稲本潤一がイングランドで痛感した世界の壁 「ドログバは一番強烈。パワーと決定力は図抜けていた」

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2025年04月03日 07:10  webスポルティーバ

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稲本潤一のナンバー1【海外クラブ編】
印象的な試合・頼れる仲間・衝撃を受けた選手

◆稲本潤一【日本代表編】>>「ジダンには何もさせてもらえなかった」

 ガンバ大阪から世界に飛び出していったのは、あと2カ月で21歳を迎えようとしていた2001年夏。アーセン・ベンゲル監督の目に留まって名門アーセナルに移籍した稲本潤一は、日本人として初めてチャンピオンズリーグ出場を果たす。

 2002年の日韓ワールドカップ後は出場機会を求めて、ロンドン西部のフラム、イングランド中部のウェスト・ブロムウィッチ、そしてウェールズのカーディフ・シティでプレー。2006年のドイツワールドカップ後はイギリスを離れ、トルコのガラタサライに活躍の場を求めた。

 2007年にはドイツに渡ってフランクフルトと2年契約を結び、2009年からフランスのスタッド・レンヌでも新たなサッカーを経験。2010年1月に川崎フロンターレと契約して帰国した時は、30歳になっていた。

 海外での生活は、実に濃密だったという。インタビュー前編の日本代表編に続き、中編では海外クラブに所属した9年半のなかから「印象に残っている試合」「頼りになったチームメイト」「対戦相手で衝撃を受けた選手」を聞いた。

   ※   ※   ※   ※   ※

── 次は海外クラブでの話を聞かせてください。2001年にアーセナルに移籍して以降、ヨーロッパでは7つのクラブで9シーズン半に渡ってプレーしました。そのなかで印象的な時期はどのあたりになりますか。

「それこそ日韓ワールドカップが終わったあとのフラムでは、かなり点を取ったんですよ。たしか最初の2カ月くらいで、5、6点は取ったんじゃないかな。

 そのなかでも印象深い試合でいうと、ハットトリックした試合になりますね。今はなきUEFAインタートトカップのボローニャ戦で、ワールドカップの勢いのままにホームでハットトリックして、アウェーでも点を取りました。

 前の年にアーセナルで試合に出られなくて、ワールドカップで少し活躍して、そこからのフラムだったので、イングランドで自分の価値をようやく示せた試合になったと思います」

【当時はキック&ラッシュが全盛】

── アーセナルの1年目は試合に出られませんでした。そこに留まる選択肢もあったのですか。

「僕はガンバからのレンタルでアーセナルに入ったんですけど。もう1年ならレンタルは可能だと言われていたんです。でも、やっぱり試合に出たい気持ちのほうが大きかったですね。

 もう1年、アーセナルでチャレンジするよりも、試合に出られる環境を探そうと。オファーを待つなかで、運よく、同じロンドンに拠点を置くフラムがオファーをくれたので、迷わずに移籍を決めました」

── フラムでも日本代表と同じように、前に行くスタイルで結果を出したわけですね。

「そうですね。だから印象深い試合なんですけど、あの時のフラムは4-4-2の中盤がダイヤモンド型で、僕はトップ下みたいな感じだったんですよ。だから、点を取る役割を担っていたんですけど、ちょっと自分のプレースタイルに迷いがある時期でもありました。

 ボローニャ戦だけじゃなくて、そのあとのリーグ戦でもある程度、点を取れていたんですが、このままトップ下で勝負していくのか、でも本来の自分のスタイルではない......。そこはすごく考えましたし、だからこそ印象深い時期でした」

── 気持ち的にはボランチがよかったのですか?

「ワールドカップのベルギー戦ではないですけど、ボールを取ってからの早い攻撃だったり、ボールを取ること自体も僕の特徴のひとつだと思っていましたから。

 もちろん、トップ下でもハードワークしないといけないんですけど、当時はちょっと攻撃寄りのポジショニングだったり、そういうプレーを求められていたので、このままこのポジションの選手としてやっていくべきかどうか......というところは、すごく悩みましたね」

── 今でこそプレミアリーグで活躍する日本人選手も増えてきましたが、稲本さんはその道を切り拓いた存在です。

「あの頃はイタリアのほうが強かった時代ですからね。当時のプレミアは、アーセナルとかマンUとか、トップ・トップは強かったし、モダンなサッカーもしていましたけど、下のチームだとキック&ラッシュが全盛の時代でしたから。

