
和田毅インタビュー(中編)
日米通算165勝を挙げた和田毅。プロ1年目での胴上げ投手、ライバルたちとの激闘、そしてアメリカでの挑戦。22年間の現役生活を振り返りながら、引退後の心境、そして新たな人生への思いを語った。
【印象に残る強打者たち】
── プロ野球選手として日米22年間、通算165勝の白星を積み重ねてきました。思い出深い試合や場面を挙げるとすれば?
和田 本当にたくさんあります。やはりプロ1年目の2003年、日本シリーズの第7戦に先発させてもらって完投勝利をして胴上げ投手になったのは一番目に頭に浮かびます。だって、ルーキーが第7戦で完投なんて、今の時代ではありえないじゃないですか。本当に光栄なことです。
ほかにも2009年、秋山(幸二)監督になって最初のシーズンの開幕投手を務めさせてもらったのもそうだし、アメリカから戻ってからも2017年に4度目の開幕投手で投げた試合も覚えています。左肩痛があって2019年に651日ぶりに白星を挙げた試合も忘れられない1試合だし、2020年のリーグ優勝を決めた試合で先発したのも思い出です。リーグ優勝決定試合で投げたのは初めてだったので。
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── ものすごい記憶力ですね!
和田 けっこう覚えていますよ。日本ハム戦に先発して、1−0で勝っていた9回2アウトの場面で小笠原(道大)さんにライトへ大飛球を打たれてヒヤッとした試合とか。
── えーと、2006年9月6日の当時ヤフードームの試合ですね。
和田 9回2アウトランナーなし。たしか真っすぐだったと思いますが、小笠原さんにガツンと打たれたんです。打った瞬間、打席でぴょんと跳ねたんですよ。「うわー、いかれた、1−1の同点だ......」と思ったらライトがフェンス際で捕ってくれたんです。
当時はホームランテラスがなかったので。今ならば100%ホームランですけど、もうあの完封の瞬間はうれしくて「っしゃー!」と声をあげてガッツポーズをしました。あの年は3完封して、完投も6つ記録したんです。そういえば2008年などは完投3つでしたけど、延長10回まで投げた試合が3度もあったんですよね。
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── 対戦相手で印象に残っている選手はどうですか?
和田 さっきの小笠原さんはもちろん、カブレラ、中村ノリ(紀洋)さん。山崎武司さんもそうですね。同級生ともたくさん対戦できたし、それこそ日本ハム時代の大谷翔平くんとも対戦しましたからね。挙げればキリがないですが、僕が若かった頃のパ・リーグには各球団にすごいバッターが必ずひとりはいた印象です。さっき挙げていないロッテならば福浦(和也)さんも。必ず打率3割を打つとか、規格外のパワーを持つ打者とか。かなり打たれもしましたけど、そんな人たちと真っ向勝負をしてきたなというのは心に残っています。
── 昭和55年度生まれの同級生の存在もやはり大きかったのですね。
和田 松坂世代と呼ばれて大学生の頃から注目もしてもらえたし、そのなかでNPBでは最後のひとりとして現役を続けられたのは誇りでもあります。
【城島健司からの叱責】
── 和田さんは大卒でプロ入り。松坂大輔さんやホークスでもエースの座を競った杉内俊哉さんは先にプロの世界で活躍されていましたが、そんな彼らに負けてなるものかという気概が物凄かったという風に見ていました。
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和田 そうですね。(松坂)大輔には実力では及ばないかもしれないとかは重々承知のうえでしたけど、対戦する時は絶対に負けたくないという気持ちでマウンドに上がっていました。スギ(杉内)は同じ左腕だし、背格好も似ていてスピードも持ち球もほぼ一緒。あれほど刺激となるチームメイトはほかにいませんでした。
── ところで、若手時代には当時ホークスの先輩だった城島健司捕手に叱られたことがあるとか?
