ボブ・ディラン 片岡義男、村上春樹、伊坂幸太郎……日本文学への多大な影響 映画『名もなき者』の前におさらい

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2025年02月27日 10:00  リアルサウンド

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ボブ・ディランが与えた影響

 ボブ・ディランは遍在する。フォークソングの神様として熱い支持を集めたボブ・ディラン。エレキギターを持ってロックを歌い非難と賞賛を浴びたボブ・ディラン。村上春樹や伊坂幸太郎の小説に登場するくらい音楽から文学まで広く影響を与え続けているボブ・ディラン。今なおライブで歌い続けているボブ・ディラン。


 2月28日から公開となる、ティモシー・シャラメが若きボブ・ディランを演じて話題の映画『名もなき者』の公開をきっかけに、改めてボブ・ディランとは何者かが語られそうだ。


◾️40年前には「過去の人」になっていた? 


 『「ボブ・ディランって少し聴くとすぐわかるんです」と彼女は言った』。村上春樹の小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)の終盤、「33 ハードボイルド・ワンダーランド(雨の日の洗濯・レンタ・カー、ボブ・ディラン)」に出てくる一文だ。


 レンタ・カー屋で働く若い女性の言葉で、「ハーモニカがスティービー・ワンダーより下手だから?」と尋ねる“私”に、「そうじゃなくて声がとくべつなの」と答え、「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声なんです」と言って“私”から適切な表現だと褒められる。


 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が発表された1985年の3月に、ボブ・ディランはアフリカの飢餓救済を目的にしたチャリティー企画「USAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」の中でしゃがれて独特な歌声を響かせて健在ぶりを感じさせた。マイケル・ジャクソンやライオネル・リッチー、ブルース・スプリングスティーンといった当時のチャートの常連が歌う中にあって、ボブ・ディランはよく言えば超越的、悪く言えば過去の人といった印象があった。


 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にも、「でも君みたいに若い女の子がボブ・ディランを聴くなんて珍しいね」という一文があって、そういう認識が普通だったことがうかがえる。これより5年前に出た「ユリイカ 詩と批評」1980年1月号の「特集ボブ・ディラン」で既に、翻訳家・詩人の中山容によって「なぜか、私の周辺では、ディラン離れとでもいうような気分が濃厚になってきている」と書かれている。片桐ユズルと共訳で、1974年に『ボブ・ディラン全詩集』を出した人にそう思わせてしまうくらい、遠い存在になっていた。


 1949年生まれの村上春樹にとってボブ・ディランは、同時代的耳にしてきたシンガーのひとりだっただろう。アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックといったビート・ジェネレーションに影響を受けたと言われるボブ・ディランの散文的で暗喩も含まれた表現が、村上春樹の小説と重なって見える人も少なくない。ボブ・ディランの小説『タランチュラ』(KADOKAWA)に並ぶ、「銃たち、罰せられざる鷹のマウスブックとギャッシュキャット」「役立たず氏は肉体労働にわかれを告げ、レコードを吹き込む」といったタイトルには、どことなく村上春樹味が感じられる。


 『タランチュラ』を訳したのは『スローなブギにしてくれ』で知られる小説家の片岡義男で、「ユリイカ」のボブ・ディラン特集にも寄稿していて、『タランチュラ』に収められた作品群から「なにかが、こわれていくイメージ」が感じられたと書いている。『タランチュラ』はボブ・ディランが23歳の時の著作で、その時からすでに崩壊して流転していく世界を達観し、小説に書き歌詞に乗せて歌っていた。村上春樹の作品に漂う喪失感や虚無感には、こうしたボブ・ディランの感性から受け取ったものがあるのかもしれない。


 片岡義男は「ユリイカ」で、ボブ・ディランがエレキギターを手にして歌い始めたロックが、やがて肥大化し複雑化していき、「そのなかで、もっとも不自由になるのは、まずボブ・ディラン自身だろう」と指摘している。ティモシー・シャラメがボブ・ディランを演じる映画『名もなき者』に描かれているのが、まさにそうなっていく転換点に立つボブ・ディランだ。


 1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでボブ・ディランは、アコースティックギターをエレキギターに持ち替えてステージに立つ。フォークソングの神様の変節に会場は騒然。北中正和『ボブ・ディラン』(新潮社)には「フォークのプリンスがエレキ・ギターを手にすること自体が裏切りでした」と当時の雰囲気が書かれている。ボブ・ディランはこの時に歌った「ライク・ア・ローリング・ストーン」で一躍ロック・スターへと躍り出る。映画『名もなき者』でも見どころとして挙げられているエピソードだ。


 そこから15年後の「ユリイカ」で、片岡義男に「彼がかつて採択したロック音楽という方法は、あれ以来ものすごい勢いで複雑に発達し、ディランをもそのなかにのみこんでしまった」と書かれてしまうほど、ボブ・ディランの存在は希薄化していった。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に聴いているのが「珍しい」と書かれる存在になってしまった。


 けれどもボブ・ディランは消えなかった。シンガーとして歌い続けライブ活動から退くこともなく、日本にも何度もやって来た。1990年代以降の激動の中で「風に吹かれて」はプロテストソングとしてより強く意識されるようになっていった。


◾️伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』でも重要な存在に


 2003年に刊行された伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社)では、主人公の椎名が口ずさむ歌として「風に吹かれて」が登場して、閉塞感の漂う暮らしの中に救いを求めたくなる気持ちを誘う。映画では「風に吹かれて」となっていた、椎名がコインロッカーに閉じ込める「神様」の歌として、小説では「ライク・ア・ローリングストーンズ』も登場する。ボブ・ディランが残してきた膨大な言葉と音楽は、薄れながらも社会に溶け込み遍在していて、ふとした弾みで浮かび上がる。


 村上春樹が何度も受賞を取り沙汰されたノーベル文学賞にボブ・ディランが決まった時、村上春樹のファンにはなぜと思った人もいただろうが、ボブ・ディランなら仕方がないといた気分の方が強かった。これで改めて大復活を遂げたかというと、ライブの方は続けながらホールが中心で、派手な演出も行わないで淡々と歌い続けている。同じようにポピュラー音楽の歴史を変えたビートルズのポール・マッカートニーやローリング・ストーンズがド派手なドームツアーを繰り返すのとは対称的だが、そこがいかにもボブ・ディランらしい。


 そもそも引退することなく現役で歌い続けていることが、83歳という年齢を考えれば凄いことだ。最近も2023年に来日してホールツアーを行った。映画『名もなき者』が世界的に大ヒットされたからといって、映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)の大成功を受けて世界ツアーを行ったクイーンのような大きな動きはないだろう。それでも、気が乗ってひょいと日本に来てくれるかもしれない。


 その時は、古くからのファンから村上春樹や伊坂幸太郎で知った世代に映画で感動した世代も加わって、とてつもない盛り上がりを見せることだろう。



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