 フラムはそうでもなかったですけど、ボックス・トゥ・ボックスに走ることは求められましたし、それに対応することも重要でした。そのなかで自分がどう生きていくのかっていうところも、いろいろ考えながらやっていましたよ」

【強くてデカい選手がたくさんいた】

── フラムのスタジアムは、なかなか味わい深いですよね。

「クレイヴン・コテージですよね。けど、僕がいた時は使ってないんです。ちょうど改修の時期と重なったので、代わりにQPR(クイーンズパーク・レンジャーズ)のスタジアムを使っていました。それで僕がいなくなってから改修も終わったんですけど、僕がいた2年間だけは使えなかったんですよ。

 でも、本当に貴重なスタジアムだと思います。対戦相手として何回か試合をしたことはあるんですけど、やっぱりあれだけピッチとスタンドが近いと、ファンの声はよく聞こえてきましたし、臨場感がすごかったですね」

── では、海外クラブ時代に衝撃を受けた選手を教えてください。

「ひとり挙げるとすれば、(ディディエ・)ドログバですね。ウェスト・ブロムウィッチの時に対戦したんですけど、(ジョゼ・)モウリーニョが就任したチェルシーが強かったというイメージも含めて、ドログバのインパクトは大きかったです」

── やはり身体能力はすごかったですか。

「そうですね。ドログバはそんなに足もとがうまくないんですけど、パワーと決定力は図抜けていましたね。対峙したわけではないので直には味わっていないですが、その力強さだったり、身体の使い方は優れていたと思います。点を取ることに特化したフォワードだったなっていう印象がありますね」

── プレミアリーグにはドログバ以外にも、いわゆる"怪物級"の選手がたくさんいましたよね。

「強くてデカい選手がたくさんいた時代ですからね。でも、そのなかでもドログバが一番強烈だったと思います」

── 海外クラブ時代にやりやすかったチームメイトは誰になりますか。

「『すごかった』で言うと、アーセナルの選手になるんですけど、『やりやすかった』で言えば、フランクフルトの時にミヒャエル・フィンクっていう選手がいたんですよ。その彼と中盤で組んだ時は、自分の持ち味を出しやすかったかなとは思います。

 当時の僕はアンカーみたいなポジションで、後ろでどっしり構えるスタイルでやっていたんですけど、フィンクが出ている時は前目にサポートに行けたり、前線に絡んでいくことができたんです。ふたりでバランスをうまく取りながらプレーできたので、すごく印象に残っていますね」

【かゆいところに手が届く選手】

── フィンク選手の特徴は、どんなところですか。

「どこが特化しているわけではないんですけど、バランス感覚に優れていて、かゆいところに手が届くような選手でしたね。いてほしい時にいてくれたり、帰ってきてほしいに時に帰ってきてくれたり、すごい気の利く選手だったと思います。これは個人的な感覚ですけど、ふたりで出た時の試合の勝率はよかったような気がしますね」

── 少しテーマとずれますが、海外クラブ時代に苦労したことはありますか。

「苦労を感じたことはないんですよ。トルコ時代も、(大都市の)イスタンブールにあるガラタサライだったので、不便はなかったです。

 あれが違う都市のクラブだったら、また違ったかもしれませんが。僕の印象では、イスタンブール以外の街は何もなかったですから。今はもっと発展しているかもしれないですけど、アウェーで行った時にそう感じましたね。

 イスラム教の国なので、毎朝コーランが流れてきたり、ラマダンがあったり、豚肉を口にしない文化があったり、これまでとは違う部分はたくさんありましたけど、それも含めてすごく楽しかったです。だから別に、ヨーロッパで苦しんだっていうのは特にないですね。サッカーはもちろん、いろんな文化に触れられて、いい経験ができたと思います」

(つづく)

◆稲本潤一【Jリーグ編】>>「わざわざジョルジーニョのほうにボールを取りに行った」


【profile】
稲本潤一(いなもと・じゅんいち)
1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。1997年、ガンバ大阪の下部組織からトップチームに昇格し、当時最年少の17歳6カ月でJリーグ初出場を果たす。2001年のアーセナル移籍を皮切りにヨーロッパで9年間プレーしたのち、2010年に川崎フロンターレに加入。その後、北海道コンサドーレ札幌、SC相模原を経て、2024年に南葛SCで現役引退。日本代表として2002年から3大会連続でワールドカップ出場を果たす。国際Aマッチ出場82試合5得点。ポジション=MF。181cm、77kg。

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