玩具コレクター北原照久、人をつなぐ“おもちゃの恩返し”を信じて「劣等生だった自分を救った言葉」とは

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2025年04月13日 12:10  週刊女性PRIME

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北原照久 撮影/近藤陽介

 マリンタワーを横目に首都高速を降りると、横浜の街は春霞(はるがすみ)に煙(けぶ)っていた。

ソーダ水の中を 貨物船がとおる

 ユーミンの『海を見ていた午後』がラジオから聴こえる。

 この街にはやはり、ゆったりとした時間がよく似合う。

 谷戸坂を上り、港の見える丘公園を見ながら外国人墓地を抜けると異国情緒あふれるマイホームタウン。

 この街を愛してやまない北原照久(77)が『ブリキのおもちゃ博物館』をオープンしたのは1986年4月7日。今から40年近く前のことだ。

好調な滑り出し

 山手の教会から目と鼻の先にたたずむ洋館の空き家を、自分たちでリフォームしてオープンにこぎつけた。

 義理の母が保証人になって生命保険会社から借りた1500万円も、入居の際の諸経費をはじめ改装や内装の費用、商品類を仕入れたら、きれいさっぱり消えてなくなった。残っているのは3万5000点に及ぶ膨大なコレクションだけ。

もし、どうにもならなくなったら、アメリカ行きのエアチケットを買って、おもちゃをトランクに詰めて売ってくればいい。なんとかなるさ

 そんな気持ちで常に自分を奮い立たせてきた。

 横浜の新名所を目指して、博物館もショップも年中無休で営業した。当時珍しかったプライベート・ミュージアムの存在を知ってほしくて、コレクションを紹介してくれた出版社に頼み、オープンの告知を人気雑誌に掲載してもらった。

 そうした地道な宣伝活動が功を奏してか、『ブリキのおもちゃ博物館』は快調な滑り出しをみせた。

 さらに隣の洋館を借りて、一年中クリスマスのアイテムを扱う『クリスマストイズ』をその年の9月にオープンさせた。

時代はバブル真っただ中、1本何万円もするクリスマスツリーが飛ぶように売れ、売り上げは倍々ゲームで伸びていきました。

 イブ当日には地元テレビ局がお店から生中継してくれることになり、オールナイトで営業すると宣言しました。

 ところがお客さまが殺到して夜の10時過ぎに営業を慌てて中止。山手署で始末書にサインしたことも今では懐かしい思い出です」

 オープン当初はわからないことだらけ。ハプニングが次々に襲ってきた。

クリスマスの次は、バレンタインデーだ

 そう意気込んで700万円分のチョコレートを仕入れた。ところがまったく売れずに山のような在庫を抱えてしまう。

「東京・京橋にある実家のスポーツ店では飛ぶように売れた“義理チョコ”が、このあたりではまったく売れませんでした。横浜の山手のあたりは“本命チョコ”しか売れない。このときは、慌てて銀行に駆け込みました」

 まさに好事魔多し、である。

「このお金でノウハウを買ったんだ」

 改めて思い返せば、自身が開き、閉館に追い込まれた博物館はたくさんあった。そのたびに1000万円以上の損失を出した。それでも、

このお金でノウハウを買ったんだ

 と信じてピンチを乗り越えてきた。

 言葉のコレクターでもある北原には大好きな言葉がある。

「この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一歩が道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ」

 アントニオ猪木の座右の銘としても知られる、けだし名言。

 今年、喜寿を迎えた北原照久も、この言葉を信じて、波瀾万丈(はらんばんじょう)のコレクター人生をひたむきに歩いてきた。

 ◆ ◆ ◆ 

 北原が東京の中央区京橋で生まれたのは'48年1月30日のことだった。

 戦前、喫茶店の前身であるミルクホールを経営していた父は、明治生まれのおしゃれなモダンボーイ。麻のスーツに蝶ネクタイ姿で颯爽(さっそう)とオートバイにまたがる写真が今も残されている。

