
今江敏晃インタビュー(前編)
小学生の頃から"プロ"を夢ではなく目標として追いかけ、名門・PL学園では1年秋から4番に座った。ロッテ入団後も"不動のサード"として、日本シリーズでMVPを2度獲得するなど活躍。ロッテ、楽天での18年の現役生活を通じて培った信念、野球への情熱、そして「頂点」を目指し続けた理由とは──。
【PL時代の練習がプロでも生きた】
── 今江さんがプロ野球を意識したのはいつ頃ですか?
今江 小学生の頃です。幼少期から人一倍体が大きくて、小学6年の時に175センチ、70キロありました。小学生の頃は、小児料金で乗り物に乗るのですが、信じてもらえなくて、いつも証明書を携帯していたぐらいです(笑)。野球もそれなりにうまかったですし、「プロ野球選手になれる」と信じ込んでいました。
── PL学園では1年秋から4番を任され、高校2年の夏に甲子園に出場。「事実上の決勝戦」と言われた3回戦の智辯和歌山戦で敗れました。秋は大阪桐蔭に敗れ、3年夏は不祥事により辞退を余儀なくされました。
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今江 高校3年夏は大会にも出られなかったのですが、ドラフト会議前に3球団ぐらいから打診があって、その時に初めてプロというのを現実のものとして意識しました。ドラフトではロッテに3巡目で指名していただき、プロへの道が開けました。
── 入団時の背番号は「25」でしたが、4年目の2005年に"ミスター・ロッテ"の有藤通世さんがつけていた背番号「8」を譲り受けました。その前年は41試合の出場にとどまりましたが、2005年はいきなり開幕スタメンを果たすと、三塁手のベストナイン、ゴールデングラブ賞に輝く活躍でリーグ優勝に貢献しました。
今江 プロ3年目の2004年に、ボビー・バレンタイン監督が就任。その時にボビーの右腕だったトム・ロブソン打撃コーチから「君はいいスイングをしているから、自信を持ってやりなさい」と背中を押してくれました。
── 2005年は132試合に出場して打率.310(リーグ6位)、71打点を挙げる活躍。二塁打35本はリーグトップでした。急成長のきっかけは何だったのでしょうか。
今江 PL学園は練習では竹バットや木製バットを使い、試合になると金属バットを使用していました。当時の金属バットは、腕が伸びきった状態でインパクトしても遠くに飛びました。しかし竹や木製バットは、インサイドアウトの軌道でスイングしないと打球が飛びません。高校の時にしっかりしたスイングを身につけたことで、プロ野球にもすんなり対応できたと思います。
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【日本シリーズMVPで全国区に】
── ほかにも、今江さんは投手の足元を狙って打っていたという話を聞きました。
今江 2005年からセ・パ交流戦がスタートしたのですが、ヤクルトと対戦した時にPL学園の先輩である宮本慎也さんから「投手の足元を狙って打っていけば打率.250は打てるぞ」と、アドバイスをいただきました。それは僕にとってすごく大きな言葉になりました。野球は90度のダイヤモンドから出ればファウルになるので、センターラインに打っていけばそこから散らばってヒットゾーンが広がる。それに投手の足元の打球というのは処理するのも難しく、ヒットが増えるということです。
── 打撃の基本が急成長の要因だったのですね。
今江 少年野球の頃から言われていた「センター返し」はそういう意味があるのだと、あらためて認識しました。だから2005年シーズンは、プロでやっていける自信めいたものをつかめました。
── 日本シリーズでは阪神を4勝0敗のストレート勝ちで一蹴し、31年ぶり日本一。今江さんは8打席連続安打の活躍でMVPに輝きました。
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今江 ペナントレースではレギュラーの座を死守しなきゃという思いがあり、気が張り詰めていました。でも日本シリーズはリラックスして打席に臨むことができました。それが好結果につながったのかもしれないですね。そういえばその年、パ・リーグのプレーオフ中に第一子が誕生し、人気球団である阪神との日本シリーズで注目され、プロ野球選手としての自覚が芽生えました。
── その後もさらなる飛躍を遂げましたが、ターニングポイントはどこだったと思いまますか。
今江 2006年の3月に開催された第1回WBCで、トップ・オブ・トップの代表メンバーに選んでいただき、試合に出していただいたことです。プロで活躍したのは前年の1年だっただけに、1球の重さ、難しさ、そして野球の楽しさをあらためて突き詰めていかなければと痛感した真剣勝負でした。
