川本良平さん プロ野球の世界に十何年も踏みとどまるような選手ならば、その日々に必ず素晴らしい出会いがあり、挫折があり、転機がある。川本良平さんは2005年にプロ入りし東京ヤクルトスワローズ、千葉ロッテマリーンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで合計12年プレーしたキャッチャーだった。
一軍で完全なレギュラーポジションをつかんだシーズンはなく、最後は「戦力外」という形で球界を去った。しかし宮本慎也、古田敦也といった球史に残る「先輩」からの言葉を糧にしつつ、野球界に必死で食らいついた日々にはきっと価値がある。
その川本さんは引退直後から日本を代表するホテルチェーンの「アパグループ」で社員として勤務している。インタビュー前編では野球選手としての出会いと挫折と転機、そして現在の仕事について語ってもらっている。
――川本さんのプロ野球人生はどういうものでしたか?
川本 漢字一文字だと「耐」です。怪我も多かったですし、メインで出る試合もそんなに多くなかった。でも腐るわけではなく「何とか」「チームのために」という思いで2番手、3番手で耐えていました。常に上は目指していたのですが、何とか食らいついた現役生活でした。
――川本さんは亜細亜大の出身で、アマチュア野球ファンなら誰でも「厳しさ」を知っているチームです。
川本 崇徳高校の監督が、当時の亜細亜大監督だった内田(俊雄)さんと亜細亜大の同級生だったんです。それもあって崇徳から亜細亜に行くルートがあり、高校1年のときから大学に何回か練習参加していました。ありがたいことですが、そのときは本当にキツくてキツくて、地獄でしたね。
――お客さん扱いはされなかったんですか?
川本 もう、バリバリ練習に入っていました。1年から3年まで、冬や春のキャンプに2週間くらい参加しました。ただ「ここに行けば上手くなるな」とも思いました。高校の監督からも「亜細亜に行きなさい」と言っていただいて、キツさは覚悟しつつ、何よりも上手くなることを望んでいたので、亜細亜大進学を決めました。
――亜細亜大時代は全日本大学野球選抜にも選ばれ、4巡目指名を受けてヤクルトに入団しました。
川本 小学校の頃から「プロ野球選手になる」と常々言っていたので、それを叶えられてまず嬉しかったです。ただ大学のレベルが高い方だったとはいえ、プロに行くと周りのレベルは比べ物にならないくらい高かったです。内野には宮本慎也さんや岩村明憲さんもいて、本当に「テレビで見ていた方」たちばかりだなと。
一軍に出始めたのは2007年で、入団して3年目のことでした。3年目はファームで打率、打点、ホームラン、盗塁とチームトップの成績を残して「いつ呼ばれても良い」という準備ができていたました。「僕が上がるということは誰を抹消するんだろう?」と思っていましたが、何と古田敦也監督が自分を抹消して、一軍に上げてくれたんです。(※古田敦也が選手兼任で監督を務めていた)
――時期はいつ頃ですか?
川本 忘れもしません、7月7日です。しかも、いきなり「スタメンで行くぞ」と言われました。そのとき本当に助けてくれたのが宮本慎也さんで「何かあったら、俺を見ろ」と言ってくれました。「困ったら全部ショートに打たせてこい。絶対アウトにしてやる」という言葉に助けられました。
――誰とバッテリーを組んだのですか?
川本 館山昌平さんです。試合は9対0で、3打席目に打った僕の初ヒットがホームランでした。本当に「初物づくし」のデビュー戦でしたね。しかも相手が巨人でした。1番(高橋)由伸さん、2番谷(佳知)さん、3番は小笠原(道大)さん……ですから。
![]()
――「耐える」現役生活とおっしゃっていましたし、そこから苦しんだのですね。
川本 デビューは良かったのですが、確か8月19日で、これも巨人戦です。3対2で9回表まで勝っていて、9回裏の先頭打者の小笠原さんにホームランを打たれて同点にされました。その後は1アウト満塁で阿部慎之助さんに回って、最後に満塁ホームランを打たれてサヨナラ負けです。試合後に他のコーチ陣もいる前で僕と(サヨナラ本塁打を打たれた)館山さんが呼ばれました。そのときの配球、判断について古田監督からいただいた内容が、その後の野球人生を支えてくれた言葉でもあります。
有名な監督でも、結果で物を言う人はいると思います。でも古田さんは結果で見ず、ちゃんと内容で見てくれていました。「根拠をもって攻めて行って打たれた時はバッターの方が上だった。だったら次にどうするか考えろ」「根拠もなく打たれたことに対しては言う」と言われました。
――若手のキャッチャーにとって心が折れかねない状況ですよね。
川本 そうです。ただ「8回までは本当に完璧だった。9回のあの場面(小笠原からの被弾)だけ」とも言われました。
――9回1点リードとなれば「一発を打たせない配球」が鉄則です。そこに計算外があったのか、配球の間違いがあったのか、何が起こったのですか?
