
旗手怜央の欧州フットボール日記 第34回
リーグ4連覇、国内カップ3連覇に向け邁進しているセルティックの旗手怜央。今回は惜しくも敗れたひと月前のバイエルンとのチャンピオンズリーグプレーオフを振り返った。
【バイエルンに敗れた悔しさ】
試合終了の笛を聞き、涙がにじんだのは、やっぱり悔しさを抱いたからだ。
セルティックはプレーオフでバイエルンに敗れて、今シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ(CL)での戦いが終わった。バイエルンをはじめ、勝ち上がったチームはすでにラウンド16を戦ったが、対戦カードを見れば見るほど、さらに先の景色が見たかったと強く思う。今季決勝の地が、夢が潰えたフースバル・アレーナ・ミュンヘン(アリアンツ・アレーナ)だったと考えると、なおさら悔しさが込み上げてくる。
同時に、このレベルの選手たちと、互角以上に戦える力を身につけなければいけない――そうした思いが溢れたからにじんだ涙でもあった。
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プレーオフで対戦したバイエルンとは、ホームの第1戦を1−2、アウェーの第2戦を1−1で終えた。2試合合計のスコアは2−3。結果だけを見れば接戦に見えるかもしれないし、強豪相手に善戦したと思われるかもしれない。しかし、ここまで勝ち上がるために、チームとしても、個人としても多くを犠牲にしてきただけに、余計に勝てなかったことへの悔しさは募った。
例えば、チームのために自分のやりたいプレーを押し殺したり、勝つために本当は受けたい位置でボールを受けることを選択できなかった(もしくは、あえてしなかった)など、勝ち上がるための犠牲や我慢も多々あったからだ。それは自分だけでなく、チームの全員が同じだろう。
今季は、日本代表として臨んでいるW杯最終予選で、ベンチ入りすら叶わず、もどかしさを抱いた時期もあったが、それはピッチ外で味わった悔しさ。バイエルン戦は2試合ともに90分間、ピッチに立ち続けていただけに、選手として味わうことができた純粋な悔しさだった。
【改めて勝敗は細部に宿ることを実感】
1−2で敗れた第1戦。ホームで戦える地の利があったにもかかわらず、僕らセルティックは、試合立ち上がりから受け身になってしまった。そのため、守備に追われる時間帯が長くなり、チームとして前進できない展開に陥った。
それでも0−2の劣勢のなか、ラスト20分間では、相手の攻撃をしのぎつつ、自分たちが持てるすべてを出しきり、追いつこうとするアクションを起こせた手応えはあった。その姿勢は、(前田)大然が決めた79分のゴールにも表われていた。
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アウェーで戦ったプレーオフ第2戦も、63分にカウンターからニコラス・キューンがゴールを決めて先制点を奪ったが、アディショナルタイムに失点を許したのは、チームとしても、個人としても、決して小さくはない差があったからだ。
ひと言で表すとすれば、それはディテール(詳細)の差と言えるだろう。
例えば第1戦でマイケル・オリーセに決められた45分の得点は、シュートを打たれる前に食い止めることはできなかったのか。例えば、49分にハリー・ケインにボレーを叩き込まれた場面では、相手のエースをフリーにしない選択や判断を取れなかったのか。
第2戦のアディショナルタイムに喫した失点にしても、自分たちがまだ戦える意欲があっただけに、時間帯や状況を鑑みて、チームとしての戦い方を徹底することはできなかったのか。勢いを持って試合に臨んだ第2戦については、前半に決定機がいくつもあっただけに、そこを確実に決めきっていれば、試合終盤の失点も、その失点の影響も受けずに戦えたのではないか......。
試合に負けた今、すべては「たられば」になってしまうが、そうした「たられば」につながる理由こそが、結果に影響するし、直結する。バイエルンは、そうした隙を見逃さなかったし、確実に仕留めにくるチームだった。
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以前からディテールの重要性については身に染みて感じていたが、改めて勝敗は、細部に宿ることを実感した。細かいことの徹底や、小さなプロセスの積み重ねによって、勝利は決まるし、小さな行動や行為が大きな結果を生む。
【キミッヒとの180分】
