
昨年12月に自己負担額引き上げが決定されたものの、患者団体から反対の声が上がり、今年3月に石破首相から白紙撤回が表明された「高額療養費制度」の見直し案。今秋までの再検討が予定されてはいるが、まとまる見通しはゼロだ。議論が二転三転する理由はなんなのか? そもそも、いったい何が問題だったのか?
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■少子化対策の財源確保のための見直し案だった?
1月からの国会審議で大きな争点となったのが、「高額療養費制度」の見直しだ。病院で高額な治療を受けた患者の負担が重くならないように、年齢や年収に応じて1ヵ月当たりの医療費の自己負担額に上限を設ける制度だが、医療保険財政の悪化、平均給与の引き上げなどを理由に負担額を引き上げる方針が政府から示され、審議された。
負担額を今年8月から段階的に引き上げる政府の方針に対し、がんや難病の患者団体からの反対が大きくなった。これを受けて野党だけでなく、与党からも反発が強まり、石破 茂首相は判断を二転三転させ、引き上げを見送ることを決断。今秋までにあらためて検討を重ねて方針を決定すると表明した。
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昨年12月に引き上げ案が発表されてから、SNS上でも「難病患者には死ねというのか」と悲痛な反対の声が上がって話題になった当制度の見直し議論。いったい何が問題だったのか?
ニッセイ基礎研究所保険研究部・上席研究員で医療・福祉に関する問題に詳しい三原 岳氏は、政策決定上のプロセスにおける問題点についてこう語る。
「まず、患者団体の意見を聞かずに政策が決められたことが手続き上の大きな問題のひとつです。政策の審議会に現役世代の患者代表が入っていなかったため、政府が患者団体の意見を聞く機会を持たないまま負担額引き上げが発表され、それが大きな反発を生みました。
次に問題だったのが、今回の負担額引き上げの裏に、少子化対策の財源を確保するために最大2兆円の歳出を削らなければならないという政府のホンネがあったこと。その目的を達成するために、見直し案が組まれたのです。
これは前政権が石破政権に残した『置き土産』とも言えるもので、岸田前首相が『異次元の少子化対策』を打ち出したときに、そのうち約2兆円の財源を増税ではなく社会保障費の削減で賄うという財源スキームを作ったことが関係しています。
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高額療養費制度の見直しが厚生労働省から初めて提案されたのは昨年11月21日の医療保険部会ですが、ここで『改革工程』という文書への言及がありました。
『改革工程』は2023年12月に閣議決定した政府文書で、社会保障給付を削って少子化対策に充てることを目的に作られたものです。つまり厚労省は昨年11月の時点で、約1年前の政府文書である『改革工程』を引用しながら、高額療養費の見直しが必要だと言っているんです。
しかし、問題はその『改革工程』の中身です。改革の項目を並べているだけで、具体的に何をどう削るかについては一切議論がされていなかった。この雑な作りの文書を基に議論を進めたことも、各方面から反対の声が大きくなった原因のひとつと言えます」
■保険診療への頼りすぎが財政を圧迫
政策決定の過程だけでなく、医療行政の観点からも今回の議論には問題があったと指摘するのは、武蔵野大学薬学部教授で生活情報サイト『All About』の「脳科学・医薬」ガイドの阿部和穂氏だ。
「予算委員会の石破首相の発言で一番まずかったのは、高額な薬の具体名を答弁に引用しながら、あたかもそれが医療費を圧迫しているかのように語っていたことです。
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石破氏が名指しした高額薬の中に、主にがん治療に使われる『キムリア』という遺伝子治療薬があります。この薬は約3000万円しますが、普通の薬と違い、難治性のがんや白血病(ただし適応条件あり)を一発で治してくれます。
その患者がキムリアを使わないことによってその後の人生で使うことになる医療費や、抗がん剤治療ができない小児がん患者の命を救うことができることなどを考えると、3000万円は安いとも言えるでしょう。
このように薬の価値とは、かけた金額に対してどのくらいの成果が上がるのかの『費用対効果』で考えるべきです。しかし、今回の負担額引き上げの議論の中ではその視点がまるっきり欠けていた。そんな基礎的な医療のこともわかっていない状態で、高額療養費制度を適切に見直して国民を説得するのは難しいでしょう。
それに、国民健康保険によって公費から負担される保険医療費が高騰している根本的な原因は、高額療養費制度ではありません。まずはそれを徹底的に洗い出さない限り、医療費の財政問題は解決しません」
では、保険医療費高騰の背景には何が?
