 そんな時代だったが、日本は1965年と1971年にアジアユース選手権を開催した。そして、さすがに地元開催の大会では日本も年齢制限いっぱいの20歳以下の代表を結成して臨んだ。

 1965年の第7回大会は東京の駒沢陸上競技場をメイン会場として開かれた。1964年の東京五輪で日本はアルゼンチンを破って準々決勝に進出。1965年には日本サッカーリーグ(JSL)も始まってメディアで大きく取り上げられ、「サッカーブーム」と言われ、JSLには多くの観客が集まっていた。

 さて、1965年の日本ユース代表には後に三菱重工で活躍し、日本代表にもなった落合弘(旧姓・山田)や古河電工のMFとして活躍した吉水法生などがおり、優勝も期待されていたが、香港とイスラエルに敗れてグループリーグ敗退に終わってしまった。

 イスラエルは当時AFCに所属しており、この大会でも決勝でビルマ(ミャンマー)に5対0と圧勝して連覇を飾った。

 前年の東京五輪で初めてサッカーの試合を生観戦した僕は、1965年に中学に進学するとすぐにサッカー部に入部した。そして、アジアユースももちろん観戦に行った。学校から連れて行かれた東京五輪は別として、僕にとって初めて自分で入場料を払って見に行った国際大会だったのだが、どんな試合だったかはまったく記憶にない。

 ただ、インドの選手たちの脚があまりに細かったので、ビックリしたことだけをなぜか鮮明に覚えている。

 僕が観戦に行ったのは日本対イスラエルの試合だったが、日本は優勝したイスラエルに対して1対2の惜敗だったから、今から思えば"善戦"だったのだろう。

【サッカー人気のなか行なわれた54年前の日本大会】

 6年後の1971年にも、再び日本でアジアユース選手権が開催された。

 メキシコ五輪で銅メダルを取ったことでサッカー人気はさらに上昇しており、メイン会場の国立競技場には多くの観客が集まった。6年前の大会の参加国は10カ国だけだったが、この時は16カ国参加の本格的な大会となった。

 日本代表には漫画『赤き血のイレブン』で有名な浦和南高のエースだった永井良和や後に日本人として初めて西ドイツのブンデスリーガで活躍する奥寺康彦などがいた(ともに古河電工)。僕にとってはほぼ同世代の選手たちなので、いっそう親近感も沸いた。

 前年の大会はいつものように高校選抜で参加したのだが、それでも永井や奥寺の活躍で日本はベスト4入りしていた。当然、20歳以下の選手で固めた地元開催の大会では優勝が期待された。

 実際、日本代表は3戦全勝でグループリーグを突破すると、準々決勝でもインドを3対0で一蹴し、準決勝に進出した。

 準決勝の対戦相手は韓国。日本にとっては宿敵だ。

 国立競技場には約3万人の観衆が集まり、その声援を受けて日本はゲームを支配。延長までの120分間、何度も決定機を作ったのだが、どうしてもゴールを決めきれず、勝負はPK戦に持ち込まれた。

 今では、当たり前のようになっているPK戦だが、日本国内の大会でPK戦が採用されたのはこの大会が初めてだった(それまでは、ノックアウト方式で引き分けに終わった場合は抽選で勝者を決めていた)。

 日本ゴールを守るのは、後に日本代表として活躍する瀬田龍彦だったが、PK戦で「スター」になったのは韓国の金鎮国(キム・ジングク)だった。いや、「スター」ではなく、「ヒール」と言うべきか......。僕と同世代の方なら、きっと今でもその名を覚えていることだろう。

 助走やキックモーションを途中でストップさせるような駆け引きを再三使って顰蹙を買ったのだ。その後数年間、選手がずる賢いプレーをすると、すぐに「キム・ジングク!」と揶揄されたものだ。

 ちなみに、金鎮国氏は、その後、韓国サッカー協会の役員として長く活躍した。

 日本は初めて経験するPK戦に敗れ、さらに3位決定戦でもビルマに敗れて前回と同じ4位に終わり、決勝ではイスラエルが韓国に1対0で勝利して優勝した。

 なお、日本開催の2度のアジアユース選手権でともに優勝するなどアジアの強豪として君臨していたイスラエルは、アラブ諸国との対立によって1974年にはAFCを除名され、1992年に欧州連盟(UEFA)に加盟することになる。

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