 戦後にいち早く『京橋園』という喫茶店、スキーと登山の専門店『キタハラスポーツ』をオープン。後に貸しビル業やスキーロッジの経営などにも進出するやり手であった。

「凝り性の父は喫茶店の店内に東郷青児などのオブジェを飾り、床の一部をガラス張りにして水槽を埋め込み熱帯魚を泳がすなど斬新なアイデアでたちまち人気を呼びました。どこよりも早くテレビを入れ、黒山の人だかりができたことをよく覚えています

 放送が始まったばかりのテレビに北原も心を奪われた。

毎日食い入るように見ていたのがアメリカの連続ドラマ。広い庭がある大きな家に住み、家の中はTシャツ・ジーンズ姿で過ごす。キッチンには信じられないくらい大きな冷蔵庫があって、中から大きな牛乳瓶を取り出してイッキ飲み。それがめちゃめちゃカッコよく見えました」

 多感な少年時代にアメリカ文化をシャワーのように浴びたことが、コレクター人生の原点なのかもしれない。

 コレクターといえばインドア派のオタクを思い浮かべるかもしれないが、北原の場合は違った。運動神経抜群の彼は、カラスが鳴くまで屋外で真っ黒になって遊んだ。

当時の京橋は空き地がまだたくさん残っていて、廃墟のようなビルを懐中電灯片手に探検。東京駅の枕木の下に隠れ家をつくり、日比谷公園の池ではザリガニ釣りを楽しむ。屋根伝いに明治屋まで行って、忍者気分を味わったこともありました

 しかし朝から晩まで好きなことばかりしていたおかげで、北原の通信簿は、体育以外ほとんどオール「1」。すっかり落ちこぼれていたのである。

 中学進学を前に、さすがの北原も焦りを覚えた。

やり場のない苛立ちにもがく彼を救った言葉

 4人きょうだいの末っ子に生まれた北原には、小さいころからコンプレックスがあった。

「2人の兄と姉は、いずれも小学校のときから成績がとてもよかった。だから物心ついたころから比べられ、なおいっそう“勉強なんかするもんか”と遊びほうけるようになりました」

 そんな末っ子の複雑な思いを知った両親は、「環境を変えれば、少しは身を入れて勉強するかもしれない」という親心から、北原を越境させ隣の千代田区の一橋中学に入学させた。

 ところがこの中学があろうことか進学校だった。いちばん勉強のできないクラスに入れられた北原は、最初のホームルームで担任の教師から、

君たちはほかのクラスの邪魔をするんじゃないぞ

 と言われ、ブチ切れた。

「勉強嫌いになったのは、自分のせいだということはわかっている。でも、越境入学までして“さあこれから頑張ろう”と思っている、ピカピカの1年生に向かって“人間失格”呼ばわりはないだろう

 怒り心頭の北原は、授業をボイコット。試験を白紙で出したり、窓ガラスを割ったりして先生たちの反感を買った。

 さらに悪友たちとつるんで盛り場をうろつき、何度か警察に補導されることもあった。やり場のない苛立(いらだ)ちこそ、反抗期の証。だがそんなことなど言ってはいられない事態に、北原は追い込まれる。

 その事件が起きたのは卒業を控えた中学3年の2学期。北原は「新聞沙汰」を引き起こして、義務教育課程にもかかわらず、まさかの退学処分となる。いったい、何をやらかしてしまったのか──。

