幾多の試練も感謝の心で=苦労に裏打ちされた人間力―曽野綾子さん

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2025年03月04日 21:01  時事通信社

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曽野綾子さん=1971年撮影
 両親の不和の下で育ち、遺伝性の近視に悩まされ、「いい小説」を自らに迫るストレスから不眠症やうつに…。デビュー当時は「お嬢さま作家」と呼ばれ、そこはかとなく漂う気品は年齢を重ねても失われなかった。その背後には、カトリック信者らしい「感謝」の心で向き合った試練の数々があった。

 文学活動を始めて間もない1954年に「遠来の客たち」が芥川賞候補に挙がるなど早くから才能を開花させたが、「文学の本当の出発点」はダムや高速道路などの難工事に関わる技術者の生涯を描いた69年の「無名碑」。日本の戦後復興を支えるも、名も残さず死んでいく人生への「賛辞」だった。その作品世界に浸ったことが、不眠症やうつの克服にもつながった。

 以降、人工妊娠中絶の問題を扱った「神の汚れた手」、連続殺人犯の大久保清をモデルに神の存在をテーマにした「天上の青」など、キリスト教を土台にした作品を多数執筆。息子を主人公にした「太郎物語」はNHKでドラマ化もされた。

 しかし、過労がたたって50歳を目前に視力が急激に悪化、一時は連載を取りやめる憂き目に。難手術を経て症状は改善、「視力を頂いた自分を使い切ることが感謝の印」と考えた。念願だったサハラ砂漠の縦断、目の不自由な人たちとの聖地巡礼の旅、日本財団会長としての途上国支援など、精力的に活動の幅を広げた。

 「作家としてやり残したことは、一つもない」。大望は抱かないというモットーが言わしめた言葉だ。何度か求められた大臣就任も「性格に向いていない」と辞退した。晩年、人生指南のエッセーが次々とベストセラーになったのも、苦労に裏打ちされた人間力が共感を呼んだからだろう。 

日本船舶振興会の会長として平和島競艇場の視察に訪れた曽野綾子さん=1995年12月15日、東京都大田区
日本船舶振興会の会長として平和島競艇場の視察に訪れた曽野綾子さん=1995年12月15日、東京都大田区

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