一方、試合に負けた分際で何を言っているんだと思われるかもしれないけど、個人的には選手として充実した180分間だった。
4−3−3の左インサイドハーフで出場した自分は、180分間を通して、相手のボランチであるヨシュア・キミッヒににらまれ続けた。
バイエルンと対戦するに当たって、第1戦の直前に戦っていたブンデスリーガでのブレーメン戦や、第2戦の直前に戦っていたレバークーゼン戦を見て、イメージを膨らませていた。その試合を見る限りでは、バイエルンが誰かをマンマークするといったケースは見られなかった。
そのため、自分をそこまで警戒してくることはないだろうと思っていたが、第1戦がキックオフしてすぐにキミッヒと対峙して、「これはマンマークでつかれるな」と理解した。
それからの180分間は、キミッヒとの戦いでもあった。自分が動いたら、キミッヒはどこまでついてくるのだろうか。また、どこでボールを受けたら、キミッヒのマークをかいくぐれるのだろうか。その駆け引きと、だまし合い、化かし合いの連続は、レアル・マドリードと対戦した時にルカ・モドリッチと対峙して感じたのと同じく、選手として燃える気持ちやワクワク感になった。
マークされて感じたキミッヒの嫌らしさは、(相手の)攻撃時は自分がプレスを掛けられないところにポジションを移動させる巧みさだった。こちらがチームとしてプレスを掛けにくい位置を見つけ出し、そこにスーッと入っていきボールを受ける嫌らしさがあった。
プレスを掛けたくても、チームとしての約束ごとや決まりごとがあるため、プレスにいきにくく、対応の難しさを感じた。それはまるで、「ここだと、お前はプレスに来られないだろ? わかっているぞ」と言わんばかりだった。
また、キミッヒのマークを回避して自分がボールを持った時は、自分が前進したいスペースをうまく消された。たとえ、パスを出せたとしても、さらに次の局面でボールを受けようとする位置を埋められ、自分が攻撃に関われないようにされる巧さがあった。
あとは、当たり前のことだが、よく走る選手だった。自分自身、第1戦も第2戦も13km以上は走っていたが、彼の運動量や走行距離はそれ以上なのではないか。そう思うほど、ありとあらゆる局面に顔を出していた。セカンドボールへの反応も速く、マッチアップしたからこそ、選手としての賢さを感じた。
そのキミッヒをいかにして欺こうと、ああでもない、こうでもないと試行錯誤した180分間は、選手として刺激的で、ある意味、至福の時間だった。
プレーオフ2試合を通じてキミッヒににらまれ続け、全く自分らしさが出せなかったかというと、決してそうはならなかった。シュートを打った場面や、決定機につながるパスを出せた場面もあるなど、チームの攻撃に絡み、チャンスにつながるシーンをいくつも作り出せた。
この距離間ならば自分のプレーができる。このあたりではフリーになれる。キミッヒの動きを視野に入れながら、そうした感覚をつかめた機会は、自分としても今後につながる貴重な時間になった。
ただし、これをいい経験として終わらせてしまうのは違うと思っている。できた部分があった一方で、できなかった部分に目を向け、改善していくことで、今回の経験も生きてくると思っている。
【マンマークにつかれても手に負えない選手に】
これはバイエルン戦だけに限った話ではないが、今季のCLでは、多くのチームからマンマークに近い状況でマークに遭い、警戒された。
相手から警戒されるということは、得点につながる決定的な仕事をする選手として認められていることでもある。自分が、そうした存在になれている事実に成長も実感できた。
一方で、相手ににらまれた状態で、自分に何ができるか。これが今後の課題になる。相手にとってマンマークをつければ「OK」な選手ではなく、マンマークをつけてもなお、手に負えない選手にならなければいけない。
今季からCLは大会のフォーマットが変わり、10試合を戦うことができた。セルティックとしては、国内では強さを見せつけているものの、外(欧州)に出ると勝てないと言われて続けてきた。大然とも、そうした現状に「悔しい」「見返したい」と話してきただけに、リーグフェーズを突破して、ノックアウトフェーズに進めたことは、チームとしても、個人としてもひとつ成長したと言えるだろう。
前進した手応えとともに、次なる課題を見つめながら、再び日々の練習や試合に向き合っていきたい。
後編「旗手怜央が今季実践しているコンディショニング」につづく>>
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