父の真剣(刀)を見つけ、振り回しているうちに刀の目釘が外れ、柄(つか)から抜けた刃の部分が7階の自分の部屋から街中に落ち、大騒ぎになりました。

 その新聞を読んだ売れっ子漫才師コロムビア・トップ・ライトが、面白おかしくネタにして事件はあっという間に広まってしまいました」

 前代未聞の不祥事に、北原を見る世間の目はさらに厳しくなった。退学処分を言い渡され、立ち直れないほどショックを受けた。

いったい自分はなんのために生まれてきたのか。もう行き先など少年院しかないだろう」

 そんな北原を救ってくれたのが母のひと言だった。

済んだことはしょうがない。これからの人生のほうが、何倍も長いんだよ。めげることはない

 北原は驚いて顔を上げた。失意のどん底にある息子に母は笑ってこう語りかけた。

「おまえは、本当は優しい子なんだよ。花を踏むこともできなかったんだからね」

 それは幼稚園のころの出来事。末っ子のため、着るものや履くものは、いつも2人の兄のお下がりばかり。ところがこの日、新品のゴム長靴を買ってもらった。

 うれしさのあまり、雨上がりの空き地の水たまりにわざと入ってはしゃいでいた。その姿が母親には、道端に咲く花を避けているように見えたのだ。

たまたま花を踏まなかっただけなのに、そんな話を持ち出して慰めてくれる母。その優しさがうれしくて涙が出ました

 両親の計らいもあり、地元の中学に拾ってもらい無事に卒業する。そして私立本郷高校にも滑り込むことができた。

 捨てる神あれば拾う神あり。

──今度こそ。

 そんな思いで校門をくぐる北原を運命の人が待っていた。

ひとつの出会いがきっかけで劣等生から総代へ

 本郷高校は、水泳の北島康介やEXILE ATSUSHI、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の作者・秋本治、現代美術家の村上隆たちを輩出。生徒の個性を伸ばすことで知られている。

 個性的なのは生徒ばかりではない。教師もまた個性派ぞろい。北原のクラスの担任になった沢辺利夫先生は日本代表にも選ばれたラガーマン。気力あふれる熱血漢である。

 入学早々テストがあり、北原は三択問題とはいえ偶然にも60点を取る。すると熱血教師は、

北原、おまえやればできるじゃないか。すごいな!!

 まるで自分のことのように喜んでくれた。中学まで北原と向き合う先生など誰もいなかった。だから、なおさら沢辺先生の熱い言葉が刺さった。

 そのひと言が励みになり、次のテストでも結果を残す。

おまえは頭が悪いんじゃない。ただやらなかっただけなんだ。やればもっとできるよ

 そう言われ、北原は夢中で勉強に打ち込んだ。

「沢辺先生は僕の中学の成績や内申書が最悪の評価だったことも承知の上で、やればできると心から励ましてくれた。それがどれだけうれしかったか。

 でもこれまで勉強してこなかったから、基礎学力がまるで身についていない。そこでただひたすら教科書を丸暗記する。がむしゃらな勉強法で知識を身につけていきました

 しかしこの愚直なまでの“丸暗記”がやがて花開き、高校3年のときには、学年トップに躍り出る。卒業式では総代を務め、謝辞を読むまでになっていた。

ペケからトップへ。自己流だけどやればできることを証明してみせた。このときの成功体験が今に至るまで、僕の自信の源になりました

 のちに北原は「横浜教師塾」の塾長を2年間務めた。

子どもたちは何げないひと言で傷つく。成績が良かった先生たちには、勉強のできなかった子どもたちの気持ちがわからない。僕は両方の気持ちがわかる。先生を教える塾の塾長は、適任でした

 “人生最大の恩師”との出会いで、すっかり学ぶことが楽しくなった北原は、1浪の末に青山学院大学に入学。そのころには、コンプレックスの塊だった自分はもういなかった。

留学先で“開眼”した古きモノへの敬服の念

 大学に入ってはみたものの学園紛争が盛んなころで、授業はないに等しい。それならもっと有意義な時間を過ごそうと、海外へのスキー留学を決めた。

「2番目の兄が以前、スキー留学していた経緯もあり、僕もいずれ家業のスポーツ店を継ぐつもりでいたから、スキーの本場でもっと勉強しておこうと思い立ちました

 行き先は、冬季オリンピックが行われたオーストリアのインスブルック。スキーの腕前に磨きをかけるかたわら、多くの友人にも恵まれた。そんな矢先、ホームステイ先で思わぬカルチャーショックを受ける。

「彼らは買い物に行くときには、必ず自分たちで袋を持っていく。つまり当時からゴミなしのエコライフを実践していたんです。

 そして何よりも驚いたのは、家具など100年以上も昔のモノを手入れして、大事に使い続けていること。時計やラジオ、食器類に至るまで家中古いものだらけ。それを恥じるどころか、むしろ誇りに思っている。

