NBA伝説の名選手:グラント・ヒル  エリートから一転......天国と地獄を駆け抜けた「NBA界の貴公子」

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2025年03月25日 07:10  webスポルティーバ

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NBAレジェンズ連載43:グラント・ヒル

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第43回は、スターとして、復活を遂げたロールプレーヤーとして存在感を示し40歳までプレーし続けたグラント・ヒルを紹介する。

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【品行方正な振る舞いと万能プレーで1年目からスターダムに】

 NBAでは、ゴールデンステイト・ウォリアーズのステフィン・カリーを筆頭に、元NBA選手を父に持つ "二世選手"たちが活躍している。

 今回紹介するグラント・ヒルは、彼らとはまた違ったエリートの血統を継いだ "サラブレッド"と呼べる経歴の持ち主として知られている。

 1972年10月5日、テキサス州ダラスで生誕したヒルは、父はプロフットボールリーグ(NFL)のランニングバックとしてプレーしたカルビン、母はウェルズリー女子大学時代にのちの大統領夫人となるヒラリー・クリントンのルームメイトだったジャネットというエリート夫婦を両親に持つ。

 一人っ子のヒルは両親が忙しいなか、多くの時間をひとりで過ごした。1982年に「ベータマックス」(ビデオテープレコーダー)を買ってもらい、数えきれないほど多くのバスケットボールの試合映像を録画して気になった選手たちの動きやフットワーク、基礎などを学んでいった。

 もちろん、自宅でバスケットボールの勉強をしていただけではない。

「ひたすら練習していた。何時間もね。だけど僕からすれば、それが楽しかったんだ。家でドリブルしていたし、歩道でドリブルを突いて店にも行ったし、キッチンで椅子に座っている時もしていた」とヒルは回想する。

 ヒルはバージニア州レストンにあるサウス・レイクス高校を経て、名門デューク大学に進学。"コーチK"の異名をとった名将、マイク・シャシェフスキーHC(ヘッドコーチ)の下で4年間プレーし、平均14.9得点、6.0リバウンド、3.6アシスト、1.7スティールをマーク。NCAAトーナメント(全米大学選手権)では1991、1992年に2連覇、1994年にも決勝進出と申し分ない実績を残してきた。

 1994年のドラフト1巡目3位でデトロイト・ピストンズから指名された203cm・102kgのスモールフォワードは、自由自在のボールハンドリングと抜群のクイックネスを駆使して積極果敢にペイントエリアへ侵入し、パワフルなダンクや華麗なアシストなどで会場を魅了した。

 品行方正な振る舞いと優雅で豪快なプレーの数々で好感度も高く、1993年秋に一度目の引退を表明したマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)の"後継者候補"になり、新人ながら1995年のオールスターファン投票ではリーグトップの128万9585票を獲得した。

 チームはイースタン・カンファレンス12位(28勝54敗/勝率.341)と低迷したが、ヒルはダラス・マーベリックスのジェイソン・キッドとともに新人王に選出。1995年3月にジョーダンが現役復帰するも、ヒルは翌年オールスターファン投票でもリーグ最多135万8004票を集めて、リーグ屈指の人気選手としての地位を確立した。

【ケガと戦い脇役として存在感を発揮したキャリア後半】

 2年目の1995-96シーズンから平均得点を20台に乗せ、1997-98まで3シーズン連続でリーグトップのトリプルダブル(1試合で得点などの3項目で2ケタをマークすること)数をマークするなど、オールスターのみならずオールNBAチームの常連にもなっていく。ピストンズもそんなヒルの成長に歩みを合わせるように勝ち星を伸ばし、1996年から2000年までの5年間で4度、プレーオフ進出を果たした。

 だが、プレーオフではいずれも1回戦敗退。1999-2000シーズンにはヒルがキャリアハイの平均25.8得点に、6.6リバウンド、5.2アシスト、1.4スティールの記録を残すも肝心のプレーオフでは、第2戦で左足首を骨折し、マイアミ・ヒートに3連敗(当時の1回戦は3戦先勝)のスイープで散った。

 2000年夏にFA(フリーエージェント)となったヒルは、サイン&トレードでオーランド・マジックへ移籍。のちに才能が開花するトレイシー・マグレディ(元マジックほか)との"スーパーデュオ"誕生に周囲の期待は高まるも、ヒルは前年のプレーオフで骨折していた左足首の状態が尾を引き、最初の3年間でわずか47試合(246試合中)しか出場できず。2003年には全身麻酔をしたあとに長時間に渡る左足の骨と左足首の手術を受けて2003-04シーズンを全休した。

