「和田アキ子の仕事をすっぽかし」借金を繰り返した『5時に夢中!』の破天荒アナの“素顔”

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2025年03月22日 16:00  週刊女性PRIME

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フリーアナウンサー『5時に夢中!』MC・垣花正(53)撮影/伊藤和幸

「◯月◯日◯曜日、時刻は8時になりました。おはようございます、垣花正です」

 月〜木曜の朝8時、この挨拶とともに始まるのが、個性的なコメンテーターやゲストとともに最新のニュースや話題を取り上げ、専門家による解説を交えた情報を届けるラジオ番組『垣花正 あなたとハッピー!』(ニッポン放送)だ。この番組で一日が始まるという方も多いだろう。パーソナリティーを務めるのは、フリーアナウンサーの垣花正だ。

「ニュース番組=堅苦しいではなくて、雑談しながらめちゃくちゃ芯を食ったことや踏み込んだことを言ってるな、自分たちの生活に関わることって意外とニュースの中にあるな、ということがリスナーに伝わる番組がいちばん理想と思っているんです」

 2007年にスタートした『あなたとハッピー!』の番組ホームページには《月〜木曜日はふつーの男・沖縄県宮古島出身の垣花正が担当!》とある。しかし垣花が歩んできた人生はなかなか普通とは言い難い、数多くの失敗や紆余曲折を経ている。

半年間、見続けた『紅白歌合戦』

 垣花は1972年1月1日、沖縄県平良市(現・宮古島市)で両親共に教師の家庭の長男として生まれた。名前の「正」は正月生まれであることが由来だが、実はそれ以外にも意味が込められているという。

「子どものころに『正月生まれだから正って単純だ』と言ったら、父が『正は一が5つある字なんだ』と。僕が生まれたのが年がかわってすぐの1月1日の深夜1時過ぎで、第1子で、病室が1号室だったことが理由なんだそうです……後づけだと思いますが(笑)」

 垣花は沖縄本島から南西に約300キロ離れた宮古島で、高校を卒業する18歳まで育った。

「うちでは親戚がよく集まっていたんですよ。大人たちは車座になって泡盛飲んで、踊って、子どもたちは別室に集まって騒いだりするんですけど、そこで僕は親戚の子を相手に、テレビのクイズ番組の司会のまねごとをしていたんです」

 当時、宮古島で視聴できたテレビ局はNHKのみ、ラジオはNHKとTBS系の琉球放送だけだった。

「だから小学生の僕にとってこの世でいちばん面白い人が、NHKの鈴木健二アナだったんです(笑)。あとは松平定知アナとか宮本隆治アナも好きでしたね。本当、『紅白歌合戦』なんて、録画して半年くらい見続けるものだったんですよ」

 夏休みには沖縄本島に住む親戚の家に集まって過ごすのが垣花家の恒例行事で、宮古島では映らない民放のテレビ番組を見るのが楽しみだったという。

「いとこたちが土曜の夜に『8時だョ!全員集合』を見るか『オレたちひょうきん族』を見るかで言い争いをしていて、“チャンネル争い”というものがあるのかと驚きました」

 また小学5年生のとき、沖縄の小・中学生が東京などで取材活動や交流を体験できる「沖縄豆記者交歓会」に参加したことが心に残っているという。

「国会議事堂や後楽園球場を見学するだけじゃなくて、江川卓選手や原辰徳選手にインタビューさせてもらったり、軽井沢で当時の皇太子殿下、今の天皇陛下の前で沖縄民謡を歌ったりもしました。『宮古島はどんなところですか』とお尋ねになる時間もあったりして。この経験が結構大きくて、僕の中でマスコミに触れる初めての体験でしたね」

 中学生になるとラジオ放送も聴き始め、発売日から遅れて宮古島へと届けられる雑誌も読むようになる。

「すると、どうやら東京や大阪にはテレビ局やラジオ局がたくさんあるらしいと、キー局の存在に気づくんです。そうやって意識が変わっていくと、見たいとか聴きたいが『東京行きたい』にダイレクトにつながっちゃったんですね。中2ぐらいからかな、もう、とにかく東京に行くためにはどうしたらいいかって考え始めました」