 翻って当時の日本は使い捨て文化の真っただ中。この違いに驚きました。こうした経験が時代に忘れられようとしているモノたちに目を向けるきっかけとなりました

 帰国後、粗大ゴミ置き場を覗(のぞ)いてみると、まだ使えそうなモノが平然と捨てられていた。

「中でも目を引いたのがゼンマイで動く柱時計。折しも時代は電池式に変わり始めたころで、要らなくなったゼンマイ時計がゴミ箱行きになったのでしょう。持ち帰り、油を差し、ネジを巻いたらちゃんと動く。

 一時代前のモノにはその技術やスタイルを学んだヨーロッパの香りがある。それが舶来品のように思われ、なんとも魅力的に感じられて家に飾っておくことにしました」

 これが記念すべきコレクション第1号。しかし、しばらく眺めていると、ひとつではなぜか物足りなくなった。

 京橋にある古道具屋をふらりと覗くと、手作りの魅力にあふれた八角時計が掛かっていた。それを3000円で購入。これがきっかけとなり、北原は波瀾万丈のコレクター人生に足を踏み入れることになる。だが北原は、もともとモノに対するこだわりが強かった。

「小学4年生のとき、明治屋で見つけたミントグリーンの万年筆が欲しくて1年間小遣いや、買い物のお釣りをごまかしてお金を貯め、当時大卒の初任給に当たる1万5000円もするパーカー製の万年筆を手に入れました。あのときの喜びは今も忘れられません

雑誌に掲載された“ポパイ”が世の中を動かした

 後にパートナーとなり、世界的なコレクター・北原照久を支えることになる旬子さんとの出会いは、青山学院大学1年のときに遡(さかのぼ)る。

キャンパスで初めて見たときは、とにかく真っ黒け。それがスキー焼けだと後になって知りました」(旬子さん)

 京都の老舗天ぷら屋に生まれた彼女。共に商売人の家に生まれた者同士、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。

 やがてスキーの季節がやってくるとゲレンデに連れ出し、旬子さんのハートを射止めた。

彼女がリフトに乗ったタイミングを見計らって滑り出し、途中の急斜面でロング・ジャンプをキメ、投げキッスをする。リフトは大騒ぎになりました。

 オーストリア留学で磨きをかけたスキーのテクニックは当時、向かうところ敵なし。ゲレンデ中の女性のハートをわしづかみにしていましたよ」

 2人は北原が25歳のときに結婚。思い出の地・インスブルックから車を借りてベネチアまで走った新婚旅行も懐かしい思い出のひとつだ。

 一方、北原のコレクションに対する情熱には、結婚してみて改めて驚かされた。

「オンシーズンの毎週金・土・日は、必ずスキーのバスツアーに同行するんです。帰ってくるのは必ず夜。どんなに疲れていてもおもちゃの掘り出し物があると、それから車を飛ばして遠くまで買い求めに行きました。

 骨董市が開かれる日は“先んずれば人を制す”などと嘯(うそぶ)きながら、朝の4時には現地に着いていました」(旬子さん)

 しかしこれは、過去に苦杯をなめた経験があるからだ。あるおもちゃ工場から、

「奥から返品や売れ残りのおもちゃが大量に出てきた」

 と連絡が入った。しかし北原は高熱のためすぐに行けず、数日後に出かけたところタッチの差で屑鉄(くずてつ)屋さんにトラック一杯3万円を支払って引き取られていた。なんとも残念な話だ。

海外のコレクターも探していた貴重な自動車のブリキのおもちゃばかり。あれを捨てなかったら、今ならマンションが買えたはず。

 荷積みしきれずに転がっていたモノを集めて、引き取ってきました。もし間に合っていたらと思うと、悔やんでも悔やみきれません」

 そんな北原のおもちゃへの思いが花開くときがやってきた。'80年代を目前に北原がコレクションするブリキのおもちゃ「ポパイを乗せたプロペラ機」が当時の人気雑誌『ポパイ』の表紙を飾ったのである。

