限定公開( 1 )
「毎朝5時に起きて、7時までが勉強の時間です。今、日本福祉大学(通信制)の3回生なのですが、やっと大きなテストが終わりホッとしています。勉強の後で、仏壇の父や母に手を合わせて祈りの時間をもつのが、毎朝の日課です」
そう柔らかにほほ笑んで語るのは、看取り士の柴田久美子さん。
柴田さんは、最期のときを安らぎの中で見守り見送る“看取り士”の草分けで、その普及に尽力してきた。現在は一般社団法人「日本看取り士会」の会長を務め、看取り士の育成なども行っている。
「団塊の世代」が75歳以上となり、いまや日本は、国民のじつに4人に1人が後期高齢者となっている。さらに、死者数は昨年162万人弱と過去最多に。超高齢社会であると同時に、多死社会でもあるのだ。
「問題は、死亡者の増加に伴い、これから多くの“看取り難民”が生まれてしまうことです」(柴田さん、以下同)
|
|
看取り難民とは、臨死期に適切な場所を見つけられない人のことを指す。厚生労働省の試算によれば、看取り難民は2030年には年間47万人にものぼるという。
たとえば、「最期は安心できる自宅で過ごしたい」と考える人は多いが、訪問看護師の人材不足などにより、実際の在宅死亡率は15.7%にとどまっている(厚生労働省「人口動態調査」2020年)。
「人が生まれてくるときには、助産師さんがいますよね。同様に、命を終えて旅立つときには、それを助ける存在が必要だと考えています。
本人と家族が『望ましい最期だった』と実感できるように、命を終える本人と家族のサポートをし、本人が納得する形で、安らかに旅立ってもらうお手伝いをするのが、看取り士なのです」
具体的には、どのようなことをしているのだろうか。
|
|
「まず、余命を宣告されるなど、終末期に入った段階で依頼の連絡を受けます。依頼されるのは、ご本人、ご家族のほか、ケアマネジャーさんの場合もあります」
相談を受けると、〈どこで最期を迎えたいか?〉〈誰に看取られたいか?〉〈どういう医療を希望するか?〉〈現在困っていることはないか?〉の4つの質問をする。
「ご希望を伺った後は、それをできるだけかなえられるように医療・介護にかかわる専門家などと連携をします。6割以上の方が『自宅に帰りたい』とおっしゃるので、その場合は自宅での緩和ケアの計画をお手伝いしています」
終末期の間は看取り士が中心となり、訪問看護師、訪問介護士やボランティアを含めたチームでケアにあたる。必要に応じて訪問し、話を聞いたり、夜間の付き添い、手を握る、抱きしめるなど、少しでも不安な気持ちを取り払うために寄り添う。
「核家族化が進み、『おひとりさま』の高齢者も急増しています。
|
|
家族がいる場合でも、看取りの経験がなかったり、子育てと親の介護を並行しているなどで、不安や悲しみに見舞われる方が多いんです。そういったご家族の相談に乗ることもあります」
亡くなる直前は、24時間態勢での見守り、寄り添いを行う。
「看取り士としてのもっとも重要な役割が『臨終の立ち合い』です。医師が『ご家族を呼んでください』と告げるタイミングで、どんな時間でも駆け付けます。
そこで、残された家族との最期のときを濃密に過ごしていただく。これは、いわば“命のバトンリレー”ともなります。すると、愛する人の死がつらい悲しみだけでなく、柔らかな命を受け継ぐ瞬間であると感じられるのです」
これまで柴田さんは、約300人を看取り、総勢約3,000人の看取り士の育成にあたってきた。余命宣告から納棺まで多岐にわたるサポートで旅立ちを支え、残された家族に「命のバトン」を繋ぐ─―。
どんな経験から“命のバトンリレー”を生み出すまでに至ったのか。看取り士となるまでの柴田さんの歩みを振り返りたい。
■キャリアウーマンだけど、ダメな母親。自分を責め続け、自殺未遂を起こした
柴田久美子さんは、1952年、島根県出雲市で、農業を営む両親、祖父母のもと、5人きょうだいの末娘として誕生した。
柴田さんは小児ぜんそくを患っており、11歳の冬、発作により生死の境をさまよった。
「自分の体から抜け出して、天井から涙を流す家族を見ていた記憶があります。やがて雲の上で光に包まれて……、どこからか『帰りなさい』という声が聞こえて、意識を取り戻しました。このときの不思議な体験から、“生と死”に興味を持ったように思います」
