画像はイメージです 誰が言ったか、正義の反対はもう一つの正義、という言葉がある。しかし誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪となり得るものだ。
佐藤夫婦は、一見すると幸せそうな家庭だった。夫の佐藤信也さん(仮名・38才)は一流大学を卒業後、都内の大手IT関連の会社に就職。几帳面かつ理論的な性格をしていた。妻の麻美さん(仮名・36才)は高校卒業後に専門学校に進み、幼稚園の先生となった。三十代で二人は出会い、結婚。そして、二人の間に待望の第一子が生まれた。
だが、出産後すぐに、夫婦の間には大きな溝が生まれた。
◆「粉ミルクは体に悪い」と主張する夫
「粉ミルクを与えていると、すごい形相で怒られたんです」
ある夜、麻美さんが哺乳瓶に入れたミルクを与えているときのことだ。仕事から帰ってきた信也さんはその光景を見て、ただいまよりも先にこう言ったという。
「粉ミルクは体に悪いからやめて」
夫の言葉の意味を瞬時に理解できずにいると、信也さんは哺乳瓶を取り上げ、中身をシンクに全部捨てた。
「どうして粉ミルクなんか飲ませたの?」
強い口調の夫の言葉に、麻美さんはこう反論した。
「夜も眠れないし、胸も痛いんだよ」
絞り出すようにそう伝えたが、返ってきたセリフに言葉を失った。
「母乳の方がいいに決まってるじゃん。栄養価が高いし、母乳で育てた方が知能も発達するでしょ。いい子に育ってほしくないの?」
◆「母乳が出ないのはお前の責任」と…
普段は優しい夫の豹変ぶりを見て、麻美さんは恐怖と驚きで何も言えずにいた。そして、「そうだね」と頷くと、信也さんは勝ち誇ったように笑ったという。
「夫は常に理論を重んじるタイプなんですよ。家電を買う時もそう、何時間もパンフレットを眺めて、一番最良な選択をしたがるんです。母乳の方が良いのは分かってましたけど、私には身体的な負担が大きかったんです」
その一件後、麻美さんは母乳を与えるよう努力した。母乳が出る方法を探したり、産婦人科に相談したりもした。しかし、その努力も長く続けることができなかった。
毎晩続く夜泣き。働きに出ていないとはいえ、疲れとストレスで母乳も出なくなっていった。麻美さんは粉ミルクを与えていいか、夫に相談を持ちかけた。それはもちろん、子供のためだ。
「でも、だめでした。断られるとは思いませんでした。母乳が出ないのはお前の責任なんだから、どうにかしてほしいって言うんです」
いくら辛さを訴えてもダメだった。最近の粉ミルクの栄養価が高いことを伝えても聞き入れてくれなかった。共感してもらえない辛さ、一人で育てているような孤独。それに追い打ちをかけるような一言が、夫の口から飛び出た。
「麻美は粉ミルクで育てられたんだね」
そう言われ、麻美さんは生まれて初めて大声を出して怒りを伝えた。
◆子供がよく眠るようになったが、原因は分からず
「強い態度をとるくせに、反抗されると縮こまるんですよ。なら別の方法を考えようって、そう言ったんです。そのときは、理解してもらえたってホッとしました」
それからしばらくして、麻美さんはある違和感を覚えるようになった。子供の機嫌が良く、よく眠るようになったのだ。それ自体は喜ばしいことだったが、妙に安定しすぎているようにも思えた。
「最近、この子よく寝る気がするんだけど…」
ある夜、麻美さんが何気なく言うと、信也さんは少し動揺した様子でこう言った。
「赤ちゃんなんだから、よく寝るのは当然でしょ」
「でも、ミルクをあげる量は変わってないのに」
「そういうものなんじゃないの。ミルク、俺があげとくから。もうお風呂入ってきなよ」
夫への違和感は日増しに強くなった。隠し事をしているのはすぐに勘付いたが、それが何かはわからなかった。浮気しているそぶりはない。ただ、違和感だけがずっとある。そしてある日、麻美さんは決定的な証拠を目にする。
◆「違和感の正体」はまさかの…
「洗面所の隅に、小さな冷蔵パックが置かれてたんですよ。中身は白い液体です。すぐにわかりました、母乳だって」
麻美さんは息を呑んだ。容器には小さなラベルが貼られており、そこには黒いペンで日付が書かれていた。
彼女の心臓が一気に跳ね上がる。その母乳を手に取り、リビングでくつろいでいた夫に投げつけた。
「これ、なに? どういうこと?」と麻美さんは言った。
夫はとぼけ、しばらく何も言わなかった。だが、観念したように口を開く。
「助産師の方にお願いして、定期的にもらってた」
夫は決して悪びれた様子ではなかったという。自分は子供のためにベストを尽くしていると、そう訴えてきた。
「でも、夫の説明なんて耳に入ってこなかったです。心臓がキュッとなって、自然と涙が溢れてきたんですよ。夫がミルクをあげてくれたのも、夜泣きをあやしてくれたのも、全部他人の母乳をあげるためなんだって思って……」
これは正義だろうか。それとも悪なのだろうか。それを判断するのは、少なくとも私ではないだろう。
<TEXT/山田ぱんつ>