
連載第39回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、先日史上2度目のアメリカ撃破を果たしたなでしこジャパンの変遷について。レジェンド澤穂希以前にも長い歴史があります。
【2度目の米国戦勝利】
米国で行なわれていた「シービリーブスカップ」で日本女子代表(なでしこジャパン)が3戦全勝で優勝した。豪州、コロンビア相手の2試合連続4得点(とくに、コロンビア戦の谷川萌々子の開始18秒のロングシュート)にもびっくりしたが、最終戦では米国相手に2対1で完勝する姿を見せてもらった。
伝えられているように、米国相手の勝利は13年ぶり2度目のことだ。
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2011年W杯では2度リードを許すが2度とも追いついて引き分けに持ち込み、PK戦で勝利したのが、翌年のロンドン五輪ではやはり決勝で対戦して返り討ちにあい、2015年のW杯決勝では2対5と夢を打ち砕かれた。昨年のパリ五輪準々決勝でも日本は守備を固めて粘ったものの、延長戦で惜敗した。
しかし、今回はついに米国のホームゲームで日本が勝利。内容的にも前からプレスをかけて相手陣内でボールを奪い、そこからしっかりとボールを動かして、日本が90分間優勢に試合を進めた。
古くから女子サッカーを見ている者として、感慨深いものがあった。
実は、日本でも古くから女性たちはフットボールをプレーしていた。
第2次世界大戦前は、小学校は男女共学だったがその後は男女別学で、男子は中等学校、女子は高等女学校に進学するものだった。そして、各地の女学校でフットボールが行なわれていたというのだ。
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単にボールを蹴る運動をするだけの学校もあれば、簡易化したルールで試合を楽しんでいた学校もあるようだが、詳しいことはわかっていない。
また、戦前の強豪チーム「東京蹴球団」(東京高等師範学校などの卒業生によるクラブ)には数名の女性選手が所属していて、ちゃんとフットボールブーツ(昔はくるぶしまで覆う形の靴だったので「ブーツ」と呼んでいた)を履いて本格的にプレーしている様子が、当時のスポーツ雑誌に載っている。
ただ、その後「フットボールは男性的スポーツ」という意識が強くなって、女子サッカーは衰退してしまった。
【戦後の再スタートは1960〜70年代】
再び女子サッカーが脚光を浴び始めたのは、1960年代になってからだ。
とくにサッカー先進地の神戸市では女子チームがいくつか作られ、1967年3月に行なわれた「神戸サッカーカーニバル」では神戸女学院中等部と福住小学校のチームが対戦し、福住小が1対0で勝利。この模様は日本で最も古い専門誌の『サッカーマガジン』にも写真入りで紹介された。
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その後、神戸や東京、静岡を中心に少しずつ女子チームは増えていったが、当時は女子の団体球技ではバレーボールやバスケットボールが盛んで、とくに東京五輪で金メダルを取った女子バレー人気は高かった。
欧州では19世紀から女子サッカーは盛んに行なわれていたようだが、やはり男性優位主義が強まったためか、欧州各国の協会(FA)やFIFAは女子サッカーを認めていなかった。
だが、1960年代から70年代にかけて女性が社会に進出するようになり、スポーツ界でも多くの競技で女子種目が認められるようになった。その象徴が、それまで何の根拠もなしに「女子には過酷すぎる」と信じられていた女子マラソンが、1984年のロサンゼルス五輪から正式種目として採用されたことだ。
こうした流れのなかFIFAもようやく重い腰を上げて普及と発展に動き、日本でも1979年に日本協会傘下に女子サッカー連盟が発足した。
日本の女子サッカーにとっての初めての国際試合は1977年の第2回アジア女子選手権だったが、この大会には単独チームのFCジンナンが代表として出場している。そして、連盟発足後初めて日本女子代表が編成されたのは1981年の第4回アジア女子選手権でのことで、これがJFA公認の最初の国際試合だったが、1勝2敗でグループリーグ敗退に終わった。
同年の9月には、女子代表は日本国内初の国際試合を行なった。神戸で開催されていた「ポートピア81(神戸ポートアイランド博覧会)」記念の国際大会が開催され、日本は神戸でイングランド、東京でイタリアと対戦。0対4、0対9でともに大敗を喫した。
僕が初めて女子代表の試合を観戦したのも、この時のイタリア戦だった。当時、世界最高の女子選手のひとりと言われたエリザベッタ・ビニョットを擁するイタリアに対して、日本代表はとても歯が立たなかった。
アジアでは当時、台湾が圧倒的に強かったが、しばらくすると中国(中華人民共和国)が台頭。1991年には中国の広東省で第1回FIFA女子W杯が開催され、米国で開催された第3回W杯で中国は決勝に進出して米国と対戦。PK戦の末に準優勝に終わっている。
【1990年代からコツコツと進歩】
日本代表は1995年の第2回W杯(スウェーデン大会)のブラジル戦でW杯初勝利を記録したが、やはり欧州、米国の強豪や中国には勝てなかった。
1994年には広島アジア大会が行なわれ、女子サッカーで日本は決勝で中国に0対2で敗れて銀メダルに終わったのだが、当時の感覚では「中国相手に0対2」というのは大善戦だった。
当時活躍していた木岡二葉、半田悦子、野田朱美、高倉麻子などは皆、すばらしいテクニシャンたちで一体感のあるチームではあったが、欧州勢や米国、中国相手にはフィジカル能力で及ばなかった。
日本の女子サッカー人口はまだ微々たるものだったし、アスリート能力が高い女子選手たちは伝統的な女子スポーツであるテニスやバスケット、バレーに流れてしまっていた。
1996年のアトランタ五輪では、28年ぶりに出場した男子代表が王者ブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こしたが、この大会からついに女子サッカーも五輪正式種目となり、日本も出場したが3戦全敗に終わる。
僕は男子を中心に観戦していたので、残念ながら日本女子代表の試合を見ることはできなかったが、優勝した米国の試合は見ることができた。そして、その圧倒的な走力やパワーなどフィジカル能力に愕然としたものだ。
アトランタ五輪でも米国と中国が決勝で対戦した。
中国は、他競技をやっていたアスリート能力の高い選手をサッカーに転向させることで強いチームを作っていた。まだ、世界的な普及度が低い女子サッカーなら、そうした方法で世界一を狙えるからだ。
そんななかでも、日本の女子サッカーは少しずつでも普及と強化を進めていった。1990年代には澤穂希という、技術も戦術もフィジカル能力もメンタル的な強さも兼ね備えた選手が現われ、15歳の時に代表入りして経験を積んでいった。
僕は、2007年に中国で開催されたW杯を観戦に行ったことがある。
中国の古都、杭州で試合があるというので観光がてら見に行ったのだ。日本はイングランドと引き分け、アルゼンチンに勝利したが、最終ドイツ戦に敗れて1勝1分1敗ながらグループ3位で敗退となった。
当時の僕は、まだ女子代表選手のことも全員よく知っているわけではなかったが、宮間あやという当時まだ22歳の若い選手が左右両足から繰り出す正確なキックに驚かされたものだった。
その後、僕は2023年のW杯(豪州・ニュージーランド)も観戦に行ってスペイン相手に4対0で勝利する姿も目撃したのだが、一生の不覚は2011年のドイツ大会を見に行かなかったことだ。
「どちらを見に行こうか」と悩んだ末、同時期にアルゼンチンで開催されたコパ・アメリカを選択したのだった。当時はアルゼンチン滞在中には女子W杯の映像など見られなかったので、文字情報だけで日本の快進撃を追っていた。今となってはそれも懐かしい思い出ではある。
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