「患者負担3割の恩恵を受けられるからと、多くの人が必要以上に病院に通ってしまうことが原因のひとつです。
例えば『ヒルドイド』という皮膚の病気に用いられる保湿剤があります。美容目的でも使用可能で薬局でも売られていますが、薬局で買うと10割負担で自腹になるのに対し、病院で処方箋をもらえば3割負担で安く買えるからお得だと喧伝するネット記事が一時期多く出回って、美意識の高い女性を中心に多くの人が安価なヒルドイドを求めて皮膚科に押しかけました。
では、こんなときに患者負担の3割以外はどこからお金が出ているのか。それは当然、税金で集められた公的保険料から支払われているわけです。しかし、国民の側に、自分たちが納めている保険料で医療費が賄われているという意識が希薄なため、さまざまな薬を巡ってこのような事態が発生してしまうのが問題です。
処方してもらうにしても実際は診療費もかかりますし、同じ薬が薬局に売られているなら病院に行かずに薬局で買うという選択を多くの人がするようになれば、かなりの額の保険医療費が削減できるはずです。
そうすれば今回のように高額療養費の負担額を強引に引き上げようとする必要もなくなります。そのためには厚労省が具体的な数字目標を示して、国民に受診控えを呼びかける必要があるでしょう」
このように、高額療養費制度の見直しの前に、保険医療費の運用方法を見直すべきだというのが多くの識者の見立てだ。
■議論を重ねて「痛み分け」の合意を
前出の三原氏は、現在は年齢などによって段階的に負担率が設定されている医療費の患者負担をシンプルに変えるべきだと語る。
「私は高齢者の患者負担割合を段階的にでも現役世代と同じ一律3割にして、その中で医療費を多く使う人や所得の低い人、病院通いが必要な高齢者などの負担を減らす仕組みにしたほうが、国民の納得が得られやすいと考えています。
22年10月の法律改正以降、一定程度の所得がある後期高齢者には2割負担が導入されていますが、今も大半が1割負担です。また、現行の制度は70歳や75歳という年齢で区切られていますが、実は年齢で区切るのは昔の政策を基に軌道修正を続けているからであって、それ自体になんら合理性はありません。
このような患者負担割合に関して残る議論を放置したままで、高額療養費制度に変更を加えようとしたのが今回の見直し案の問題です。ただし2年前に一部の後期高齢者の患者負担2割を導入した事情もあって、政府は10年間手をつけていない高額療養費制度のほうを改正しようとしたのでしょう」
さらに三原氏は、医療制度の見直しに当たっては国民の理解を得ることが重要だと言う。
「医療制度の見直しは担当官庁の厚労省だけでなく、与野党を含めた政治全体の課題だと言えます。特に社会保障の領域は国民の生活とも近いので、『負担は軽く、給付は重く』という理想論に引っ張られた議論に流れがちですが、誰かが負担を背負うことでしか社会保障は機能しない。ある意味で国民間での『痛み分け』が必要になります。
ラジカルな主張が注目を集めやすい今の時代には非常に難しいことですが、その合意を取るための地道な議論を政府と国民が行なわない限り問題は解決しません。高額療養費制度の議論が迷走を続けていることで、前出の高齢者の患者負担見直しなどほかの課題に政治的資源を使うことができなくなってしまうのも問題です」
前出の阿部氏はこう語る。
「国民皆保険制度と高額療養費制度のどちらにおいても、自分が納めた保険料が人を助けていて、またそれに自分自身が助けられることもあるという当たり前の認識が国民になかなか共有されないことが課題です。
日本の保険制度は世界に誇る素晴らしいものなのに、それが当たり前に享受できるサービスだと皆が思ってしまうと、不適切な使われ方が許される風潮が生まれますし、病院に行かずに済むよう自己管理する意識が薄くなってしまいます。
また、今回話題になったように高額療養費制度に助けられている難病患者やがん患者の方が多くいることが一般に広まれば、保険料を納めていることの意味も理解できるようになるのではないでしょうか」
高額療養費制度を見直す前に整理すべき論点は数多くある。今後の動向に注視したい。
写真/共同通信社 時事通信社