【強打の三塁手への憧れ】
── ホセ・フェルナンデス選手が2004年から西武に移籍したのに伴いサードを守っていましたが、高校時代のショートを守りたいとは思わなかったですか。
今江 プロ初スタメンはショートだったのですが、当時のロッテのショートには名手の小坂誠さんがいました。それは別として、当時は近鉄の中村紀洋さんのような華やかな強打の三塁手がいて、自分としては「三塁手で輝きたい」と強く思い始めていました。
── サードで難しいプレーはどんなところですか。
今江 ショートは打者のミートポイントが見えますが、サードは角度的に見えづらいので、打球への反応が難しい。だから故意に一歩目を遅らせたりします。三塁線の逆シングル捕球も大変です。それにサードは、バント処理の際に前進して捕球し一塁へ投げると、角度がなく、送球がシュート回転してしまうと打者走者に当たってしまいます。
── 今江さんは高校通算30本塁打のスラッガーでした。ただプロ入り後は、シーズン最多本塁打は2008年の12本です。その代わり、二塁打はプロ通算330本もありました。
今江 高校時代はスカウトにアピールするために、強い打球を遠くに飛ばそうと考えていました。しかしプロの投手は、コースギリギリを狙ってきますし、変化球のキレもいい。内角は見せ球が多く、外角球の勝負が基本です。外角球を狙って本塁打を打てるならいいですが、引っかけて凡打に終わってしまうことが多くあります。
ならば、外角の球を右方向に打って野手の間を抜く、チャンスに強い打撃を目指すほうが得策ではないかと考えて練習を重ねました。その結果、ミートポイントをより手元まで引きつけられるようなりなり、ヒットの延長として二塁打が増えました。
── 今江さんの成績を見ると、四球と三振が少ないですね。
今江 僕は配球を読むというより、反応型タイプの打者でした。自分の間合いでスイングできれば、投球が曲がっても落ちても、打球が詰まってもヒットゾーンに運べるのです。だから初球から積極的に勝負をかけていました。逆にボールを見てしまうと、自分の間合いで打てなくなって、結果が出ないことが多かったですね。
── ちなみに、今江さんは打撃コーチ時代、選手にどのような指導を行なっていたのですか。
今江 チャンスの時は、外野フライでもゲッツー崩れでも打点が稼げます。勝負強い打者は狙っていない球種でも、初球からスイングをできて対応できるものです。追い込まれれば、必然的に三振が増えてしまう。そういう考え方は教えました。
【現役時代の一番の思い出は?】
── 18年間の現役生活で一番の思い出は?
今江 (二度の)日本シリーズのMVPです。2010年はシーズン3位から日本シリーズに進出し、中日を4勝2敗1分で破って"下剋上"を果たしました。このシリーズでもMVPをいただきました。ただ、2005年のMVPのほうがレギュラー獲得、第一子誕生ということもあって思い出深いですね。
── 逆にやり残したことはありますか。
今江 その時々で最大限努力していたと思うのですが、のちに振り返ると「もっとやっておけば......」と思うものですね(笑)。通算2000本安打も首位打者も達成できなかったのは、自分らしいと思います。
ただ、個人的には、2016年にFAでロッテから楽天に移籍し、選手、指導者、球団関係者と新たな縁をいただき、自分にとって大切なものになりました。複数の球団を経験できたことは、野球人としての幅を広げられたと思っています。
── 今江さんの野球におけるモットー、座右の銘を教えてください。
今江 「頂点」です。極論ですが、最多エラーでもいいと思っています。やるからには、なんでもいいから一番になりたい。そういう気概で、常に高みを目指して追求していました。
つづく
今江敏晃(いまえ・としあき)/1983年8月26日、京都府出身。PL学園から2001年のドラフトでロッテから3巡目で指名され入団。05年にレギュラーに定着し、132試合に出場して打率.310、8本塁打、71打点。阪神との日本シリーズでは8打席連続安打を記録するなど、チームの日本一に貢献しMVPを獲得。その翌年3月に開催された第1回WBCの日本代表に選出され、世界一に貢献。10年の中日との日本シリーズでも勝負強さを発揮し、自身2度目のMVPに輝いた。15年オフにFAで楽天に移籍し、19年限りで現役引退。20年から楽天のコーチに就任し、24年は一軍監督。チームを初の交流戦優勝に導くも、10月に監督契約解除が球団より発表され退団することになった。現在は評論家として活躍中