【対談連載】東京国際工科専門職大学 学長 村上憲郎(下)

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2025年03月07日 08:01  BCN+R

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2024.12.6/東京都千代田区のBCNにて
【東京都千代田区発】米Google(グーグル)日本法人の初代社長として白羽の矢が立った村上憲郎さん。日本ディジタルイクイップメント(日本DEC、当時)時代からAIの探求を続けてきた実績があるからだ。Googleで待っていたのは深夜のオンライン世界会議やIPO、YouTube買収などハードで刺激的な日々だった。大学の学長として教える立場になった現在も、中心にあるのは、やはりAIだ。限定的な情報源で成り立っていた第三世代から、インターネットという情報の大海を得て爆発的な進化を続ける第四世代AIを携え、これからも「新鮮な旅人」として、まだまだ「遠くまで行くんだ」と話す。
(本紙主幹・奥田芳恵)

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●突然のYouTube買収劇で電通から裏切り者呼ばわりされた、けれども……

 Googleジャパンの社長になられたのは、確か2003年ですよね。そもそも、どうして村上さんに白羽の矢が立ったのでしょう?

 私も疑問でした。実際、当時CEOだったエリック・シュミットに「なぜ私なんですか?」と聞いたんです。すると「君はAIをやってきたからね」と。「AIと言っても最近のことは分かりませんよ」と返したら、「実を言うと俺も分からない」(笑)と。昔から機械学習やニューラルネットワーク(脳神経の働きを模した学習モデル)というアイデアはあったわけです。それを、トロント大学のジェフリー・ヒントン先生たちがディープラーニングというかたちで実現させつつあったころですね。

 今のような第四世代のAIの開発が本格化するずっと前ですよね。Googleには大いに先見の明があったわけですね。

 Googleは当時からすでにAIをコアコンピタンス(事業の核になる能力)として据えていたんです。Googleのエンジニアもそれをしっかりと理解していました。とはいえ、第四世代のAIがいよいよ花開こうとする、夜明け前です。エリックが分からないと言ったのも無理はありません。

 当時のGoogleジャパンはどれくらいの規模だったんでしょうか。

 社員は10人。渋谷にあるセルリアンタワーの貸しオフィスがスタートでした。

 たった10人!? それでも、将来の可能性を感じておられたわけですか?

 とにかくAIをやる会社だからと勧められただけなんです。歳も歳でしたし、これが最後のお務めだと思って引き受けました。ところが今は3000人規模にまで大きくなりましたからね。

 入社当時は、びっくりするほど激務だったりはしませんでしたか。

 そういうわけでもなかったんですが、時差には苦しめられました。毎週インターナショナルのオペレーション会議、というのがオンラインでありました。日本時間の深夜に。当時の上司は、後にTwitter(現X)の会長も務めることになるオミッド・コーデスタニでした。彼は「ノリオは出なくていいよ」と言ってくれてはいたんです。ところが、議題を見ると重要なものばかり。出ていないと日本の社員に申し訳ない。出ないわけにはいきませんでした。結局、毎月会議のたびにほぼ徹夜を強いられることになりました。

 Google時代は刺激的なことが多かったのでは? YouTubeの買収とか……。

 あれは大変でした。当時、GoogleにもすでにGoogleVideoという同じようなサービスがありました。一方、YouTubeはテレビ番組の違法アップロードが人気を博して大流行。Googleと広告業界、共通の敵がYouTubeだったわけです。そこで電通と結託して、何とか日本だけでもYouTubeをつぶそうと画策していました。ところがある日突然、GoogleがYouTubeを買収してしまったんです。

 電通にしてみれば裏切られたかたちになったわけですね。

 確かに東京本社の局長は苦笑いしながら「裏切り者」なんて言ってました。ところが、YouTubeの最初の広告は、大阪支社による大和ハウスの広告だったんです。さすが電通。懐の深い会社だと思いましたよ。

●米国で得たものAI時代にわれわれが得るべきもの

 少しさかのぼりますが、DEC時代には、しばらく米国にお住まいだったんですよね。

 ボストンにあったDECの人工知能技術センターに転勤を命じられ、家族全員引き連れて渡米しました。ここで集中的にAIに取り組みました。30代半ばです。5年間いました。住んでいたのは人口が7000人ぐらいのリンカーンというボストン郊外の小さなタウンでした。

 単身で赴任することは考えなかったんですか?