 宮古島を出なければと思った垣花は、沖縄本島の高校へ進学したいと両親に交渉した。

「毎日プレゼンして、夜な夜な相談したんですけど、毎回最後に『どうせ大学進学で家を出てしまうのであれば、あと3年だけは親元にいてくれ』と母親に泣かれて。あちゃー、と思いましたね」

 1987年、両親の母校でもある島内の宮古高校へ入学、大学進学について思案する垣花は、通っていた書店で大学受験情報誌『螢雪時代』を発見、自己推薦入試の存在を知る。

「もう僕にはこれしかない!と思いましたね。雑誌には合格者50人ほどの経歴が掲載されていました。運動部の全国大会優勝者もいるけど、文化的なことで合格している人もいて、これはいろんな実績を認めるんだなというのがわかったんです」

 実績をつくろうと考えた垣花は、すぐに放送部へ入部。すると友人らと制作したラジオドラマがNHK放送コンクールの沖縄県大会で優秀賞を獲得し、全国大会へ進出した。

「結果発表は渋谷のNHKホールでやったんですけど、入賞はできませんでした。そのあと自由時間があったので、『今日は思い切ってバラバラに行動しよう』となって、僕は渋谷を歩いたんです。それまで豆記者や家族と一緒に東京へは行ってましたけど、ひとりは初めてで。

 田舎者だって思われないようガチガチに緊張しながら、マクドナルドでハンバーガーを買って食べたんですけど、もうたまらんと思って、泊まっていた赤坂のホテルに帰ろうとしたら、勘違いして浅草へ行って迷子になりました(笑)。渋谷の道行く人全員が芸能人に見えましたね。あれは緊張したな〜!」

宮古島から東京へ

 自己推薦入試で早稲田大学を受験するという話には、両親も学校の先生も「何を考えてるんだ?」となったと言う垣花。

「受かるわけないだろう、と思われてましたね(笑)。でも僕は自信満々で、受かる以外は考えていませんでした。試験の面接でも僕がいちばん声がデカいな、とか謎の自信持ってましたから」

 結果は見事、合格。宮古島から早稲田大学への進学者は30年以上ぶりということで、地元の新聞社3社が取材に来たという。そして1990年、大学進学のため宮古島を離れた。

「当時、米米CLUBの『浪漫飛行』がJALのキャンペーンソングで、音楽にノリながらウキウキで上京しました。母と高田馬場の駅で『タムって駅はどうやって行ったらいいんですか?』と周りの人に聞いて、田無は“タナシ”と読むんだと教えてもらって(笑)」

 都下の田無市(現・西東京市)にある早稲田大学の寮に入った垣花は、大学4年間をここで過ごした。

「楽しかったですね。宮古島から上京した自分にはツテが何もなかったんですけど、寮に入ったらイベントが立て続けにあって、どんどん周囲と仲良くなっていきました。

 ただ、体育会のような縦社会だったんで、先輩に叱られたりもしましたけど、いろいろ叩き込まれて寮になじんでいくのと同時に、東京になんとなく居場所ができる感じでした」

 いくつかのサークルに顔を出してみたもののしっくりこなかった垣花は、大学2年のときに萩本欽一が後進育成のために立ち上げた欽ちゃん劇団のオーディションを受験、ここでも見事合格し、1期生として入団する。劇団の旗揚げ公演では後にお笑いコンビ『あさりど』を結成する堀口文宏、川本成らとともに選出され、舞台に立った。

「中高生のときに情報がなくて、しかもミーハーだから、東京に行きたいのと同時にテレビに出てみたいという気持ちもあったんですよね。それで上京してから素人参加型テレビ番組に出たりしていたんです。アナウンサーもテレビに出る仕事だからと早稲田のアナウンス研究会にも行ったんですけど、発声練習とか腹式呼吸が遠回りに見えて、すぐに行かなくなってしまって。

