歴史ファンタジー小説『冥界転生』 最強の陰陽師の血を引く女子高生・明智凛。彼女の顔に現れた不思議なあざの謎が、やがて日本の政界を揺るがす大事件へと発展。内閣支持率が史上最低を記録する中、総理大臣の体を乗っ取った平清盛が独裁への道を突き進み、毎回から歴史上の人物を次々と呼び寄せていく――。
【画像】この“不思議なあざ”は…!歴史ファンタジー小説『冥界転生』書影
17万部突破で映画化もされた小説『もしも徳川家康が総理大臣になったら』などで知られる著者・眞邊明人氏が放つ、歴史ファンタジー小説『冥界転生』の試し読み第3回。
支持率低迷に苦しむ総理大臣の前に現れた平清盛は、政敵を倒す取引を持ちかける。その代償として総理大臣の体を要求する清盛。そして政敵たちの意識不明の報せとともに、恐ろしい約定が果たされようとしていた。
【第3回本文】
闇の中で男は目を細めた。赤い目は猫のように瞳孔が縦長になる。
「業火に焼かれ死んだ者は、冥府に堕ちる」
「冥府……」
「冥府とはいわば、この世で英雄と呼ばれつつ、その存在を憎まれた者が堕ちる場じゃ。天下に号令した英傑のため神のごとき力を持つが、その力ゆえ成仏もできず地上のはるか下、地獄のさらに下で同様の者たちと永遠に争い続ける。果てなき戦じゃ」
男はため息をついた。
「しかし、そこから逃れることもできる。この地上が混乱し憎しみに溢れたとき、冥府から地上への扉が開く。そうしてわしは、お前を見つけた」
男の赤い目が細くなった。
「天下を治める立場にありながら、憎しみを一身に受ける者。しかもお前は、弱い」
男の言葉は板垣の胸に刺さった。確かに自分は弱い。祖父が元総理ゆえ政界のサラブレッド、期待のプリンスなどと持ち上げられてきたが、その二つ名にふさわしい実力はない。すべて国民の思い込みだということは、自分がいちばんよくわかっていた。地位さえ得ればとの思いもありはしたが、己の弱さを確認しただけだった。最近では最側近とも言える官房長官と党の幹事長までが、板垣の退陣を画策するありさまだ。
「よいか。お前もかつてのわしと同じじゃ。民や同胞の憎しみを浴び続けておる。このままではわしと同様、死あるのみ」
その言葉に、思わず板垣はうなずいた。このところ日々、死について考えている。憎しみや裏切りが無間地獄かのように襲いかかり、SNSに溢れる嘲(あざけ)りと侮蔑の言葉は、見ないようにしても次々頭に浮かぶ。こんな苦しみが続くなら、と思う自分がいるのも事実だ。これが覚悟もなく、血統によって担ぎ上げられた自分の弱さだという自覚もある。
「抗え」
清盛はそんな板垣の心を見透かしたかのように言った。
「殺される前に殺せばよい」
闇の中で男の唇が歪む。
「殺される前に……」
「殺すのだ」
念を押す言葉に全身の肌が粟(あわ)立つのを感じた。
「お前を憎み、お前を陥れ、なおかつ力のある者を二名挙げよ」
「二名……」
男は肩を震わせ嗤(わら)った。
「今のわしの霊力では、それが手一杯じゃ。力を得れば増やせるがな」
男は無重力下のようにふわりと立ち上がり、顔を寄せた。息がかかるほど近いのに、この者からは呼吸を感じない。いや、呼吸はしていなかった。眼前にあるのは空気のような物質だ。
「名を挙げよ。わしが始末してくれよう」
夢であろう。板垣は思った。これは夢だ。夢ならば心奥の鬱屈を吐き出してもいいはずだ。
「官房長官の椎名岳人と、党幹事長の赤根誠……」
「承知した」
男はその赤い唇を歪め、長い舌を出した。
「その者ども、必ず仕留めてくれよう。しかし、ただとはいかぬ。わしが役目を果たしたら、お前の体を貸せ」
「体を?」
「我ら冥界の者が地上を生きるには依代(よりしろ)が一つ必要じゃ。他の者は置き換えればよいが、一人はこの地上の者に寄生せねばならぬ。お前は苦悩、怒り、悲しみを受け止め、この国を治める者。すべてが揃っておる。依代には至適じゃ。わしに体を貸せば、歴史に残る英傑たり得るぞ。この清盛入道のように」
かかかか、と男は乾いた声をあげた。不気味な音が板垣の鼓膜を打った。