和田 それもよく覚えています。プロ2年目のある試合で、序盤からボコボコにされてしまったんです。たしかに調子が悪くて、途中から「今日は負けちゃうな」「仕方ないな」と思いながら投げていたんです。力を抜くとかじゃないけど、「次、頑張ればいいや」と。それを、バッテリーを組んでいた城島さんに見抜かれたんです。
「ボールに気持ちが入っていないじゃないか。今日しか来られないファンとか、もしかしたら一生に1回のプロ野球観戦のファンだっているかもしれない。そんなファンに対しておまえはそんなピッチングをしていいのか」と。その言葉に「ハッ」となりました。ファンの人を思ってプレーをする。それがプロ野球なんだ。自分がどんな状態であれマウンドに立っている以上は、全力で相手に立ち向かっていく。その姿を常に見てもらうのがプロなのだというのを教わったんです。
── いいお話ですね。
和田 ただ、また違った話になりますが、アメリカに行く前の僕(2012年〜2015年まで米球界でプレー)は、どうやればメジャーに行けるか、そればかりを考えていました。悪く言えば自分本位。チームメイトと食事に出かけることも3年目あたりからはしなくなりました。周りとの関係性を築くことよりも自分の体調管理が優先。すべて自分が一番でした。
── ベテランになってからの和田さんとは、まるで別人ですね。
和田 実際にアメリカに行って、そこで得た経験が大きいです。特に向こうですぐにケガ(2012年にトミー・ジョン手術)をしたこともあり、マイナーの時期も長かった。若い選手たちが一生懸命頑張る姿を直で見たり、裏方さんの大変さもすごく身に染みましたし......。その後はメジャーリーグも経験させてもらいましたが、メジャーの待遇のすごさを知ることで余計に自分がどれだけの周りの人たちのサポートや思いによって野球をやれているかよくわかりました。
また、異国で戦うこともそうです。通訳がいたとしても違った環境のなかで活躍するのは大変なこと。日本にやってくる外国人選手の気持ちも理解できるようになりました。本当にいろいろな勉強をさせてもらった4年間でした。僕が一番変わったとすれば、周りの人たちの気持ちを汲み取れるようにはなれたところかなと思います。
【引退後の心境と新たな挑戦】
── 引退会見でも多くの感謝を何度も口にしました。いま、野球選手ではなくなった人生を歩み始めましたが、寂しさなどはありませんか?
和田 いやー、まったくないです(笑)。だってやりきりましたから。朝起きて何も心配しなくていい。引退してしばらくはまったく運動もしなかったので、筋肉がどんどん減って、XLだったジャージのサイズがLになりました。こんなに簡単に落ちちゃうんだとびっくりしましたけど、ちょっとだけ走ってみたら下半身はまたパンプアップというかしっかり張りが出たんです。ずっと体を動かしてきた人は筋肉メモリーが体の中に残っているので回復も早いとか。3月15日の引退試合では、せめてホームベースに届くピッチングはお見せしないといけないので(笑)。
── 1月は毎年恒例の『和田塾』(自主トレ)も行なっていましたよね。
和田 僕は何にもしてないですから(笑)。昨年のシーズン中に何人かの選手から「来年もよろしくお願いします」と頼まれていて。ただ、僕は引退するのを隠していたじゃないですか。だから断るわけにもいかずに「いいよ」と返事をしていたので、開催しないわけにはいかなかったんです(笑)。『和田塾』はもうおしまい。ただ、長崎で続けてくれるならばと思って、参加してくれていた大学の後輩でもある小島(和哉=ロッテ)とか大竹(耕太郎=阪神)にホテルの方とか食事先のお店の方とかを紹介しました。
── 今後やりたいことは見つかりましたか?
和田 まずはいろいろ経験して勉強したいです。たとえば、これまでもプロ野球のオフ期間はイベントとか出させてもらったことはありましたけど、シーズン中に世の中ではどのようなことが行なわれているか何も知らずに生きてきましたから。野球場にしても、ファンの人たちはどんな風に試合を楽しんでいるのか見る機会もあまりありませんした。
今までできなかったお仕事をする機会も多くなります。そのようなことを経験しながら、もしかしたら野球の現場が楽しかったなと感じることがあるかもしれません。とにかく、何事もチャレンジしなければ気づくことができないので、まずはやってみること。そのなかでワクワクする人生を歩めたらいいなと思います。
つづく
和田毅(わだ・つよし)/1981年2月21日生まれ。浜田高から早稲田大に進み、2002年 にドラフト自由枠で福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)に入団。1年目から14勝をマークして新人王を獲得。以降、5年連続2ケタ勝利を達成。10年に17勝を挙げ、最多勝を獲得し、7年ぶりのリーグ制覇に貢献。11年オフに海外FA権を行使し、ボルチモア・オリオールズへ移籍するも、開幕直前に左ヒジを手術。14年にシカゴ・カブスに移籍し、メジャー初登板を果たす。15年オフに日本球界復帰を決断し、16年より再びホークスに所属。復帰1年目から最多勝、最高勝率のタイトルを獲得した。24年のシーズン終了後、現役引退を発表した