 自分は面白いことをやりたいという勘違いから始まっているので、なんか違うな、まじめなことやってんな、と思っちゃったんですよね」

 そんな気持ちから欽ちゃん劇団の門を叩いた垣花だったが、そのまま将来が不安定な芸人になるコースが見えた途端、怖くなったという。

「どう考えても周りに自分より面白い人がいっぱいいましたから、お笑いでもないし、ましてやミュージシャンや役者でもない……僕の中にそういうサンプルがなかったんですよ。それこそ10代で見ていたNHKのアナウンサーしか“人前に出る”というサンプルがなかった。それで『すいません。大学に戻ってもう一度考え直します』と手紙を書いて、逃げました」

 大学3年になった垣花は就職活動を開始、やはり昔から憧れたアナウンサーになろうとアナウンススクールに通い始める。

「自己推薦で東京に来られたという成功体験があるから、面接に強いという自信があって。なんといっても僕にはあの欽ちゃんから直々に教わった経験がありますからね、これは使えるなと(笑)。そうやって抜け道を探すのって、高校生のときから変わってないんです」

 就職活動は予想以上にうまくいき、2社目に受けたフジテレビでは最終面接までこぎ着けた。

「それで『いけるじゃん!』と思って。同時進行していたニッポン放送でも最終面接までいって、当時の社長の前で靴をマイク代わりにして桑田佳祐さんの歌まねをやったんですよ。自分ではウケると思っていたんですけど、『あんまり似てないね』と言われてしまって(笑)」

 それが功を奏したのか、垣花は内定を獲得。「東京の放送局だったらどこでもよかったし、内定は早ければ早いほどうれしかった」ため、就職活動を早々に終えた。

「同じアナウンススクールに、後にNHKに入って『のど自慢』の司会で大活躍する小田切千アナがいたんです。彼は民放全滅で相談を受けたんですけど、もう僕は早々に内定をもらってますからね、得意げに『大丈夫だよ、千!』なんて励まして。今考えると……恥ずかしいですね」

暗黒の新入社員時代

 1994年、大学を卒業した垣花はニッポン放送へアナウンサーとして入社する。垣花と同期入社のイイジマさんは「垣花の入社式での挨拶がとても素晴らしくて、同期の僕らはもちろん、人事の人も感心するほどでした」と語る。

 ところが入社後、これまでの方法論がまったく通用せず、大きな壁にぶち当たることになる。

「大学合格あたりから入社ぐらいまでは結構ノリノリで、完全に天狗野郎なんですよ。狙ったとおりアナウンサーになって意気揚々とニッポン放送に入ったんですけど、自分がやってたことは友達の前でただふざけていただけだったことに気づかされるんです」

 新人研修では沖縄のアクセントが抜けず、ニュース原稿もうまく読めなくて叱られてばかりだった。

「同期の川野良子アナは最初からニュースは読めるし、滑舌いいし、社会人としてちゃんとしていて。それを見て『優等生が!』と思ってましたが……自分がダメなだけでした(笑)」

 ニュースが読めないなら、と入社後半年で任された『オールナイトニッポン』では、ろくにしゃべれず、聴取率調査では測定不能(誰も聴いていない)となってしまう。

「話すネタがないので、ディレクターからネタを作ってこいと言われて、仕事に遅刻したこととか、ギャンブルや夜の街での失敗談を話したりして。それくらいしかウケないんですよ」

 垣花はこのころから競馬にハマり始めた。

「『日曜競馬ニッポン』という番組があったので、自分も買ってみようかなと思ったらいきなり万馬券を当ててしまって。『こんな楽勝な世界があるんだ』って。仕事がうまくいかないストレスもあって、もう、そこから泥沼。借金生活の始まりです」

『オールナイトニッポン』の担当は1年で終了。その後、新番組『ゲルゲットショッキングセンター』でモヒカンにサングラス姿となって“LFクールK”を名乗り、体当たりロケへ出かけたり、テリー伊藤の番組でも過激なチャレンジや危険なリポート中継を繰り返し、破天荒アナへの道を突き進んでいく。さらには和田アキ子の番組で、初めての中継仕事の際に寝坊して遅刻、安室奈美恵さんのインタビューの日にちを間違えてすっぽかしたりなど、とんでもない失敗も続いた。

