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狂おしいほどに情熱的な恋を、私はしたことがあっただろうか。
『ゆきてかへらぬ』という映画を見た、最初の感想である。2025年2月21日上映の本作は、浪漫溢れる大正時代の京都と東京を舞台に、実在した男女3人の愛と青春を描く。女優と詩人、文芸評論家という3人のアーティストたちの関係性や、激しい感情のぶつかり合い。現代から考えると特殊にも見える3人の大恋愛に触れてみると、今の私たちが忘れがちな、とある愛のカタチを思い出すことができる。
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■美しくも不器用で、メロい恋の始まり
まだ文化が発展しきる前。時代の発展や明るい未来を彷彿とさせる大正時代、20歳の女優・長谷川泰子は、17歳の学生・中原中也と出会う。自分を守るためにか、強がって生きてきた2人は惹かれ合うようになり、同棲生活を始める。女優の泰子と詩人の中也、互いに自己を表現する仕事をしていながらも、その熱量には差があることも感じさせる。詩にのめり込んでいく中也に、泰子は憧れにも似た嫉妬の感情を描いていく。
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出会いから恋に落ちるまで、2人の関係はすごいスピード感で深まっていく。お互いの身分も、職業も関係ない。マッチングアプリも結婚相談所もない時代に、たまたま声をかけたことから始まる恋に、今の時代にはなかなか感じることのない運命性も覚える。
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アーティストたちの情熱的な恋の始まりは、本作の見どころの一つだ。気が強い泰子がストレートに愛を伝えるのに対して、詩人の中也は皮肉めいた独特なセリフ回しで、泰子に愛を囁く。そして泰子も、歳下の中也が抱える孤独を理解するかのように、行動で愛を伝えていく。
不器用で寂しそうな2人は、身を寄せ合って暮らすようになる。その姿には、異性でしか埋まらない心の穴を埋め合うかのような、恋愛の醍醐味を感じさせられる。2人の関係は依存めいているようにも見えるのだが、それでも1人になるよりはいいからと、傷つけ合いながらも生活を続ける。そしてそのことを、誰に文句を言われることもない。閉鎖的ではあるが、だからこそ情熱的な愛が育まれていったのかもしれない。
■今彼と元彼――どちらとも繋がり続けるのは、いけないこと?
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愛情に溢れる暮らしは長く続かず、東京に引っ越した2人の生活環境は一変する。そんな時に、泰子は中也の詩を評価する文芸評論家・小林秀雄と出会ってしまう。無骨な中也とは裏腹に、大人びて知的な魅力を持つ小林。そして泰子は、2人の男性に求められてしまう。
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三角関係を題材にしたドラマや映画は多くあるが、3人の恋愛はよくある関係に収まらない。中也にとって、小林は唯一と言っていいほどの詩の理解者で、また小林にとっても、中也の詩は類稀なる才能の原石だった。中也と泰子の関係は、小林も巻き込んで共依存のトライアングルを作り上げていくことになる。
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現代であれば、略奪愛の末に恋人が元彼とも仲良くしているとか、今彼と元彼が未だに親友です、なんてほとんどの人が「ありえない」と感じるはずだ。しかし、かつての純文学の中では、こういった略奪愛や不倫が純愛として描かれることも多い。日本が一夫多妻制を終えたのは1898年のこと。大正時代ではまだ、不倫や略奪愛は今ほど禁忌として捉えられるものではない側面があった。
現代、不倫は法で裁かれるものとなり、たとえ結婚していなかったとしても、略奪愛にはほとんどの場合厳しい目線が向けられる。しかし令和の今とは裏腹に、泰子と中也、小林は歪ながらも、3人が繋がり続けることでお互いを保ち続けていくことになる。その姿には、愛の多様性を感じずにはいられないはずだ。
■「愛する」は人それぞれで、正解はない
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“多様性”という言葉が乱用されるようになった現代だが、実際には厳しいコンプライアンス社会が出来上がってしまった。誰かの多様性は、誰かの掲げる価値観に反することになり、SNSやネットでは常にあらゆる“正義”に監視され続けている。依存も嫉妬も、よく知りもしない他人からすると、黒く悲しい感情として片づけられがちだ。
泰子、中也、小林の3人の青春と恋愛は、激しさこそあれど本人たちが幸せだと感じていたかどうかは、本作の中だけでは紐解けない。しかし、彼らは自分らしく愛を実践し続けたし、そういう意味で自由だったのだ。声を上げて怒り泣く泰子、依存じみた愛を、時に力を持って表現してしまう中也。親友の最愛の人を奪っても、親友を手放しはしなかった小林。足りないところだらけの人格でも、自分らしい選択を繰り返していく。
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愛とは本来、こういうものだったのではないだろうか。無理に気持ちを押さえたりすることなく、好きな人に愛情をぶつけられる。不完全なそれは「無償の愛」とは程遠いのかもしれないが、そのがむしゃらさや、作中で過ぎていく時間の中で、少しづつ人間性が養われていく泰子の姿に、共感してしまう女性もいるだろう。
決してライトとは言えない作品ではあるが、その世界観には引き込まれるはずだ。愛に正解はない。だからこそ、愛の多様性を感じてみたい時、この映画に触れてみてほしい。
(ミクニシオリ)
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