
世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第7回】ローター・マテウス(ドイツ)
サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。
第7回のヒーローは「ドイツの闘将」をピックアップ。ローター・マテウスだ。ワールドカップに5度も出場し、約20年にわたってドイツ代表に君臨した「鉄人」の素顔に迫る。
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カタカナ表記は難しい。
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サー・アレックス・ファーガソン体制下のマンチェスター・ユナイテッドをスーパーサブとして支えたオーレ・グンナー・スールシャールは、ソーシャーかソルスキアか。レアル・マドリードとフランス代表のスピードスターはキリアン・エムバペで定着しつつあるものの、本人は「ムベッパが近いかな」と語っていた。
欧米のメディアは、日本人の名前に四苦八苦している。中田英寿はイタリアで活躍していた当時、ナーカタ、ナカータ、ナカターと媒体によって表現が違い、プロゴルファーの青木功はアイサオ・エイオキ、岡本綾子はエイヤコ・"オカモロ"と呼ばれる時期があった。
「カガワーでもカガーワでもない、カガワ、とフラットに呼ぶんだ」
香川真司はマンチェスター・Uで同じ釜の飯を食ったリオ・ファーディナンドのナイスなアシストにより、正しく発音されていた。
ローター・マテウス(Matthaus)も同様だ。マットハウス、マトヘイス、マタウツ......。笑い話でも作り話でもなく、40年以上も前のせつない事実である。
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ボルシアMGの下部組織で育ち、将来を嘱望されていたにもかかわらず、マテウスは1984年の夏にバイエルンに移籍する。
当時の2チームは宿命のライバルだった。ともにブンデスリーガをリードする巨頭であり、ボルシアMGが『PUMA』、バイエルンが『adidas』のユニフォームを着用。非常にわかりやすい対立の構図だ。
【エースキラーとして一躍有名に】
のちに、ソル・キャンベルがトッテナム・ホットスパーからアーセナルへ、ルイス・フィーゴがバルセロナからレアル・マドリードに移籍して大騒ぎになったが、マテウスの行動もボルシアMGサポーターを刺激し、スター候補生から裏切り者に姿を変えた。
「ふざけんじゃねえぞ、この野郎」
しかし、マテウスは元来が攻撃的な性格で、対立を恐れない......いや、むしろ好んでいたため、古巣サポーターの汚い野次や禁断の移籍に憤慨するメディアの圧も、喜んで真正面から受け止めていたと伝えられている。プレッシャーをエネルギーに代えられるタイプだ。
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バイエルン移籍からインテルに新天地を求めるまでの4シーズンの間に、ブンデスリーガ3回、DFBポカール(ドイツカップ)を1回制している。セリエAでもスクデットとUEFAカップを勝ち取った。また、1992年のバイエルン復帰後はブンデスリーガ3回、UEFAカップ1回の優勝だ。
強烈なミドルシュート、正確なフィード、チャンスメイクのセンス、豊富な運動力、強烈すぎるキャプテンシーは、輝かしいタイトル歴にふさわしい。中盤センターからリベロまで、幅広いポジションをこなしたマテウスは、特筆すべき存在のタレントである。
ドイツ代表(当時・西ドイツ)で頭角を現したのは、エースキラーとして尽力した1986年のメキシコワールドカップだ。
なかでも、決勝のアルゼンチン戦である。2-3で敗れたとはいえ、ディエゴ・マラドーナとの1対1では、終始優勢だった。準決勝のフランス戦で左手首を骨折しながら、全盛期を迎えていたスーパースターを封じたのだ。
さすがというしかない。のちにマラドーナは、こう語っている。
「最大のライバルはマテウス」
4年後のイタリア大会でもエースキラーは存在だった。決勝でマラドーナを完封。試合も1-0の勝利を収め、メキシコ大会のリベンジ完遂である。
【クリンスマンとの相性は最悪】
しかしマテウス自身は、グループリーグのユーゴスラビア戦が会心の出来だったという。
「人生最高の試合だった。1990年のユーゴスラビアは優勝候補の一角に推されるほどの好チームだったが、私は2ゴールを挙げ、なおかつドラガン・ストイコビッチに仕事をさせなかった。この勝利で、批判的だったメディアは手のひらを返し、私を快(こころよ)く思っていなかった何人かの選手も黙ったんだよ」
「フランツ・ベッケンバウアー監督とは常に良好な関係で、ユーゴスラビア戦のあとはより濃厚に、なんでも言い合えるようになった」
マテウスの述懐である。
たしかに、ストイコビッチに対するマークは執拗だった。自由になれない苛立ちから、ユーゴスラビアの至宝は「もう勘弁してくれ」と言わんばかりに、ベンチに向かって両手を広げていた。ドイツ陣でユーゴスラビアがマイボールになっても、ストイコビッチだけは我関せずに見えるような時間帯すらあった。
また、ベッケンバウアーとのなんでも言い合える関係は、時に激しい口論にもエスカレート。スタッフが慌てて止めることすらあったものの、マテウスは「腹の底を見せたからこそだ」と意に介していない。口論は行きすぎだとしても、本心は隠さないほうがいい。
なお、1990年はバロンドールを、翌年にはFIFA最優秀選手を受賞。マテウス個人としても「世界一」の称号をついに手に入れた。
ただ、対立を恐れない攻撃的な性格は、多くのトラブルも引き起こしている。特にユルゲン・クリンスマンとの不仲は深刻で、ドイツ代表とバイエルンの失墜を招いた元凶とすら言われていた。
自己主張が強すぎるマテウスは煙たがられていた。優等生タイプのクリンスマンは敵を作らない。ふたりの相性は最悪だ。ベッケンバウアーのあとを継いだベルティ・フォクツ監督が、負傷でコンディションを崩していたマテウスに気を遣わず、「あの男は必要ない」とメディアに発したことも、火に油を注いだ。
「クリンスマンは監督を使って、俺をドイツ代表から追い出そうとしている」
攻撃的なマテウスが黙っているはずがなかった。
【名将トラパットーニも最大級の賛辞】
こうした経緯もあり、今でもマテウスを快く思わない関係者は少なくない。だが、あらためてドイツ代表におけるキャリアを振り返ってみよう。
【ワールドカップ出場:5回】
・優勝:1回(1990年)
・準優勝:2回(1982年、1986年)
・ベスト8:2回(1994年、1998年)
初出場の1982年スペイン大会から最後のワールドカップとなった1998年フランス大会まで、最低でも準々決勝には進出している。16年間にわたってトップランクを維持したのだから、心身のタフネスは半端ではない。
フィールドプレーヤーでワールドカップに5回出場したのは、マテウスのほかにメキシコのラファエル・マルケス、アルゼンチンのリオネル・メッシ、ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウドの3人しかいない。代表キャップ150はもちろんドイツ最多だ。
インテルでマテウスを指導したジョバンニ・トラパットーニはこう言った。
「マラドーナは生まれついての天才だが、試合に勝つために誰を選ぶかと問われたら、間違いなくマテウスだ」
ドイツが生んだ闘将の勝負根性をリスペクトする、最高の誉め言葉だ。
173cm・70kgの体躯は、サッカー界では小柄な部類に入る。それでも常に身体を張り、いさかいを恐れずに勝利を追求していたマテウスは、正真正銘のプロフェッショナルだ。