
連載第44回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、大阪・長居スタジアムの歴史を紹介。Jリーグの公式戦を開催できるピッチが3面もある「日本最大級のスポーツ公園」は、サッカー日本代表をはじめ、数々の名勝負が行なわれてきました。
【公式戦を開催できるピッチが3面】
日本女子代表(なでしこジャパン)が、ニルス・ニールセン監督就任後初めて国内での試合に臨んだ。対戦相手は2月の「シービリーブスカップ」で4対1と快勝したコロンビアだった。
実際、技術でもスピードでもパワーでも上回る日本がボールを握る時間が続き、チャンスもあった。だが、ゴールは遠かった。
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13分の宮澤ひなたのシュートをはじめ、シュートがポストやバーに嫌われる場面が何度かあったし、29分には籾木結花が倒されてPKをゲットしたが、籾木のキックはGKにはじき出されてしまう。そして、直後の35分にスローインからの守備が乱れて先制点を献上してしまったのだ。
たしかに不運はあった。だが、やはり決定機の数が少なすぎた。
最後は、追加タイムにコロンビアのGKのミスからハンドの反則が生まれ、高橋はながPKを決めて引き分けに持ち込んだものの、とても褒められた戦いではなかった。ニールセン監督は「ベストでも、ワーストでもない試合」と語ったが、どちらかと言えば「ワーストに近い」引き分けだった。
相手ゴール前に飛び込んでいくアグレッシブさが見られず、中央を固めて日本の攻撃を外に押し出そうというコロンビアの戦略にはまんまとハマってしまったゲームだった。
さて、コロンビア戦の会場は大阪・長居公園内にある「ヨドコウ桜スタジアム」だった。
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正式名称は「長居球技場」。
1987年に人工芝の球技場として完成し、アメリカンフットボールやフィールドホッケーに使用されていたが、2010年以降、セレッソ大阪が天然芝に張り替えるなど改修を進め、約2万5000人収容の球技専用競技場に生まれ変わった。C大阪の試合のほか、なでしこジャパンの国際試合やWEリーグ、皇后杯など女子の試合にもしばしば使用されている。
コロンビア戦が開催された4月6日には、お隣のヤンマースタジアム長居(長居陸上競技場)でも関西学生リーグ開幕節の2試合があったので、僕もなでしこジャパンの試合の前に大阪学院大学対関西学院大学の試合を観戦することができた。
この約5万人収容の陸上競技場は2002年の日韓W杯前に全面改築されたスタジアムで、C大阪のホームとして使われ、日韓W杯では日本代表がここでチュニジアと対戦。C大阪のレジェンド森島寛晃(現C大阪会長)の先制ゴールなどで、2対0で快勝してグループリーグ首位通過を決めた。また、2007年には世界陸上の舞台にもなっている。
長居公園には球技場と陸上競技場だけでなく、さらに「ヤンマーフィールド長居」(長居第2陸上競技場)も存在する。
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ヤンマースタジアムのサブ・トラックなのだが、それ自体が1万5000人の観衆を収容できる日本陸連公認の第1種陸上競技場であり、メインスタジアムの改築工事中にはC大阪の試合が開催されたし、最近でもFC大阪の試合に使われることがある。
つまり、長居公園内にはJリーグの公式戦を開催できるピッチがなんと3面もあるのだ。「日本最大級のスポーツ公園」と言うことができるだろう。
さらに、陸上競技場の東には広大な植物園や博物館などもあり、3月から4月にかけては花見客でも賑わっている。
【公園の計画は100年前、スタジアムは61年の歴史】
この、総面積66.3ヘクタールという巨大な公園が計画されたのは、今から100年近く前のことだった。
1925年に大阪市は周囲の町村を編入。人口は211万人に達し、東京市(当時)を抜いて日本最多・世界第6位という大都市が誕生した。そして、1928年には郊外にいくつかの公園予定地が設定された。長居公園もそのひとつで、当初は近くの仏教寺院の名を取って「臨南寺公園」と呼ばれた(臨南寺は今も球技場の南側に存在する)。