 行くなら家族でと決めていましたから。妻と子ども2人の4人でした。一緒に行って本当に良かったと思います。子どもたちはバイリンガルになれましたし。長男は幼稚園でしたから英語が一番うまくなりましたね。長女は、日本で中高一貫校に入学することになっていました。ちょうど入学金を払ったところに転勤命令です。心の中で「入学金を払う前に言えよ」と思いましたよ(笑)。長女は長女で英語には苦労したらしく、後に「最初は授業を受けていても、ヒストリーなのかサイエンスなのかすらまったく分からなかった」と言っていました。それから5年後に、なんとかハーバード大学に入りましたけれど。

 とても努力されたんですね。

 彼女はピアノが得意で、縁あってボストンシンフォニーでピアノコンチェルトを弾くまでになっていたんです。その経歴も後押しになって推薦をいただいたおかげでハーバード大学に入れたんですよ。

 現在の村上さんは、大学での講義など教える立場にもあると思うのですが、不確実性の時代と言われる今、私たちはどんな力をつけていかなければならないんでしょうか。

 長女が米国の中学校で学んでいた頃、彼女から「歴史の授業で南北戦争の、事細かいところまで延々とやり続けている」と言われたんです。そこで、父兄参観の際、先生に「南北戦争のことをずっとやっているようですが、これでいいんですか?」と聞いてみました。すると「今後、歴史的な事柄を探求したいと思った時に、どうやればいいか、考察の方法を教えているんです。これさえ学んでおけば、どのような国のどのような歴史であっても当てはまります」と明かしてくれました。音を立てて目からウロコが落ちました。

 新しい形態の大学にも深く関わっておられるとか。

 24年の4月から、東京国際工科専門職大学の学長を務めています。今までの大学はアカデミアが主軸でした。ただ、手に職がつくかというと必ずしもそうではない。その部分は専門学校で、ということになっていました。専門職大学というのはそれら両輪を備えた大学です。1学年200人で情報工学科とデジタルエンタテインメント学科の二つだけ。IoTやAI、ロボット、ゲーム、CGなどを学びます。そして全員が必修科目として勉強するのがAIです。

 もはやAIはすべての人にとって必修科目になるんでしょうね。村上さんご自身は、これからどんな人生を送ろうとなさっているんですか?

 それはもう「我等いつも新鮮な旅人、遠くまで行くんだ!」ですね。

●こぼれ話

 村上憲郎さんの名前が初めて週刊BCNに登場したのは2002年1月。ドーセントの社長を務めておられたときである。その後、Googleジャパンの社長に就任されたときも、KeyPersonとしてインタビューさせていただいた。弊社創業者である奥田喜久男との出会いで言えば、1986年にさかのぼる。BCN(当時はコンピュータ・ニュース社)を創業してまだ5年くらいの頃からのつき合いということだ。創業者の奥田は、村上さんの著書である「村上式シンプル英語勉強法」を購入し、勉強したのだそう。何度も英語教材を買ったという奥田が、シンプル英語勉強法でどれだけ英語を習得したか、今は確認のしようがないが…。

 PCが家庭に普及し、その後インターネットが登場。人々の暮らしとビジネスの仕方がどんどん変わっていった刺激的な時代の真ん中で、躍動してこられた村上さん。IT業界で長く活躍されている村上さんが「いつも新鮮な旅人」だと表現されるものだから、「いったいどこまで行くつもり!?」と驚きを隠せない。目標があれば、旅は終わる。村上さんの場合、終わりを定めない永遠の旅だ。気力、体力、好奇心がエネルギーといったところだろうか。

 AIの普及はすべての会社が潰れるくらいのインパクトがあると述べられた村上さん。人類は、いよいよ働かなくても良くなるとも。AIは労働者のパートナーとなり、どんどん仕事をシンプル化してくれる。少しの労働時間で今までと同じ成果を得ることも可能となる。では新たに生み出された時間で、われわれは何をするのか。自分たちが持っている特殊な能力や価値に向き合い、考えることを迫られている。まさにBCN2.0とは何か、を問われているようだ。

 「ねぇねぇ。労働から解放されたらどうする?」社員に聞いてみた。「良いですね。やりたい事をやって過ごしますよ! でもお金どうしましょう…。」「んー。誰かがくれる?」人類史を画する大変革。想像と妄想が入り交じる。(奥田芳恵)

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

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