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高額療養費制度とは……限度額以上の医療費を、公的医療保険が負担
「高額療養費制度」は、医療費が高額になった場合に、患者の負担を軽減するために設けられている制度です。例えば、現役世代の多くが該当する「70歳未満の、年収約370万〜770万円」の中間所得層の場合、現行の制度では、1カ月の医療費の自己負担限度額は「8万100円+(総医療費−26万7000円)×1%」と定められています。
つまり、この額を超えて医療費の請求があった場合、超えた分は公的医療保険から支払われるため、自分で負担しなくてよいのです。「国民皆保険制度」を導入した日本において、誰もが安心して医療を受けられるための、優れた制度の1つです。
しかし2025年8月以降は、上述の中間所得層の自己負担上限額が8万8200円まで引き上げられます。さらに今後は、低所得の世帯は引き上げ幅が小さく、高所得の世帯ほど引き上げ幅が大きくなるという計画が発表されています。
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「高額療養費制度の見直し」に、批判の声が上がるのはなぜか
近年の医療高度化に伴い、医療費はどんどん上昇し、公的医療保険制度の破綻が危惧されています。この流れから考えると、高額療養費制度の見直しも、致し方ないと思われるかもしれません。しかし、今国会で議論中の内容に対し、多くの国民から不満や批判の声が上がっています。それはなぜでしょうか。医薬の専門家として、ここには大きな2つの問題点があると、筆者は考えます。順に解説します。
費用対効果が高い薬が、価格だけで悪者に? 政策における説明の不十分さ
1つめは、納得できる説明が不十分なため、国民にとっては「安易な自己負担額の引き上げ」にしか見えないという点です。例えば、会社が経営破綻の危機に陥ったとき、経営者が根本的な経営上の課題を洗い出し、改善する努力をしないまま、安易な判断をするとどうなるでしょうか?
まず問題視されるのは人件費で、「給与引き下げ」や「リストラ」が早急に行われてしまいます。結果として一時的に黒字に転じたように見えても、すぐ赤字に戻ってしまうのは、非常によく見られる経営の失敗です。
これに対して優秀な経営者の場合は、人件費に手を付ける前に、徹底的に無駄を洗い出し、効率的なビジネスを実現するよう最大限の努力を行います。
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今回の高額療養費自己負担額の上限引き上げ案に対して、政府は果たして、国民に十分な説明ができているでしょうか? 多くの人が「NO」と感じると思います。
特に先日の答弁で、石破総理が特定の高額薬を名指しし、その薬が公的保険制度を圧迫しているかのように説明をしてしまった点は、医薬の専門家として看過できません。
治療が難しい特定の病気に対しては、非常に高度な技術が駆使された薬が使われることがあり、それらが高額なのは事実です。しかし、「優れた技術によって生まれた、効果の高い薬」が高額であるのは、当然のことではないでしょうか。
いわゆる「費用対効果」で考えても、「高額でも確実に患者さんを救うことができる治療」にお金を投じることは、決して無駄遣いではありません。本当に役に立つことにお金を使うのが正しい選択ではないでしょうか。
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深刻なのに放置されている「不必要な処方」「廃棄される処方薬」の問題
2つめの問題は、自己負担額上限を引き上げる前に、まだできることが残っている点です。上の例でいえば、「徹底的に無駄を洗い出す」という努力をやりきっていないのではないでしょうか。薬に関しても、現状を見れば、必要以上に処方され、患者が余らせて廃棄されることも珍しくない薬も相当数あります。典型的なのは、消炎鎮痛の湿布薬や、よくある風邪薬などです。
痛みを訴える高齢者に、痛み止めの湿布を日常的に処方する光景が見られますが、使われなかった湿布の多くは、ゴミ箱に捨てられているのが現状です。風邪薬も同じです。
風邪をひいて、解熱薬や鼻炎薬、咳止めなどを処方されても、症状が改善すれば、そのまま放置され、使用期限が過ぎた頃にゴミ箱に入れられてしまいます。一体どれほどの薬が、各家庭から捨てられているでしょうか。読者の皆さんにも、思い当たるふしがあるはずです。これらはいずれも、保険の大きな無駄遣いです。
深刻な問題にも、解決策にもなる「小さな行動」……一人ひとりにできることは?
湿布薬や風邪・花粉症などの薬は、病院で処方を受けなくても、ドラッグストアなどで同等品が買えることが多いです。「病院で処方してもらった方が安い」と考える人は多いかもしれませんが、実はこういった小さな受診が、結果的に「保険の大きな無駄遣い」になっていることは無視できません。確かに、病院を受診すれば1〜3割の負担で入手できる薬でも、ドラッグストアでは100%自己負担で買わなくてはいけません。しかし、病院受診によって薬以外の診察代も発生しますし、患者自身が支払わない残りの7〜9割のお金は、公的保険から支払われるのです。
回り回って、税金として私たちが負担していくことになります。日常的な不調に処方薬を求め続けると、いずれ公的保険制度の破綻につながるという意識を、国民全体で持つことが大切です。
美容目的で、保湿効果のある「ヒルドイド」を皮膚科を受診して処方してもらおうとする行為も、公的保険制度を圧迫させることです。多くの人の「ちょっとした節約」のつもりの医療の利用が、今問題になっている、自己負担額引き上げにつながった可能性があることに、気づいていただきたいです。
「塵も積もれば山となる」。私たち一人ひとりが、「大切なところに公的保険が使われるように」という意識を持つだけでも、大きな無駄を減らすことができるのではないでしょうか。
さらに、多くの患者は、医師から処方された医薬をそのまま受け入れるため、薬をはじめとする医療の提供者側の意識改革も必要になってくるでしょう。筆者自身が薬剤師として、医師が発行した処方箋を見たときに、まれに過剰な処方と思われるものもあります。
患者の中には「あの先生は薬をたくさん出してくれるからいいわ」と言う方もいますので、患者の満足度は上がるのかもしれません。睡眠薬や抗不安薬などは、患者の求めに応じて処方されることもあるようですが、「処方薬依存症」などの問題にもつながります。
医療費削減の観点からも、薬の処方の仕方についての、何らかの「再教育」のような制度がなされるべき時期かもしれません。
今回は薬を中心に取り上げましたが、高額医療費制度には、診察や検査、手術などにかかる費用も含まれます。診療報酬の妥当性なども十分吟味する必要があります。
いずれにしても、そうした検討なしに、高額薬だけをやり玉にあげるのは、適切ではありません。安易な引き上げで見かけ上のバランスをとっても、近い将来再び破綻の危機を迎えるのではあれば、意味がないのです。
大切な制度を守るためには、国民一人ひとりがお互いを鑑みることが大切です。本当に必要なことにお金が使われているかを注視し、個々人も小さな行動から着実に変えていくことが求められています。
阿部 和穂プロフィール
薬学博士・大学薬学部教授。東京大学薬学部卒業後、同大学院薬学系研究科修士課程修了。東京大学薬学部助手、米国ソーク研究所博士研究員等を経て、現在は武蔵野大学薬学部教授として教鞭をとる。専門である脳科学・医薬分野に関し、新聞・雑誌への寄稿、生涯学習講座や市民大学での講演などを通じ、幅広く情報発信を行っている。(文:阿部 和穂(脳科学者・医薬研究者))