「どうじゃ」
どうせ夢だ。混濁する意識のなか板垣は自分に言い聞かせた。夢であっても、裏切った椎名と赤根に一矢報いたい。心に溜まった怨念が理性を押しきった。板垣はうなずく。
「約定成立じゃ」
男は満足げに言った。そして分厚い掌をぽんと合わせた。
「行け」
男が闇に向かい声をかけると同時に、板垣はベッドに倒れ込み、眠りに落ちた。
翌朝。
板垣は軽い頭痛を引きずり、執務室に向かった。嫌な夢を見た。このところのストレスが見せた夢に違いない。腹の底に、ずんと響くような不快感が残っている。
執務室に入るや否や、真っ青な顔をした秘書官の菊池が飛び込んできた。痩身で神経質な菊池が、メガネを曇らせ唇を震わせている。
「総理!」
絞り出すような声とただならぬ様子に、嫌な予感がした。
「どうした?」
声が上ずる。
「幹事長と官房長官が意識不明です!」
心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。背中からは一気に汗が吹き出す。
「ど、どういうことだ」
「わかりません。お二人とも今朝、ご自宅で倒れた姿で発見されました」
動悸が激しくなり、昨夜のあの異形の者の顔がフラッシュバックする。あれは夢だったはずだ。手が震える。
「じ、事件性は?」
声がかすれた。もし二人が襲われたのなら、指示したのは間違いなく自分だ。
「詳細はわかりかねますが、外傷もなく事件性は低いのではないかと。それにしても、お二人同時というのは……」
菊池の言葉にホッとする。ありえないことだろうが、もし二人が事件性なく同時に倒れたら、党内は大混乱となり政権の延命は図れる。それどころか彼らの後任を決める際に、自分の優位性が一時的であれ上がるのではないか……。不謹慎極まりないが、追い詰められていた板垣は一筋の活路を見出した気持ちになっていた。
怒涛の一日を終え、板垣がベッドに身を横たえたのは午前二時を回っていた。椎名と赤根は依然、意識不明。二人の代役は、それぞれ官房副長官、幹事長代理が行うことになり、状況次第では後任を決めることになった。おかしなもので、目の前にポストが現れると、敵対していた者が続々と靡(なび)く。板垣の直感に違(たが)わず、政権与党内の主導権は板垣に戻った。いつもと違う安心感に、気づくと意識は遠のいていく。
どれくらい眠ったのだろう。いや、まだ夢の中かもしれない。板垣の意識は闇を漂っていた。その闇から、あの陰鬱な声が聞こえてきた。
「起きよ」
まるで操り人形のように、板垣は体を起こす。
暗闇に、あの異形の男がいた。
「約束は果たしたぞ」
椎名と赤根のことだ。昨夜の記憶が蘇る。
「この清盛、できぬ約束はせぬでな」
赤い目が横に広がり、ぬめぬめとした唇が裂けるように横に広がった。
「その証を見せてやろう」
異形の者は背後に首を傾けた。もう一人、男がいた。
赤毛の蓬髪(ほうはつ)、髭だらけの顔に、薄茶色の大きな瞳。身長は二メートル近い。粗末な着物から逞しい腕が見え、まるで赤鬼のようだ。異様とも思える長い腕の先には、丸い物がぶら下がっていた。赤毛の男は両腕をぐいっと前に突き出す。それを目にした瞬間、板垣は息を呑んだ。
「お前が望んだ、椎名と赤根の首じゃ」
異形の者が愉快そうに言った。赤毛の男の両の拳には椎名と赤根の髪の毛が絡まり、生首が風鈴のようにぶら下がっている。鋭利な刃物で切り取られたであろう首からは鮮血が滴(したた)り、生気を失った真っ青な顔に貼りついた筋肉はゆるみ、垂れ下がっている。
「わしは約束を果たした。お前も果たしてくれるだろうな」
異形の者は板垣に言った。その目は真剣そのものであった。
「な……なにをす……」
声がかすれた。
「なに、たいしたことではない」
異形の者はゆっくりと言った。
「簡単なこと。お前の首をわしの首にすげ替えるだけじゃ」
声にならない悲鳴をあげ、板垣はベッドから逃げようとした。しかし次の瞬間、赤毛の男が板垣めがけ跳躍していた。男の両手に、生首ではなく刀が握られているのを確認したところで、板垣の意識は、途絶えた。