その体験から間もない次の春、最愛の父が、胃がんで亡くなる。
「家族全員で、自宅で看取りました。父の最期は、家族一人一人に感謝を伝えていました。息を引き取る直前、末っ子の私の手を握りながら『くんちゃん、ありがとう』と言ってくれたのです。立派で、静かな旅立ちでした」
わんわん泣きながら父を抱きしめて離さない柴田さんを、母が困って引き離したのが忘れられない、と笑って語る柴田さん。
「そのとき、父の手は冷たくなっていくのですが、私の心はだんだん温かくなっていくような不思議な感覚があったのです。この父の『ありがとう』は、今も心にすんでいます」
大阪の専門学校を出たのち、1973年、20歳のとき、日本マクドナルドに秘書として採用された。翌年には結婚し、長男と長女を出産。
秘書を数年務めた後は店舗勤務となり、25歳で「店長」に大抜擢。さらには担当店舗を最優秀店に導き、「藤田田賞」を受賞するなど優れた成績を重ねていった。
家庭を持ち、仕事も順風満帆に思えたが──。
「仕事を頑張るほど家族に注ぐ時間がなくなり、家庭と仕事のはざまで苦悩しました。保育園を見つけるのも困難で、やっとの思いで預けることができても、母を求めて泣きわめく子どもの叫び声が、仕事中も頭にこびりついて離れないんです。外から見たら『キャリアウーマン』。でも、本当は出来の悪い母、出来の悪い主婦……。そのギャップに悩み、自分を責め、負の感情が積み重なっていきました」
当時の日本マクドナルドは創業から間もない黎明期で、現場はまだ男性社会だった。重労働で肉体的にもきつく、柴田さんはどんどん疲弊していった。
そして、30代半ばのある朝──。
「子供を学校に送り出した後、衝動的にクリニックで処方されていた睡眠薬に手が伸びました。もう、救われる道はそれしかないと思ってしまい、何錠もひたすら飲み続けていました」
やがて、一向に出勤してこない柴田さんを案じた同僚が、自宅で意識のない柴田さんを見つける。
病院に搬送されて一命はとりとめたものの、突然自らの命を絶とうとした柴田さんは、夫から「もう一緒には暮らせない」と告げられる。その後は離婚し、仕事も手放すことになった。
「頑張りすぎて、燃え尽きてしまったんだと思います。離婚後、一度は私についてきてくれた娘も、『大学に行きたいから』と父のところへ戻ってしまいました。しばらく収入も少なかったので……」
どん底にたたきのめされた柴田さん。その後再婚し、会社員時代の経験をもとに飲食業を営むも、事業が軌道に乗らず、悶々とした日々を過ごしていた。
しかし、1993年、40歳で、のちの人生を大きく左右するある出会いが。飲食店を畳んだ直後、常連客の一人だった高齢者施設の園長から「暇だったらうちで働かない?」と声がかかったのだ。
予想していなかった介護の世界への扉が開いた運命の瞬間だった。
「店もやめようとしていたので、二つ返事で働き始めました。すると、勤務の初日から、入居者の皆さんが、『ありがとう』って笑顔で言ってくれるんですよ。まだ不慣れで車いすを上手に押せなくても、手を握っただけでも……。そのことにとても驚きました」
その温かな言葉に、涙が止まらなくなったという。
「帰り道、車を路肩に止めて、ずっと泣いていました。会社員時代は、“スマイル0円”で、笑顔やありがとうは提供するもの。それが今度は自分が与えてもらえる側になった。これまでの苦労や、張り詰めていたものがじんわり溶け出すような感覚でした……。そして、この『ありがとう』を周りへお返ししていきたいと強く思ったんです」
そうして柴田さんは本格的に介護の道へ進み、介護福祉士、ケアマネジャーの資格を取得。同年、特別養護老人ホームの寮母となった。
(取材・文:川村一代)
【後編】「残される家族に命のバトンを繋ぐ」日本初の“看取り士”が語る「死」との向き合い方へ続く
動画・画像が表示されない場合はこちら
|
|
|
|
Copyright(C) 2025 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved. 記事・写真の無断転載を禁じます。
掲載情報の著作権は提供元企業に帰属します。