【対談連載】東京国際工科専門職大学 学長 村上憲郎(上)

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2025年02月28日 08:01  BCN+R

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BCN+R

2024.12.6/東京都千代田区のBCNにて
【東京都千代田区発】『男を磨くのはセールスだ』という本を読んで、当初、営業担当として日本ディジタルイクイップメント(日本DEC、当時)に入社した村上憲郎さん。「エンジニアだけではバランスが悪い。いっちょう、男を磨いてみるか」との思いからだった。1982年に日本政府肝いりで始まった、AIコンピュータープロジェクトに参画。ここから、AIがライフワークになった。今、目を見張るほど急速に発展を続けるAI。「これは第四次産業革命だ」と話す村上さん。もしかすると「人類は労働から解放されることになるかもしれない」と未来像を語る。
(本紙主幹・奥田芳恵)

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●AI時代のメディアの存在意義は 情報を得る「取材」にヒントあり

 昨今、生成AIが急速に普及し始めていますが、AIがライフワークとおっしゃる村上さんは、現状をどう見ていらっしゃいますか?

 まだまだ始まったばかりです。期待は大きいですね。先日、Googleジャパンのディープマインド部門のトップの方とお会いして、いろいろとお話をうかがいました。基本はLLM(大規模言語モデル)なんですが、いわゆるマルチモーダル化が急速に進んでいます。もちろんプロンプトという命令文を的確に入れる必要はあるんですけれど、静止画であるとか動画であるとか、言語以外にもそれぞれの分野の人工知能が、自動的にコンテンツを生成する。しかも能力を上げてきています。「ChatGPT」が発表されてわずか数年ですが、カバーする領域が急速に広がっています。もうこの勢いは止まらないですね。

 AIの活用が進むと、私たちの生活や働き方はどのように変わるんでしょうか?

 極端な言い方をすると、BCNのようなメディアの仕事はなくなるかもしれません。「取材」はジャーナリズムにとって重要で特殊な技能です。けれど、生成AIがたちどころに追いついてくる。結局、読者はBCNを購読しなくても、情報が取れてしまいます。コンピューターという世界にフォーカスを当てていたとしても、なかなか厳しい局面を迎えるかもしれません。そんな直近の未来を想定したうえで、「BCN2.0」とも言うべき、次世代のメディアに向けて突き進んでほしいですね。

 次のステージを目指すため、われわれの武器は何であると村上さんは考えますか。

 私が直接携わっていた第3世代のAIでは、専門家、例えば医師の知識を得るために、彼らにインタビューをしてデータを打ち込んでいっていたわけです。ところが今の第4世代では、インターネットからいくらでも情報を集められる。そこが大きな違いです。つまり、現在のAIはインターネットの情報が前提になっています。逆にいえば、そこがBCN2.0のアイデアのとっかかりになると思います。取材ができる、記者という特殊な技能集団を生かして、インターネットにはない、AIでは集めきれない情報を集める。「取材2.0」とは何なのか、を追求するのがいいと思います。

 AIの普及は、もちろん社会全体にも大きな影響を及ぼすと思うのですが、どれくらいの変化が起きるのでしょう。

 すべての会社が潰れるぐらいのインパクトがあります。いろんな議論が沸騰していますが、もしかすると、人類はいよいよ働かなくてもよくなるかもしれません。労働から解放されるわけです。2050年ぐらいに歴史家が「24年に始まった第四次産業革命」と記述するほど、社会や暮らしは大きく変わるでしょう。人類史を画する大変革になると予測しています。

●学生運動に明け暮れた日々 人生を変えた「HAL9000」

 そもそも、どんな経緯でAIをライフワークとされるようになったのですか?

 きっかけは1968年に公開された映画『2001年宇宙の旅』でした。そこに登場する、HAL9000という人工知能型のコンピューターを見て「こんな面白そうな世界があるんだ。人工知能ってすげーじゃん」と思ったんですね。実は学生時代、極左暴力学生でした。逮捕歴もあるんです。ところが、この映画を観て、学生運動をやめる事にしました。

 極左暴力学生で逮捕とは穏やかではありませんね。ご出身は京都大学だとうかがいましたが。

 一応、工学部資源工学科に籍を置いていましたが、全然勉強はしませんでした。入学してすぐにベトナム反戦運動にのめり込んで、2回生の時に逮捕されたんです。幸い少年鑑別所送りにはならずにすみました。警察から家庭裁判所に送られた調査書に「学力優等品行方正、ただし、思想にやや難あり」と書かれていて、付き添いで来ていただいた学生課の職員と家庭裁判所の調査官と私の3人で大笑いしたのを覚えています。いろんなところにご迷惑をかけたので、決して自慢できる話ではないんですけどね。

 そのころ『2001年宇宙の旅』をご覧になって……。

 全共闘運動が始まり授業もなくなって、“足を洗った”私は暇を持て余していたんです。じゃあ、当時はやりの自主講座でコンピューターをみんなで勉強してみようかと。東大出版会から出ていた『FORTRAN入門』という本をテキストに、問題を解いたりしながら勉強しました。多少プログラムも書けるようにはなりました。

 それが人生の転機になったんですね。

 なんとか卒業することもできて、縁あって武蔵小金井にあった日立電子(現国際電気)という会社を紹介していただきました。その時に面接された人事部長さんが恐る恐るお聞きになるんです。「もうやらないんですよね」って(笑)。もちろん「はい。足を洗いました」と答え、エンジニアとして働くことになりました。

 信頼を得るためにも真面目に頑張らないといけませんね。

 最初に配属されたのが福島第二原発でした。東日本大震災で事故を起こした第一原発、「1F」ではなく「2F」のほうです。そこで振動試験などに携わっていました。会社としては、原発反対の運動家などに情報を流したりはしないかと、様子を見ていたんでしょう。当然ですが、そんなことはしませんでした。次に防衛庁の仕事にも携わったのですが、特に問題もなく「まあ更生したんだろう」と判断してもらえたのだと思います。

 日本DECに移られたのはどんな事情があったんですか?

 日立電子では日立製作所が開発したミニコン「HITAC 10」を扱っていました。ところがこれは、DECの「PDP-8」というコンピューターのコピーだったんです。さらに後継で16ビットの「PDP-11」の要素も取り入れたことで、ベストセラーになりました。当時、日本のコンピューターはみんなそんな感じでした。ところが、DECが「VAX-11/780」という32ビットのマシンをリリースすると、もう日立ではコピーできない、ということでミニコンから撤退することになったんです。その時、たまたま本家DECが社員募集の広告を出していました。そこですぐさま応募して入社しました。入社するとすぐに、当時の通産省の旗振りで、AIマシンを作る「第五世代コンピュータプロジェクト」が始まりました。これにDECも加わるということで、私はプロジェクト担当を志願。いよいよ本格的にAIに関わることになりました。(つづく)

●村上さんの大好きな言葉

「我等いつも新鮮な旅人遠くまで行くんだ!」

 村上さん自身に書いていただいた。前半は白戸三平の『忍者武芸帳』の主人公が語った一節。後半の「遠くまで行くんだ」は中核派の小野田襄二が出した機関誌の題名だ。村上さんは「自分の生き方に沿っている言葉」だと話す。インタビューでも何度も口にされていた。「新鮮そのもの」の若い人に向けた「はなむけの言葉」として結婚式や転職などの際に使うことも多いという。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

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