川本 配球の間違いです。一言で言えば、安易に行ってしまいました。より慎重にならなければいけない9回なのに、いつも通りの入り方をしてしまった。初球の真っ直ぐをレフトスタンドに運ばれました。
――そこは古田監督に注意された部分ですね。ただ同点の一死満塁で阿部慎之助を迎えたら、どうリードしても厳しいようにも思います。
川本 僕は押し出しが怖かったんです。なので、あわよくば打ち損じをと思いストライクの確率が高いストレート系を要求しました。そこについて古田監督は「打ち損じを狙うなら変化球だ」と指摘されました。一死満塁は外野フライも打てるし、しかもカウントも3ボール1ストライクです。となったら、相手はやはり真っ直ぐを狙うし、真っ直ぐは打ち損じも起きにくい球種です。
だけど変化球、フォークならゴロになる可能性が高い。それがボテボテになって三塁走者が生還したらそれはもう仕方ないと古田さんは仰っていました。あとフォアボールでサヨナラ負けになってもいいという割り切りも口にしていました。印象深かったのが「ホームランを打たれたら、ピッチャーは自責点が4点もつく。でも、フォアボールなら1点で済むだろう」という言葉です。
――プロの発想ですね。
川本 「お前の4失点のせいで、二軍に落ちる可能性もあるし、そのピッチャーの人生を左右することもある。防御率も大きく変わってくる。勝負した結果、押し出しで1点ならいいじゃないか」と。
――ヤクルトは古田監督が引退間近で、複数の捕手がポジションを争っていた時期です。
川本 あのときは古田さんが米野(智人)さんを後継者に指名していました。次に福川(将和)さんがいて、古田さんのサブを長く任されていた小野公誠さんもまだ現役でした。2007年は自分が4番手以降で、よくて3番手っていう立ち位置から始まったシーズンです。ただ2軍でたくさん出していただいて、結果も出せて、そこがあの時期は自信にはつながっていました。
![]()
――2009年には相川亮二選手がFAで横浜から加入します。
川本 相川さんは主力としてヤクルトに迎え入れられました。それでも僕も僕なりに、ヤクルトのピッチャー事情を知っていました。試合に出なくて(他の選手の配球が)うまくいかなかったときは「こうした方がいいのではないですか?」とも言いました。相川さんからも「色々と教えてほしい」と言われていました。ライバルではあるけど、チームの勝利が優先で、そこは本当にお互い出し惜しみなく情報交換をしていましたね。
――3番手、4番手の振る舞いには難しさもあったと思いますが、何を大事にしていましたか?
川本 常にピッチャーに話しかけていましたし、野手ともコミュニケーションを取っていました。「出られないからいい」ではなくて、「少ないチャンスをつかむ」という気持ちは無くさず、準備を怠らないようにしていました。幸い週1でナイター明けの(試合間隔が短い)デーゲームとか、移動日無しで試合があるときには、相川さんを休ませる意味で僕が出る流れもありました。
あと村中とよくバッテリーを組んでいたので、村中の調整に合わせて、僕も一緒に外野でダッシュしたりしていましたね。外野で練習するピッチャー陣と情報交換をしたり、もちろんブルペンで受けて球の状況とかを見たり……。そういう準備は抜かりなくやっていたつもりです。
――ヤクルトに8年いて、その後ロッテで3年、楽天で1年プレーして引退をされました。引退、セカンドキャリアについてはいつ頃から考え始めましたか?
川本 ロッテの2年目くらいからです。年齢的に32歳くらいでしたが、現役でやれてもあと5年、6年で、その先の方が人生は長いことは分かっていました。ただ、その時点ではあまり具体的な想定までしていなかったです。
――2016 年に引退されました。
川本 自由契約で、球団に残る話もありませんでした。しかも僕が戦力外を言われたのが第1次の10月1日でなく、ドラフト会議が終わり、来年度の編成がほぼ決まったタイミング。第1次に入っていなかったので「もう1年できるんだ」と思って、次の年に向けた準備も始めていました。「まさか」という戸惑いはありましたが、元々ネガティブに生きるのは嫌だし、今は「これは運命だった」と受け止めています。そのおかげでアパグループに入社できたわけですし。
――戦力外通告を受けて、どう動いたんですか?
川本 トライアウトには出ない選択をして12月まで待ったのですが、声は掛かりませんでした。「新しい世界へ飛び込むにしても、パソコンのスキルが必要だ」と考えて、朝の9時から夜の6時まで都内のパソコン塾に通いました。1カ月でExcelとWordの資格を取りました。
――いただいた名刺に「専務室・法人営業チームリーダー」と書いてありました。今はどういう仕事をされているのですか?
川本 法人関係、対企業の営業の仕事で、「何でも屋」です。弊社はイベントをよくやっているので、例えばそういったスポンサーの依頼、取り組みの相談は仕事としてあります。他にも土地の情報が来たら、専門部署に流します。ホテル向けのアメニティーの話があれば、そういった部署にもつなぎます。
「サッカー日本代表オフィシャルカレー」の販路拡大にも関わっています。弊社はサッカー日本代表のスポンサーをしていて、私もその特命チームの一員です。試合日はスタジアムにブースを出展するので、その運営も手伝いに入ります。
![]()
――3月20日、25日はワールドカップアジア最終予選が埼玉スタジアム2002で開催されますけど、そこでもお会いできるんですか?
川本 行きます。ゲームに参加いただいて商品が当たる企画やカレーの販売もしています。
――他にイベントはどういうものがあるんですか?
川本 毎年プロ野球のオフシーズンには、弊社の主催でプロ野球選手のトークショーを実施しています。昨年からはプロ野球開幕直前のファンミーティングも行っています。キッズ向けのイベントもやっています。各企業様にはそのときに商品をご提供いただく、ときには協賛金を集めさせていただくところもやっています。
――プロ野球としてのキャリアが生きる仕事ではないですか?
川本 対プロ野球選手のオファーとか、そういう話はできますけど、運営となるとまた別です。本当にもう一から勉強しています。
―――――
取材=大島和人
写真=須田康暉
―――――