こうした大改革を進めたのは関一(せきはじめ)大阪市長だった。
関市長は都市計画学者であり(そもそも「都市計画」という言葉を作ったのが関市長)、大阪港や地下鉄をはじめ、さまざまなインフラを整備したが、遠い将来を見据えて公園予定地を設置したのだ。財源不足で公園の整備は進まなかったが、公園予定地だったので周囲が乱開発されるなかで巨木などの自然がそのまま残された。
第2次世界大戦後は、復興資金を調達するために長居公園内に競馬場と競輪場が造られたが、日本経済が安定してくると公営ギャンブル批判の声が高まり、1962年までに競馬も競輪も廃止され、競輪場の跡地に長居スタジアムが完成したのは1964年のことだった。
このスタジアムは2万3000人を収容する西日本最大の陸上競技場だったが、スタンドはメインとバックだけで、両ゴール裏には何もないという珍しいデザインだった。
ところで、1964年と言えば東京で五輪が開催された年である。関西蹴球協会は東京五輪の準々決勝で敗退した4チームを招待して、新しく完成した長居スタジアムを使って「大阪トーナメント」を開催した。サッカー普及のためである。
この大会で日本代表はユーゴスラビアと対戦し、1対6という大敗を喫したのだが、日本唯一の得点を決めたのは釜本邦茂。そして、ユーゴスラビアではイビチャ・オシムが2ゴールを決めている。そう、のちに日本代表監督となった、あのオシムである。
1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が始まると、長居スタジアムでは関西から唯一参加したヤンマーディーゼル(C大阪の前身)の試合が開催された。1967年には日本代表のエース釜本がヤンマーに入団。さらに日系ブラジル人のネルソン吉村らも加入してヤンマー人気は高まり、好カードでは長居スタジアムに満員に近い観客が詰めかけた。
また、1970年代に入ると、全国高校選手権大会でも長居スタジアムがメイン会場となり、関西での最後の大会となった第54回大会では、埼玉県の浦和南が優勝。FWの田嶋幸三(前JFA会長)が活躍した。
【53年前の観戦の思い出】
僕が初めて長居スタジアムまで観戦に行ったのは、1972年9月の日本代表対フェレンツヴァロシュ(ハンガリー)の試合だった。
ハンガリーは今ではFIFAランキング37位とすっかり弱体化してしまったが、1950年代前半には「マジック・マジャール」と呼ばれて世界最強の名をほしいままにしたし、東京、メキシコの両五輪を連覇したばかりだった(メキシコ大会準決勝では5対0で日本を一蹴)。
つまり、当時の日本のサッカーファンにとってみれば、ハンガリーは憧れの国のひとつだったのだ。
若い頃、僕は日本の古代史にはまっていたので、奈良県の飛鳥を訪問してから長居に向かうことにした。
そして、普通だったら国鉄(今のJR)か近鉄を利用して大阪府に入るのだろうが、20歳になったばかりの僕は無謀にも古代人が通った道を歩いてみることにしたのだ。二上山(にじょうさん)の南の竹内(たけのうち)峠を通って、聖徳太子ゆかりの大阪府太子町に出ようという行程だ。
距離的には無理な距離ではない。だが、試合があったのは9月3日で残暑が厳しかったのが大誤算。長居スタジアムに到着する頃にはすっかり消耗してしまっていた。
ちなみに、試合は2対2の引き分けに終わった。
当時の日本代表にはメキシコ五輪銅メダルメンバーの多くがまだ残っており、五輪後に病気で離脱していた釜本も復帰し、ネルソン吉村も代表入り。釜本と吉村のコンビネーションは抜群だったし、さらにのちに西ドイツ・ブンデスリーガで活躍することになる当時20歳の奥寺康彦も加わっており、この頃の日本代表はそれなりに強かったのだ(その後、メキシコ五輪組が引退すると弱体化してしまう)。
長居スタジアムには、その後も何度か行ったことがある。
1977年のインデペンディエンテ(アルゼンチン)戦や1980年のウーイペシュト・ドージャ(ハンガリー)戦は2月の寒い時期の試合だったが、やはり最初に訪れた時の印象が強いのか、長居スタジアムの写真を見るたびに、暑かったフェレンツヴァロシュ戦の記憶ばかりが蘇ってくるのである。
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