
NBAレジェンズ連載40:レジー・ミラー
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第40回は、プレーオフでは、チームに勝利をもたらす数々の"ミラータイム"を演出してきたレジー・ミラーを紹介する。
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【NBA選手の成功の礎となった姉・シェリル】
レジー・ミラーは、NBAチャンピオンという栄光は掴めなかったが、インディアナ・ペイサーズひと筋で18年間プレーしたシューティングガードだ。201cm、87kgという細身ながらシュート力を武器に通算2万5279点を記録し、1990年代から2000年代のプレーオフで多くのファンの記憶に残るドラマティックな試合の主役となった。
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ミラーはNBA選手として地位を築くまで、常にバスケットボールの殿堂入りを果たしている1歳上の偉大な姉、"シェリルの弟"という代名詞がつきまとっていた。リバーサイド・ポリテクニック高校時代、ミラーはある試合で当時の自己最多得点を記録したが、同じ日にシェリルはカリフォルニア州の高校記録となる1試合105点を奪う。USC(南カリフォルニア大)に進学したシェリルは1983年と1984年のNCAAトーナメント2連覇の原動力になり、アメリカ代表としてロサンゼルス五輪で金メダルを獲得していた。
「人々はいつも家族のなかで誰が一番の選手だったかと尋ねてくる。それは間違いなくシェリルで、私は2番目だった」とミラーが語ったように、若かりし頃は自宅の裏庭にあるコートでシェリルと1対1をしても、まったく勝てない日々が続いた。シェリルは家族が見ている前で、トラッシュトークで侮辱するなどミラーに対して容赦なかったが、その厳しさはミラーがアウトサイドショットを武器にすること、負けず嫌いな性格とメンタルタフネスの構築という点では、NBA選手として活躍するうえでプラスに働いた。
シェリルは、ミラーに1対1で初めて負けたとき、弟がすばらしい選手になる予感がしたという。
姉のライバル校であるUCLA(カリフォルニア大ロサンゼルス校)に進学したミラーは、2年時からシューティングガードのスターターに定着し、1985年のNIT(全米選手権に出場できなかった強豪校による招待大会)ではMVPを獲得。3Pショットが導入される前の1985-86シーズンには、NCAAディビジョンI(1部)全体で4位の平均25.9得点を記録するなど、得点力のあるガードとして認知されるようになった。
1987年のNBAドラフト1巡目11位でペイサーズから指名されたミラーだが、地元ファンはインディアナ大をNCAA制覇に導いたガード、スティーブ・オルフォードの獲得を熱望していた。しかし、ペイサーズのGMドニー・ウォルシュは自信を持ってミラーを指名。その期待に応えるように、NBA1年目はベンチスタートながら平均10.0得点を記録すると、2年目にスターターに定着。3年目には平均24.6点を挙げ、オールスターに選出された。
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【歴史に刻まれたニックス戦でのパフォーマンス】
1990年からペイサーズがプレーオフの常連となると、勝負所で劇的なショットを決める選手へ飛躍し、"ミラータイム"という称号を冠せられるまでになった。なかでも1994年から2年連続で第7戦までもつれたニューヨーク・ニックスとのプレーオフ・シリーズは、輝かしいキャリアの中で最もインパクトがあるものだった。
「ゲームの勝負所になったとき、私は成功する。それが"ミラータイム"だ」
2勝2敗で迎えた1994年のカンファレンス決勝、敵地での第5戦、ミラーは39点中25点を第4クォーター(Q)に奪ってペイサーズを逆転勝利に導き、シリーズ王手をかけた。この時、マジソン・スクエア・ガーデンのコートサイド席からヤジを飛ばしていた映画監督のスパイク・リーに対して、首締めのジェスチャー(ニックスが試合終盤で崩壊するという意味)をしたことで、ニューヨークの公敵(パブリック・エナミー)になっていく。
最終的にはその後2連敗を喫してNBAファイナル進出を逃すことになるが、翌1995年のカンファレンス準決勝第1戦で、ミラーは驚異的な逆転劇を演出する。