「アッコさんのときは間に入ってくれた方がいて、謝り倒して許していただきましたが、さすがに安室ちゃんのときは謹慎処分になって、部長から『進退伺を書け』と言われました。でもそれが何かわからなくて『進退伺って、何ですか?』と聞いたら『おまえは本当にクビだ!』と、みんなの前で怒鳴られました」

 失敗続きで叱られていたものの、それを「面白い」と使ってくれる人がいる社風だったからこそ、アナウンサーを続けられたと垣花は言う。

「みんなでふざけたことや楽しいことをするのはやりたかったことだし、それがアナウンサー職でできるのがニッポン放送だったんです。もし他局でアナウンサーになっていたら、もっとちゃんとアクセント矯正されたり、ニュース読みの教育をされたでしょうから、いずれ楽しくなくなって、アナウンサーを辞めていたかもしれません」

 一方、競馬での借金は雪だるま式に増え、数百万円にまでふくれ上がっていた。周囲の人やイイジマさんに何度も「これが最後!」と頼み込んでは借金を繰り返していたが、もうこれ以上借金できない状態となり、さらには銀行で借金をまとめるローンの審査で断られたこともあって、イイジマさんが借金を肩代わりすることになったという。

「垣花に聞いてみたら利子しか返してない状態だったので、『借用書を持って高田馬場の喫茶店に集合』と言って呼び出して。垣花は『競馬って、儲かるんですよ』とよく言ってましたけどね(笑)。一度『今日は絶対に勝てる』と垣花が言うので、一緒に競馬に行ったことがあるんですけど、垣花は10万円単位で一点買いするんですよ。その馬券を持ってレースを見てると、怖くてなんか変な声が出ましたね」

 返済は毎月の給料を生活費と借金返済に分けて垣花の2つの口座へ振り込み、返済用の口座をイイジマさんが管理することでコツコツと(ときどき借金もしながら)返済し、数年かかって完済した。

盟友・森永卓郎さんとの出会い

 '01年から『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』で和田のアシスタントを務め、'02年にはリポートの腕を買われてソルトレークシティー冬季五輪の中継を担当、そして'03年には『オールナイトニッポン』以来となる冠番組『垣花正のニュースわかんない!?』がスタートした。このときに初めてコンビを組んだのが経済アナリストの森永卓郎さんだった。昨年、出版した垣花の著書『人は出会いが100%』のインタビューで、森永さんはかつて「カッキーは守備の名手で、ヘンな人を隣に置くと光る人」と評している。

「変わった人を面白がるし、破綻してる部分をすごい好きになっちゃうんです。それは自分が猛獣として扱われていた経験が20代のころにあったから、枠に収まりきれてない部分を愛おしく感じるんです。

 自分がそうやって助けてもらったから、というのがあるんでしょうかね。このころはちょうど入社して10年目ぐらい、それまでの状況からガラガラッと変わりました」

 わかりやすくニュースを解説する森永さんに激しくツッコむスタイルで手応えをつかむものの、番組は終了。絶妙のコンビネーションが復活するのは、'07年から始まった『あなたとハッピー!』の出演者がリニューアルした'11年だった。ここで現在も続く井戸端会議スタイルが決まったのだ。'22年には聴取率調査で同時間帯単独首位を獲得、今もその座を守っている。

 '21年から番組アシスタントを務め、垣花に鋭くツッコミを入れるニッポン放送の熊谷実帆アナウンサーは、垣花を「椅子の背もたれを倒して、身体全体を使って笑う人」と言う。

「ラジオだから見えないんですけど、その姿がとても楽しそうで垣花さんらしいなと思って見ています。それから生放送中、CMに入るとゲストの方と話をして距離をグッと縮めるのが上手で、そこで人となりや魅力を一気に情報収集して、CM明けに話して番組を進めていくんです。垣花さんは人間観察が好きで、でも『分析はするけど批判はしない』と言っていました。そこは見習いたいところです。ただ、そういうカッコいいことを番組前に教えてくれている間、鼻毛が出ていることが多いので、そこはなんとかしてほしいですね(笑)」

