稲本潤一が衝撃を受けたジダンとの1対1 「何もさせてもらえなかった。削るヒマもないくらい」

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2025年04月03日 07:01  webスポルティーバ

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稲本潤一のナンバー1【日本代表編】
印象的な試合・頼れる仲間・衝撃を受けた選手

 ガンバ大阪で当時史上最年少でのJリーグデビューを果たし、若くして名門アーセナルに移籍。2002年の日韓ワールドカップでは2ゴールを挙げて、一躍、時の人となった。

 海外クラブはイングランドを皮切りに、ウェールズ、トルコ、ドイツ、フランスを経験。日本に帰国後も印象的なパフォーマンスを続けた稲本潤一が、2024シーズン限りで現役生活にピリオドを打った。

 あまたの経験を積み重ねてきた日本サッカー界のレジェンドに「印象に残っている試合」「頼りになったチームメイト」「対戦相手で衝撃を受けた選手」の3つのテーマで、現役時代を振り返ってもらった。

   ※   ※   ※   ※   ※

── 2024年12月に現役引退を発表し、今年からは川崎フロンターレU-18のコーチに就任しました。新しい生活はいかがですか。

「U-18は基本的に平日の夜練習が中心なので、生活リズムが変わったのと、身体を動かすことがないのは、やっぱり少し違和感がありますね。まだコーチを始めてあまり時間が経っていないので、今は指導者とはどういうものかを探りながら、自分の役割を見定めている感じですかね」

── 選手時代とは異なる難しさもありそうですね。

「そうですね。たとえば監督がどういうことをやりたいのか、選手たちに対してどういうことを言えばいいのか、人に対する向き合い方は、現役の時に比べたら考えることが多いですね。今までなかったことなので新鮮ですし、まずは様子をうかがいながら、自分なりの価値観を築いているところです」

── なぜ、川崎フロンターレだったのですか?

「やっぱり、しっかりとした組織が成り立っていますし、目指すサッカーであったり、理念というのがしっかりとあるので。あとは、家族の問題も含めていろんなものを総合して、フロンターレでの指導を希望させてもらいました。指導者として新たなスタートを切る自分を求めてくれることにも感謝したいです」

【ヒデさんはまるで苦にしていなかった】

── 指導者としての将来的な目標はありますか。

「監督になりたいという目標はありますけど、まずはライセンスを取りにいく作業をしないといけないですから。次がA級なので、それを取ったうえでS級を取得したいという気持ちが生まれるのかどうかですよね。(中村)憲剛みたいに、毎年(次のレベルに)上がっていくようなペースではできないと思うから、自分なりのペースで取りにいけたらなと思っています」

── 今回のインタビューは、現役時代で「印象に残っている試合」「頼りになったチームメイト」「対戦相手で衝撃を受けた選手」の3つのテーマを、「日本代表」「海外クラブ」「Jリーグ」の3つのカテゴリーごとに挙げていただく趣旨となっています。

「ってことは、全部で9個ですか。けっこうありますね。そんなに思い出せるかな(笑)」

── なんとか、お願いします(笑)。まずは日本代表で最も印象に残っている試合を教えてください。

「代表で言うと、フランスに0-5で負けた試合ですね。あれは衝撃でした」

── 2001年の「サンドニの悲劇」ですね。

「当時最強のフランスと、しかも相手のホームでの試合なので、ある意味では当たり前な結果だったとは思うんですけど、ここまでレベルの差があるのかと。かなりショックでしたし、自分のキャリアの分岐点になった試合でしたね。

 ヒデさん(中田英寿)だけはやれていましたけど、僕に関してはまったくかなう気がしなかった。ピッチ状態も悪かったですけど、すでに海外でプレーしていたヒデさんはまるで苦にしていなかった。その意味でも、海外でやることの重要性をあらためて感じた試合でした」

── それからしばらくして、アーセナルからオファーが届きます。この試合が契機に?

「いや、実はあの試合にヨーロッパのクラブのスカウトや代理人がけっこう来ていたんですけど、まるで引っかからなかったっていう(笑)。

 結局、その年にヨーロッパに行けたのでよかったですけど、今と比べて当時は日本人選手が海外から見られる機会はあまりなかったので、向こうのスカウトの人もかなり興味を持ってくれていたはずなんですよ。まあ、あの試合のパフォーマンスでは、さすがに無理でした」

【呆然として何もしゃべらずに帰った】

── 精神的なダメージも大きかったのでは?