 マグレディ退団後の2004-05シーズン、ヒルは67試合の出場で平均19.7得点を残してオールスターへ返り咲いたが、翌2005-06シーズンは再びケガに見舞われて21試合の出場に終わり、2007年夏にFAでフェニックス・サンズへ移籍した。

 この頃のヒルは、ケガの影響でピストンズ時代に見せていたキレはほぼ失われ、スーパースターからロールプレーヤーとなっていた。しかし、当時サンズでGM(ゼネラルマネージャー)を務めていたスティーブ・カー(現ウォリアーズHC)は「彼こそが我々の唯一のターゲットであり、獲得を最優先していた」と明かし、司令塔スティーブ・ナッシュの補佐役としてプレーメーキングの面で負担を軽減する役割を任された。

 すると、その期待に応えるようにヒルは見事に息を吹き返す。サンズ在籍5シーズンのうち4シーズンで82試合中70試合以上に出場。3ポイント試投数を増やすなどプレースタイルも変化させた男は平均2ケタ得点を残しつつ、豊富な経験を駆使した老獪なディフェンダー役もこなした。

 最終的にはロサンゼルス・クリッパーズで2012-13シーズンを過ごしたあと、2013年6月に現役引退を表明したが、ケガのためエリートコースから外れたとはいえ、サンズで脇役として復活し、40歳までコートに立ち続けた。

【殿堂入りの意味とオリンピックとの関わり】

 キャリア平均の3ポイント試投数0.7本が示すように、ヒルには3ポイントの脅威がなかった。それでも、ミッドレンジジャンパーを磨いてディフェンダーを引き寄せ、多彩なパスワークも魅せてきた。しかも相手選手の動きを見透かしているかのように状況判断が巧みで、方向転換や急加速を生かして左右両方からディフェンダーを抜いてフィニッシュまで持ち込んでいた。

 ヒルは19シーズン(実働18シーズン)のプロキャリアで味わった"すばらしい経験"をいくつか挙げている。

「1998年にアロンゾ(モーニング/元ヒートほか)越しに決めたダンクは、僕のなかでベストのひとつ。1997年のブルズ戦も、ホームでトリプルダブルを決めて倒したから最高だった。あとはサンズ時代にプレーオフで(サンアントニオ)スパーズをスウィープで倒したこと。相手はずっと宿敵だったから、(カンファレンス準決勝で)倒せたことがすごくうれしかった。あと、オリンピックもそうだね」

 ヒルは1992年のバルセロナ五輪で一世を風靡した"ドリームチーム"の練習相手として選抜された"学生チーム"に入り、最初のスクリメージ(練習試合)で見事にスター軍団を撃破。そして次の1996年アトランタ五輪ではアメリカ代表の一員として、金メダルを獲得した。

 引退後はバスケットボールを"伝える側"に回り、『CBS Sports』や『TNT』、『NBA TV』でキャスターを務め、NCAAトーナメントのファイナル4(準決勝&決勝)でゲームアナリストもこなすなど、精力的に活動した。

 そして2018年にはバスケットボール殿堂入り。大学時代の実績が十二分とはいえ、NBAではMVPや優勝がなかったこともあって「自分がラッキーなのは確かだね」と謙遜するも、「殿堂入りできたことが僕のキャリアをすごく正当化してくれている」と思いを口にしていた。

 さらに、ヒルは2021年から2024年にかけてUSAバスケットボールのマネージング・ディレクターを務めた。サンズ時代のGMで、アメリカ代表の指揮官になったカーHCとともに超豪華ロスターを作り上げ、2024年のパリ五輪では頂点に立ち、大会5連覇へ導いた。

 当初発表されていた任期は2024年までのため、今後の動向は不透明ながら、ヒルは両親やコーチK、NBAキャリアで学んできたことを生かして大役を全うしただけに、これからもバスケットボールに携わっていくに違いない。

【Profile】グラント・ヒル(Grant Hill)/1972年10月5日生まれ、アメリカ・テキサス州出身。1994年NBAドラフト1巡目3位。
●NBA所属歴:デトロイト・ピストンズ(1994-95〜1999-2000)―オーランド・マジック(2000-01〜2006-07)―フェニックス・サンズ(2007-08〜2011-12)―ロサンゼルス・クリッパーズ(2012-13)
●オールNBAファーストチーム1回(1997)/新人王(1995)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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