
NBAレジェンズ連載45:ジェイソン・ウィリアムズ
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第45回は、「コート上の魔術師」として、多くのファンの記憶に残るジェイソン・ウィリアムズを紹介する。
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【敬意がこめられた愛称「ホワイトチョコレート」】
2024年10月、メンフィス・グリズリーズとエグジビット10契約(現在は2ウェイ契約)を結びプレシーズンゲームに出場していた河村勇輝が、NBAのコートで鮮やかなノールックパスを繰り出した。そのハイライトシーンを観たトニー・アレンは「ジャパニーズ・チョコレートだな。彼には本当にいいリズムがある」と語っていた。
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これはグリズリーズの地元メディア『Grind City Media』の番組"Chris Vernon Show"にグリズリーズ史上屈指の守備巧者のアレンが出演した際、日本代表のポイントガード(PG)を称えたコメントだが、"ジャパニーズ・チョコレート"という表現は、かつてサクラメント・キングスなどでプレーしたジェイソン・ウィリアムズに名付けられた"ホワイト・チョコレート"にインスパイアされたもの。ウィリアムズは白人ながら黒人のようなアスレティックでトリッキーなプレーで多くのファンを魅了した選手のことだ。
ウィリアムズは、1975年11月18日にウェストバージニア州ベルで誕生。同州のデュポン高校では、のちにNFL(フットボール)でスターワイドレシーバーとなるランディ・モスともバスケットボールを一緒にプレーするなど、注目を集める選手として頭角を現す。
高校時代からスムーズにビハインド・ザ・バックからパスを繰り出すほか、的確なアシストで魅せてきた男は、ビリー・ドノバンHC(ヘッドコーチ/現シカゴ・ブルズHC)が指揮を執っていたマーシャル大学、フロリダ大学で1シーズンずつプレーし、フロリダ大では平均17.1得点、6.7アシスト、2.7スティールをマーク。
そんな"J-WILL"のスタイルを好んでいたのがふたつ年上で同じくPGのジェイソン・キッドだった。「僕が持っていた唯一のジャージーは彼のものだった。リバウンドを奪うとそのままドリブルで持ち込んで自らダンクするか、それを演出していた。もう本当にすごかったんだ」と当時を振り返る。
大学で2シーズンプレーしたのち、1998年のドラフトへアーリーエントリーしたウィリアムズは、1巡目全体7位でキングスに入団。対戦相手や実況、ファンどころかチームメイトたちでさえ驚くようなタイミングでパスを繰り出してイージーショットを演出したのをはじめ、矢のように鋭いアシストやビハインド・ザ・バック、肩越しにノールックで通すなどパスのバリエーションも豊富で、クリス・ウェバーらが豪快なダンクでフィニッシュしていたこともあって大きな注目を浴びた。
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ロックアウトのため公式戦が82試合から50試合の短縮となった1年目の1998-99シーズン。ウィリアムズは平均12.8得点、6.0アシスト、1.9スティールを残してオールルーキー・ファーストチーム入り。キングスは前年の27勝55敗(勝率32.9%)からウェスタン・カンファレンス6位の27勝23敗(勝率54.0%)を残してプレーオフへ出場し、一躍シンデレラチームとなった。
1999-2000シーズン、キングスは44勝38敗(勝率53.7%)でプレーオフ進出したが、このシーズン、キングスはジャパンゲームズとしてミネソタ・ティンバーウルブズとともに来日。東京ドームで開幕2試合を戦い、1勝1敗で終えた。
翌2000-01シーズンにはウェスト3位の55勝27敗(勝率67.1%)を残してプレーオフの1回戦を突破。ビッグマンのウェバーを中心に、キングスは真の優勝候補へと飛躍する段階に来ていた。しかし、チームの構想のなかに、変幻自在の魅力を備える一方で高いレベルの安定性を欠き、時にコート外での問題も抱えていたウィリアムズは入っていなかった。
【グリズリーズで変化を遂げヒートで頂点に】
キングスは2001年6月に2対2のトレードを断行してウィリアムズらを手放し、堅実さがウリのPGマイク・ビビーらを獲得。ウィリアムズは2001-02シーズンから本拠地をバンクーバーからメンフィスへ移転するグリズリーズに移籍することになった。
ウィリアムズは新天地で先発PGとして自己最高級の成績を残すも、チームはウェスト下位へ低迷。ただ、2002-03シーズン序盤にヒュービー・ブラウンHCが指揮官に就任すると徐々にチームが変わり始めた。キングス時代も含めて、シュートセレクションに課題を抱え、成功率が低くても関係なく3ポイントを乱発してきたウィリアムズも変化の兆しを見せていく。