「おまけに本文の左肩にブリキのおもちゃが掲載され、編集部にも問い合わせが殺到。この号にもプレミアムがつきました。さらに『ポパイ』を追いかけるように、若者向けの雑誌がこぞってポップだけど懐かしいブリキのおもちゃの魅力を、特集してくれました

 そして迎えた'80年。人々が寝静まったころ、突然ブリキのおもちゃたちが動き出す西武流通グループ(現セゾングループ)のCMがオンエアされるや渋谷の街はこのポスターで埋め尽くされ、糸井重里の「不思議、大好き。」のコピーとともに一大ムーブメントを巻き起こした。

 しかもカンヌで行われたCMフェスティバルで銅賞を獲得。その快挙に続けとばかりに、三輪車のおもちゃやフラフープ人形が登場する『明星チャルメラ』。戦前の鶏のおもちゃがエサをついばむ『大和証券』のCMなど、さまざまなブリキのおもちゃがメディアを席巻していった。

 そうしたブームを背景に'82年、渋谷西武のイベントスペースで北原のブリキのおもちゃのコレクション展が開催された。すると2週間でなんと3万8000人もの観客が殺到。大成功のうちに幕を閉じた。

──おもちゃの博物館をつくろう。

 そう腹を決めたのは、まさにこのときだったと北原は当時を振り返る。

おもちゃが紡いだ、かけがえのない出会い

 現在、北原が開いているミュージアムは『ブリキのおもちゃ博物館』をはじめ『北原コレクションエアポートギャラリー』(羽田空港第1ターミナル)、『河口湖おもちゃ博物館』、『京橋エドグラン』などの常設館があるが、そのほかにも世界各地で展覧会を開いてきた。

 振り返れば'03年から6年間にわたって開催された、フロリダ州ディズニーワールドでの『Tin Toy Stories Made in Japan』をはじめ、サンフランシスコ、ロス、ニューヨーク、香港、中国の深センなどでもさまざまなイベントを企画、プロデュースしてきた。

 写真集も各国で発売され、今や北原照久といえば世界に冠たるコレクターとして知られている。

「日本でオタクだと思われがちですが、海外では情熱的にモノを集め大切に保存する“徳の高い人”としてコレクターは尊敬されているんですよ

 北原はコレクションを通して多くの縁にも恵まれた。

「映画監督のスティーブン・スピルバーグジョージ・ルーカスも大のおもちゃ好きで、私のブリキのおもちゃをプレゼントしたことがあります。

 ポール・マッカートニーや、ミック・ジャガーも来日した時に招待され、夢のようなひとときを過ごしました」

 こうした縁を北原は“おもちゃの恩返し”と呼び、深く感謝している。

 現在、神奈川県にある1200坪の倉庫には、おもちゃをはじめ、明治、大正、昭和のポスターといった広告ものや、現代アートなどさまざまなジャンルの数えきれないコレクションが眠っている。

 これらのほとんどはメイド・イン・ジャパン。北原にはコレクターとしての矜持(きょうじ)がある。

日本のモノは名もない職人さんが手を抜かずに一つひとつ丁寧に作っているから仕上がりが素晴らしい。経済的にも弱くなった日本を僕のコレクションで勇気づけたい。日本の誇りをもう一度取り戻したい。そんな思いで今もコレクションを続けています」

 縁を大切にするコレクターの北原は、モノと同じくらい人との縁も大切にしてきた。

 5月22日に『熊本マリ&北原照久“よこはまトイ・シンフォニー”』で共演するピアニストの熊本マリ。6年前、実は彼女は脳梗塞で倒れている。

「食事もとれずに、寝たきり状態。これからどうなるのかもわからず、不安だった私に北原さんは毎日励ましのメールをくれました。

 お見舞いのメールは言葉のチョイスを間違えると相手を傷つけてしまう。どういう言葉を使えば相手を励ますことができるのか。北原さんはよくわかっている人だと思います。そのメールを何度も読み返して元気をもらいました。今後もみんなに愛と希望を与え続けてほしいですね」