死生観の変化

 プライベートでは'04年に担当した『HOT'nHOT お気に入りに追加!』にナレーターのお姉さんとして出演していた声優の西田裕美と出会って'07年に結婚、'19年には25年勤めたニッポン放送を退社、フリーとしてホリプロに所属することとなった。

「働き方改革で週休2日となったこと、先輩の高嶋ひでたけアナから『フリーにならないの?』と言われたこと、どうしようか考えていたときに妻から『オマエのキャラは、年齢重ねて得するキャラでもねーだろ』と強く背中を押されたことで決めました。

 結果的にコロナ禍の直前でしたね。あんな100年に一度みたいな出来事、誰も予想できないですから、あのタイミングじゃなかったらフリーになってないと思います」

 昨年3月には学生の面接対策のための「垣花アナウンススクール」を開講した。

「僕、基本的に人のいいところを見つけるのが得意なので、学生のいいところを見つけて、それにはどのエピソードをどう話したら面接で受かるか、自己PRをどうしたらいいかということを一緒に練ったりしています。

 今の大学生は結構打たれ弱いんだけど、みんな僕なんかよりよっぽど優秀なんですよ。なのでそれをうまく出せるようサポートしてあげるのが僕の仕事なんです」

 現在は月〜木曜の午前中に『あなたとハッピー!』、'21年からメインMCを担当する『5時に夢中!』(TOKYO MX)が月〜金曜の夕方、『ゴッドアフタヌーン』が土曜の11〜13時と、すべて生放送の番組に出演中だ。

「平日は朝4時に起きて、新聞を読みながら準備をして、ニッポン放送には6時10分過ぎに着いて8時から生放送、11時に終わったら一回家へ帰って飯を食って、必ず30分ぐらい昼寝します。他に仕事が何もなければMXに15時に入って17時から生放送、18時に終わったら家に帰ってきて、アナウンススクールの生徒とリモート面接をやっています」

 そんな垣花のこれまでの人生の目標は「一日でも穏やかに長生きしたい。未来があることが大事」だった。

「幼稚園ぐらいのころから人はなんで死ぬのか、死んで自分の意識がなくなるって怖いなと思って、親に聞く子だったんです。そうしたら父が『みんな生きたいと思っていても、地球上に人があふれたら困るだろう。だから順番がある。仕方ないんだ』と教えてくれたんです。それでまたすごくショックを受けたことで、長生きして未来がある人生を目指していたんです」

 しかし今年1月に亡くなった森永さんの生き方を見て、死生観が変わったという。

ギリギリまで完全燃焼してるモリタクさんが亡くなったのを身近で見て、生きることの先に普通に死がある、それは特別なことではないんだというのが、なんかこう、いいものだなと思ったんです。

 別にあの世があるとは言わないけど、自分が生き切ったら、モリタクさんとあの世でも遊べそうな気がするなと思わせてくれた。だからモリタクさんの存在は本当、僕にとっては大きいんですよ。アナウンサーを続けられたのはモリタクさんという聞き手、ツッコむ相手がいたからだし、それで番組が成り立ったというターニングポイントになった人で、結果、死に方まで見せてくれた。

 そんなモリタクさんみたいに日々真剣に生きてると、ニュースに対して疑問や怒りを持って、世の中に言いたいことがいっぱい出てくるじゃないですか。そういうところをこれからもまねしていきたいし、疑問や怒りを自分なりにキャッチして、リスナーや視聴者の気持ちをすくい上げられるような番組ができたらいいなと思っています

 そんな思いを抱きながら、垣花は今日もマイクに向かう。これまでの失敗を糧に、そこから得た優しさと強い気持ちを視聴者とリスナーへ届けるために。

<取材・文/成田 全>

なりた・たもつ 1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集、マンガ編集などを経てフリー。幅広い分野を横断する知識をもとに、インタビューや書評を中心に執筆。「おしんナイト」実行委員。

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