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ブラウンの下、グリズリーズは2003-04シーズンに50勝32敗(勝率61.0%)を残してチーム史上初のプレーオフ進出。パウ・ガソルが大黒柱を務めるチームで、ウィリアムズはターンオーバーも徐々に減らし、勝てるチームの司令塔になりつつあった。
そして2005年8月に成立した5チームによる大型トレードでウィリアムズはマイアミ・ヒートへ移籍。飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムを駆け上がっていたドウェイン・ウェイド、リーグ最高級のセンターとしてペイントエリアを牛耳っていたシャキール・オニールとチームメイトに。
新天地ヒートでフロアリーダーとなったウィリアムズは平均12.3得点、4.9アシストを記録。チームは序盤こそ苦戦したものの、スタン・バンガンディHCを解任してフロントのパット・ライリー自らが指揮官に復帰すると成績を徐々に挽回していく。
イースタン・カンファレンス2位の52勝30敗(勝率63.4%)を残すと、プレーオフのカンファレンス決勝で難敵デトロイト・ピストンズを4勝2敗で下し、ダラス・マーベリックスとのNBAファイナルでは0勝2敗のスタートからウェイドが鬼神の如く超絶パフォーマンスを続けて4連勝。シリーズ4勝2敗で球団初優勝を果たした。
その後、ウィリアムズは2008年8月にロサンゼルス・クリッパーズと契約を結ぶも家族の事情で現役引退。2009-10シーズンにオーランド・マジックで現役復帰し、NBAでは2010-11シーズンまでプレー。2017年には41歳で3人制プロバスケットボールリーグ"BIG 3"で復帰も、初戦でヒザを負傷してしまい、最終的にコートをあとにした。
【 "瞬間最大風速"の衝撃と家族への愛情】
ウィリアムズはNBAキャリア計12シーズンで平均10.5得点、5.9アシスト、1.2スティール。2年目以降はアウォードもなければ、スタッツリーダーに立ったこともない。
ただ、キングスのユニフォームを身にまとっていた時に与えた"瞬間最大風速"の衝撃は強烈そのもので、2000年のオールスターウィークエンド初日に迎えた1年目と2年目の選手による競演ライジングスターズで披露した"エルボーパス"は衝撃的だった。
ウィリアムズは左から右へビハインド・ザ・バックと見せかけて右ヒジに当てて(左サイドにいる)チームメイトへ送るという離れ業をやってのけた。高校時代にその動きを学んだとはいえ、NBA入り後はそのエキシビションゲームで初めて披露したという。
「これまでの人生で3万回はトライしてきた。でも成功したのはたぶん3回くらい。本気でそれだけたくさん練習したのにね。これがどういうことか分かるよね?」
バスケットボール界へ衝撃を与えた"エルボーパス"がどれほど難易度の高いパススキルなのかは、ウィリアムズをはじめとするPG経験者にしかわからないことなのかもしれない。
ストリートボールのプレーをそのままNBAのコートへ持ち込んだ「コート上の魔術師」は、元やり投げ選手で妻のデニカ・キスティと3人の子を持つ父親でもある。
2006年の優勝はウィリアムズにとって唯一の称号とも言えるのだが、2024年9月に受けた米メディアのインタビューで「NBAキャリアでそれが最高の業績なのか」と聞かれると、家族思いの一面を覗かせる答えが返ってきた。
「ドラフト指名されたこと、それと祖母の世話ができていることに尽きるね。祖母には毎月400ドル(約6万円)渡している。彼女はそれを400万ドル(約6億円)だと思ってくれているんだ。それがなによりもうれしいね」
1999年のNBAに彗星のごとく現れ、会場を沸かせるボールハンドリングやパスさばきで幾度も魅了してきたウィリアムズは、"記録よりも記憶に残る選手"の代表例と言っていいはずだ。
【Profile】ジェイソン・ウィリアムス(Jason Williams)/1975年11月18日生まれ、アメリカ・ウェストバージニア州出身。1998年NBAドラフト1巡目7位。
●NBA所属歴:サクラメント・キングス(1998-99〜2000-01)―メンフィス・グリズリーズ(2001-02〜2004-05)―マイアミ・ヒート(2005-06〜2007-08)―オーランド・マジック(2009-10〜2010-11途)―メンフィス・グリズリーズ(2010-11)
●NBA王座1回:2006年/オールルーキー・ファーストチーム(1998)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
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