試合時間残り18秒でペイサーズが6点ビハインドの状況から、それは始まった。タイムアウト後、ミラーは2秒間で3Pショットを成功させて3点差。その直後、ミラーはニックスのインバウンドパスをスティールし、3Pラインの後ろまでステップしてから3Pを決め、残り13秒で同点に追いつく。その次のプレーではニックスのジョン・スタークスがファウルをもらい、フリースローを放つが、2本とも失敗。そのリバウンドを奪ったミラーが残り7秒でファウルをもらい、そのフリースローを2本決め、勝ち越したのである。
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「次のレベルにたどり着くためには、常にそのチームを倒す必要があった。ニューヨークは我々にとってそんなチームだった」と語ったミラー。試合の最終盤に9秒間で8得点という大逆転劇は、ペイサーズがニックスを撃破するうえで(シリーズは4勝3敗)大きな意味があった。
しかし、ミラーとペイサーズは、NBAチャンピオンシップとの縁に恵まれなかった。ニックスを倒した勢いそのままに臨んだカンファレンス決勝だったが、シャキール・オニール&アンファニー"ペニー"・ハーダウェイを擁したオーランド・マジックに3勝4敗で敗れ去った。
【アンチも含めて多くのファンの記憶に】
翌シーズンからはヘッドコーチがラリー・バード(元ボストン・セルティックスの伝説的選手)に代わり、ミラーとペイサーズの王座への挑戦は続いた。
1998年はマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの3連覇を阻止しようと奮闘し、1勝2敗で迎えた第4戦では残り2.7秒に逆転勝利に導く3Pを決めるなど、第7戦までもつれる激戦の原動力になった。
2000年のプレーオフでは、カンファレンス決勝で宿敵ニックスを4勝2敗で撃破し、ミラーはキャリア13年目でようやくNBAファイナルの舞台に立った。迎えたオニールとコービー・ブライアントを擁するロサンゼルス・レイカーズとの頂上決戦では6試合中4試合で25得点以上をマークするなど奮闘。しかし、チャンピオンシップ獲得という悲願を実現できなかった。
第6戦の第4Qに4得点しか奪えずに終わったミラーは、ペイサーズを勝利に導けなかった悔しさを、こう表現した。
「我々は試合をボクシングのヘビー級の戦いのように想定していた。各クォーターに勝ち、それらをラウンドとして数えたかった。最初の3ラウンドで勝ったけど、最も重要なラウンドで負けたんだ。それが第4ラウンド(4Q)だ」
年齢が30代後半に突入したミラーにとって、2004年のプレーオフはタイトル獲得のラストチャンスだった。ジャーメイン・オニール、ロン・アーテスト、アル・ハリントンといった20代中盤の選手の飛躍もあり、ペイサーズは61勝21敗でイーストの第1シードでプレーオフ出場権を獲得。セルティックスとマイアミ・ヒートを倒してカンファレンス決勝に進出したが、ホームでの第2、5戦を落としてデトロイト・ピストンズに2勝4敗で敗れ、2度目のファイナル進出に至らなかった。
翌シーズンは2004年11月19日のピストンズ戦で起きた大乱闘の影響で、アーテストのシーズン全試合を含む主力が長期出場停止処分を科されてしまう。ペイサーズはなんとか盛り返し、プレーオフではカンファレンス準決勝まで勝ち上がるも、再びピストンズの前に敗退。2005年5月19日、27得点と奮闘した第6戦が、ミラーにとって現役最後の試合になった。
チャンピオンリングをはめることはできなかったが、アンチも含めて多くのファンの記憶に残る選手だったことは間違いない。
ミラーがつけていた背番号31は、ペイサーズとUCLAの両チームで永久欠番となった。1996年のアトランタ五輪ではアメリカ代表として金メダルを獲得し、2012年にバスケットボールの殿堂入りと、シェリル同様の功績を残した。現役引退後は、ケーブルTV局『TNT』の解説者として、現在も活躍している。
【Profile】レジー・ミラー(Reggie Miller)/1965年8月24日生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1987年NBAドラフト1巡目11位指名。
●NBA所属歴:インディアナ・ペイサーズ(1987-88〜2004-05)
●NBAファイナル進出1回(2000)
●主なスタッツリーダー:フリースロー成功率5回(1991、1999、2001、2002、2005)
●五輪代表歴:1996年アトランタ大会(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
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