「もう、どうしたらいいんやろうって。やっぱり、このまま日本にいちゃダメだなっていうのは再確認しましたし、考え方だったり、意識が変わったところもありました。もっとやらなきゃいけないっていう思いにもなりましたね」

── 試合後、フィリップ・トルシエ監督はどんな感じだったんですか。

「覚えてないなぁ。キレてはいないと思いますよ。もはや、トルシエのことなんて気にしている場合ではなく、自分がこれから何をしなければいけないのか、とにかく余裕がなかった気がします」

── チームメイトとは、何か話をしましたか。

「それもあまり記憶にはないですね。ただただ、呆然として、何もしゃべらずに帰ったと思います。次の日くらいには切り替えられましたけど、試合後は何も考えられないくらいでした」

── ワールドカップでゴールを決めた試合よりも、敗れた試合が一番印象に残っているのは意外でした。

「もちろんワールドカップもそうですし、勝ったなかでも印象に残っている試合はありますけど、一番と言われると、やっぱりあのフランス戦になりますね」

── 衝撃を受けた選手も、この試合で対戦した選手になりますか。

「そうですね。やっぱり(ジネディーヌ・)ジダンがスーパーでした。(ティエリ・)アンリとか、(ダヴィド・)トレゼゲとか、あの時のフランスにはすごい選手がたくさんいましたけど、対峙したのがジダンだったので、衝撃度でいえば、別格でした。

 本当に何もさせてもらえなかったんですよ。ボールを取れないどころか、ボールに触ることさえもできなかったですから。『どうしたらいいんやろう?』っていうことしか考えられなかったです」

── 削ってやろうと?

「いや、削るヒマもないぐらいでした。ファウルで止めたかもしれないですけど、ボールを取れたことは1回もなかったですね」

── その後に対戦したことはありますか。

「それが最後だったと思います。その前にモロッコでやったこともあって、その時もすごかったんですけど、サンドニの時はよりすごかった。やっぱりあのピッチコンディションで、しかも固定式のスパイクを履いていたのに、それであのボールコントロールとボディバランスですよ。

 もちろん慣れているんでしょうし、僕もヨーロッパに行ったらそれなりに対応できるようにはなりましたけど。ジダンだけじゃなく、フランスの選手はほぼほぼ、固定でやっていたんです。それで、どうしてあんなパフォーマンスができるのかって。もう、いろいろ衝撃でした」

【戸田さんに止められることはなかった】

── では、日本代表で頼りになったチームメイトを教えてください。

「僕が代表で持ち味を出せた時期は、2000年から2003年ぐらいだったと思うんですよ。その頃は後ろにしっかりと構えてくれる選手がいてくれて。

 たとえば戸田(和幸)さんだったり、ミョウさん(明神智和)だったり、何回かヤット(遠藤保仁)と組んだ時もありますけど、当時の僕は前に行きたいタイプだったので、後ろでバランスを取ってくれる選手が頼りになったというか、やりやすかったですね。

 僕が前に飛び出すのはチームの戦術にもある程度なっていたので、そういう人たちと組むと、自分の色は出しやすかったかなと思います」

── 戸田さんと明神さんは守備的なイメージですけど、遠藤さんも稲本さんと組む時は守備的に振る舞ってくれたんですか。

「ヤットはそんなにハードワークするタイプじゃないですけど、やっぱりバランスの取り方だったり、僕がもらいたい時にパスしてくれたり、いてほしいところに顔を出してくれるんですよ。

 司令塔のイメージが強いですけど、ヤットの優れているところはポジショニングで、そこはずっと考えていたんだと思います」

── 日韓ワールドカップでは、戸田さんがボランチのパートナーでしたよね。

「戸田さんは、『俺が後ろでカバーするから、好きなように前に行っていいよ』と言ってくれていました。止められることはなかったです。トップ下のヒデさんもカバーしてくれていましたし、僕がワールドカップで点を取れたのも、ふたりの存在が大きいですね」

(つづく)

◆稲本潤一【海外クラブ編】>>「ドログバはパワーと決定力は図抜けていた」


【profile】
稲本潤一(いなもと・じゅんいち)
1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、当時最年少の17歳6カ月でJリーグ初出場を果たす。2001年のアーセナル移籍を皮切りにヨーロッパで9年間プレーしたのち、2010年に川崎フロンターレに加入。その後、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原を経て、2024年に南葛SCで現役引退。日本代表として2002年から3大会連続でワールドカップ出場を果たす。国際Aマッチ出場82試合5得点。ポジション=MF。181cm、77kg。

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