 と振り返れば、情報番組『ジャスト』(TBS系)で共にコメンテーターを務めた安藤和津は、夫である奥田瑛二が初めてメガホンをとった映画『少女〜an adolescent』で忘れられない思い出がある、と回想する。

「映画製作中に、信じていた知人に映画資金を持ち逃げされてしまい、私の持っていた指輪やバッグ、使っていたお皿まで売り払いました。それでも焼け石に水。途方に暮れていると、北原さんが横須賀市佐島のお宅でパーティーを開いてくださり、事情を説明してファンドを募ってくれました。

 お金ももちろんですが、人に裏切られ不信感でいっぱいだった私たちに、人間はそういう人ばかりじゃないよと教えてくれた、心を救ってくれた人生の恩人です」

 さらに家族ぐるみの付き合いをしている安藤は、こう話を続ける。

おもちゃの博物館をつくることは、映画を作るよりもリスキー。そんな夫の背中を押し続けてきた旬子さんの存在があってこその、今の北原さんだと思います。2人合わせたら、無限大の最強のパートナーですね」

人生を動かすほどの力を言葉に感じて

言葉には魂が宿る

 そう信じてやまない北原はSNSで毎日、「心に響く名言」を発信し続けている。

 北原を“大兄”と慕う、ジョニー大倉さんの長男・ケニー大倉は、

ケン坊、人生は性格だよ

 と言われ、救われたという。

「破天荒なジョニーの息子として生まれ、“お父さんのように悪そうになれ”と言われ、プレッシャーで苦しくなり、一時期、芸能活動から離れたこともありました。

 そんなトラウマを持つ僕は、大兄の人を思いやる気持ち、人に尽くす大切さを教えるこの言葉に救われました

 しかし北原はなぜ、言葉には魂が宿ると考えるようになったのか。そこには驚くべき実体験があったと話す。

 それは今から12〜13年前の出来事。難病に侵された友人を勇気づけるため、北原は自らのライブに歌手・麻倉未稀をゲストに迎えた。

「そこで麻倉さんが山下真司主演のヒットドラマ『スクール・ウォーズ』(TBS系)の主題歌『ヒーロー』を熱唱。その動画を録ってすぐに友達に送り彼に聴かせると、泣きじゃくっていました」

 その日から北原の友人は、麻倉の歌う『ヒーロー』の動画を、擦り切れるほど繰り返し見た。すると──。

生存率20%といわれていた友達が曲を聴いて1か月もたたないうちに生存率70%になり、翌年には完治して退院することができたんです。しかも7月には結婚。子どもまで授かることができました。信じられますか?

 それ以来“愛は奇蹟を信じる力”という歌詞が頭から離れなくなりました」

 この日本語詞を手がけた人こそ、誰あろう。中森明菜の『少女A』やチェッカーズの数々のヒット曲を手がけた売野雅勇である。

 ふたりはラジオ番組で出会い、今では“アニキ・売坊”と呼び合う仲になっている。

僕はアニキのことを“音楽のような人”と呼んでいます。

 僕の少年時代、ラジオからビートルズ、プレスリー、プラターズが流れてくると心がワクワクしました。ラジオを切った後も幸せな記憶は長く続きました。アニキと会うと、その“ワクワク”を、ものすごく感じるんです。アニキのように気持ちがきれいで心の美しい大人の人を僕はほかに知りません」(売野)

 ◆ ◆ ◆  

 たったひと言が人生を動かすと信じてやまない北原に、「今の若者たちに向けてひと言」とリクエストしてみた。すると、

優しさ、思いやり、人の痛みを知る

 という言葉が返ってきた。

 これは国民的な作家・司馬遼太郎が最後に残した言葉といわれる。

この言葉があれば、戦争もない。いじめもない。SNSによる心ない誹謗(ひぼう)中傷もなくなる。私はそういう世の中がくることを信じています

 自信を失い、迷走する日本の未来を背負う若者たちに送る、北原照久のこのメッセージ。

 あなたに届くだろうか。

取材・文/島 右近

しま・うこん●放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材、執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。

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